*...*...* Honesty 2 *...*...*
 ヴァイオリンを持つ手に力が入る。
 背後には自分の背の三倍くらいの長さの影ができて、心細そうに立っている。

 一体何やってるんだろう。
 見さかいなく、学院を飛び出して。乗ったこともない電車に乗って。見たこともない駅に降り立って。
 気が付いたら、私は、柚木先輩の家の前で足を止めていた。

 (どうしよう……)

 電話もなにも、してない。そもそも、家に招待されたことだって一度もなかった。
 なのに、私、どうして小さな子どもみたいに慌ててここに来てるんだろう……。

「あれ?」

 低いエンジン音が近づいてくる、と思ったら、門の手前で停まる。
 降り立った女の子は、軽く会釈をして私に笑いかけてきた。

「こんにちは。何か家にご用かしら? 新弟子さん?」
「あ、いえ、あの……っ」
「あら……?」

 艶を帯びた黒髪と、白い面輪は、いつも見慣れた人、そっくりで。
 匂やかで丸みのある頬だけが、見慣れた人と違う。
 そんな可愛らしい人は、私の制服を認めるとにっこりと微笑んだ。

「もしかして、香穂子、さん、でしょう? あたり?」
「は、はい! あの、私、柚木先輩と約束もなく、来ちゃったんです。だから、帰ります。ごめんなさい」

 さっきの柚木先輩の態度は冗談で。それか本当に体調が悪かったのかもしれない。
 明日になれば、柚木先輩は、いつも通り、なのかもしれないもの。
 やっぱり、帰ろう。

 目の前の女の子は困ったように私を見上げて。
 そして何気なく私の背後に目を遣ると、弾かれたように私の腕に手を通した。

「な、なに……?」
「……ごめんなさい。ちょっと急いでいただける? お祖母さまがお帰りになったみたい」
「は、はい!」
「私のお友達、ってことにして。少し走って?」
「走る、の?」

 私はそのまま手を引っ張られるようにして門をくぐった。
 空と、それを覆うようにして伸びている木々が、夕闇の中、朱く染まっているのがわかる。
 息が上がる。
 門から家へ続く道がこんなに長いなんて……。

 玄関へ入ってからも、何度も渡り廊下のようなものを曲がり続ける。
 思えば、ヴァイオリンを片手にこんな長いこと走り続けるのって初めてかもしれない。

 女の子は 肩で息をしている私を 大きい窓のある一室に通すと、安心したように白い歯を見せた。

「もうここまで来れば大丈夫よ。ちょっと待ってて。私、お兄さまを呼んでくるから。あ、私、妹の雅って言います」
「雅ちゃん? 初めまして。あの、私、日野香穂子って言います。本当にごめんなさい。こんな、いきなり……」
「いいのよ? そんな、気にしないで。お兄さまにご用なんでしょう?」

 雅ちゃんは濃いあかね色の座布団を差し出すと、ぱたぱたと席を立った。

「待って、雅ちゃん、私……」
「いいから」

 雅ちゃんは私の肩を撫でると、すっと襖を閉める。

 和室のこざっぱりとしたこの部屋は雅ちゃんの部屋らしい。
 窓から見える中庭と、大きなグランドピアノが印象的な部屋に通されて、私はため息をついた。

 (どういうことなんだろう。火原先輩に任せる、って……)

 ── 聞きたいこと。聞けなかったこと。
 聞きたいけど、聞くことに不安がよぎる。
 不安は私の中で大きく育って、思いもかけなかった行動を取らせたような気がする。

 私のこんな行動は、迷惑だろうな……。

「……あれ?」

 ふいにゆったりとした足音が耳に届いた。
 密やかな音。さっきの雅ちゃんとは違う、男の人の足音。

 背後で襖がなめらかに開く気配がする。
 ── 怒られる、かも。

「香穂子?」
「は、はい!」

 瞬間に私は頭を下げる。先輩の顔、まじまじと見つめられないよ。

「あ、柚木先輩。……あの、自宅にまで来てごめんなさい。
 さっきの、あの、屋上のこと、考えているうちになんだか、どうしていいか分からなくなって……」
「落ち着けよ、少し」

 柚木先輩は襖を閉めると、私の肩を押しとどめ、同じ場所に座らせた。

 まっさらな畳の上。和服姿の柚木先輩は、私の前に座った。
 鈍色の着物に、白い頬。漆黒の髪が冴え冴えと鋭いまなざしを覆ってる。

 それはまるで一枚の静かな墨絵のようで。

 柚木先輩は私のぶしつけな視線を受け止めると苦笑した。

「なに? そんなに俺の和服が珍しいの?」
「……はい」

 うちなんて 和室って言ったら、飾り付け程度の小さな六畳間しかない。
 けど この家にいる柚木先輩は、ずっと華道の家元として育ってきたような、和式のしきたりを扱い慣れた雰囲気がある。
 育ち、ってあるのかも……。
 ── 制服姿の先輩より、ずっと遠い感じがする。

「今度……」
「はい?」
「いや、何でもない。……で? どうしてここまで来たの?」

 柚木先輩は何かを言いかけた後、淡々と私の行動の理由を聞いてくる。
 確かにそうだよね。こんな時間に、何の連絡もなく突然押しかけるなんて、マナー違反だよね。

 嫌みたっぷりに怒られるよりはいいかもしれないけど。
 却ってその穏やかな様子に、戸惑ってしまう。

 ずっと……。そう、思ってた。
 コンクールが終わって。初めて本気で好きになった人。一緒にいたいと願った人。
 言って欲しい、って。全部。あなたが抱えている、いろんなこと。


 ── なのに、どうして?
 柚木先輩を想うたびに不安になるのはどうして?

 私は顔を上げて柚木先輩と目を合わせた。

「先輩は意地悪です。ちゃんと言ってくれなきゃわからないです。私じゃ力になれませんか?
 どうして? どうして一人で決めて、一人で先に歩いて行っちゃうの?」
「香穂子」
「……柚木先輩のお家とか、私もいろいろ、もしかしてそうかな、って想像する部分はあります。
 けど、それは私の想像でしかなくて、事実じゃないんです。
 柚木先輩がお話してくれる、って言うなら、どんなお話も聞きたいです。
 今の私が、柚木先輩にできることはありますか?」

 一気に言い募って。
 柚木先輩は、私の反論に何一つ口を挟まないで、厳しい表情で私を見ている。
 そんな様子に却って不安が増していく。

「……私じゃ、ダメかなあ……」

 言葉にする、って自分の気持ちを整理するのにはとても有効だと思う。
 けど、その言葉をぶつけられた相手、は、どうかな? ……イヤだよね……。

 そもそも、私が柚木先輩の悩み、とかを受け止めてあげられるのかな。

 柚木先輩は私の向こうに広がっている前栽に目を移すと、大きく息を吐いた。

「大したことじゃない。世間じゃよく転がってる話。── 見合い話」
「はい?」
「……俺の」
「そう言えば、そんなお話、コンクールの最初の方に聞いたことがあるような……?」
「まあね」

 夏でもないのに、ひやりと背中に汗が伝ったのがわかる。
 お見合い、ってことは……。それって、つまり、そういうこと、だよね。
 だから、もう私のことは火原先輩に任せる、って言ったんだ。

 ── お前は、もう要らない、って。そういうことなんだよね。


 柚木先輩はそれだけ言うと、口を結んだ。
 きっと私も同じ表情を浮かべてたんだと思う。二人の間に重たい沈黙が流れる。

 そういえば、いろいろ感じてたこともあったっけ。ただ自分が認めたくなくて、目を逸らしてただけのことが。

 『これ以上はダメだよ』って。
 『コンクールの間だけ俺のことを好きでいて』って。

 私を抱いた後に見せる悲しそうな表情も。
 家のことを聞くと、苦々しそうに話を逸らす様子も。
 ── 全部、わかってたことなのに。

 なのに、どうしてかな。どうして、私、今、こんなに傷付いてるんだろう……。

「……ありがとう、ございました。話してくださって」

 私は脇に置いてあったヴァイオリンケースを引き寄せた。
 ふふ、……ごめんね、リリ。
 音楽は柚木先輩と私を結びつけてくれたのに。
 それから続く架け橋にはなれなかったみたい。

「香穂子……」
「帰ります。……あの、玄関、教えてもらえますか?」
「は?」
「えっと……。実はね、雅ちゃんにあっという間にここに連れてきてもらって、場所、よくわかってないんです」

 柚木先輩は硬い表情で頷くと 襖を開け、私の前を歩き始めた。

 長い長い廊下。
 学院ほどではないにしても、普通の家とは全くかけ離れたような格式の高い旅館のような廊下を、柚木先輩は言葉少なに歩き続ける。
 緑が濃い窓の外に夜が迫ってるのがわかる。

「……大丈夫か?」
「ん……。今の状態が良くわかってない、のかも。……動揺、してる。
 でも、一つ一つ、納得してることもあるの。ああ、やっぱり、って」
「香穂子」
「あ、でも、気にしないでくださいね。本当のこと、お話してくださって嬉しかったですよ?」

 精一杯強がりを言う私に気付いたのか、柚木先輩は振り返って苦笑した。

「とてもそんな顔には見えないぜ」
「う……。そ、それはそうなんですけど」

 私は柚木先輩の表情に引き込まれていた。
 この顔、見たことある。
 最終セレクション。
 『恋は叶うと信じてる』という私に、笑いかけてくれた表情と同じ……。

 知らないうちに私の口は言葉を繋ぎ始めた。

「……ね、コンクールの間に、私、言いましたよね。『恋は叶うと信じてる』って。
 今もその気持ちには変わりがないの。けど……。それって相手あって、のことだ、って考えてたんです」

 片想いまでは一方通行でもいい。
 けど、一旦、気持ちが通じ合って。
 それから先、二人の気持ちが同じ大きさで繋がり合うことは難しい。

 もし、どちらかの気持ちが、冷めてしまったのなら……。
 残念だけど冷めた人を責めることはできないよね。

 残された方が、少しずつ傷の癒えるのを待つしかないんだ。

 私、できるかな。
 ……初めてこんなに近しくなった人を、たくさんいる先輩の一人だって、言えるようになれるかな?

「だから、……だからね。柚木先輩の気持ちがお見合いの相手の方に行ってしまったのなら……。
 ちょっと時間がかかるかもしれないけど、……私は、諦めます」

 きっと……。
 コンクールの間中、なんだかんだと話しかけたり、曲想を聞いたり。
 まとわりつく私を、柚木先輩は切り離せなかったんだよね。

 生徒会だって役員でもないのに、相談があるって言われると行っちゃう、本当は面倒見のいい人だから。
 それが仮の姿でも、私はそういうところ、とても大好きだったよ。

 自分の気持ちが過去形になっていることに、驚く。
 まだ、好きなのに。……どうして私、いい格好してるの?

 ── まだ、過去形にしたくないのに。


 柚木先輩は歩みを止めると、小さな部屋の襖を開けた。
 そして有無を言わせない力で、私を壁際に押しやった。

 拳が振り落とされる。
 叩かれる、と思わず身を潜めたとき、その手は、私の頭上の壁を叩いていた。
 背後で ざらりと 漆喰の壁が崩れ落ちて、畳の上で乾いた音を立てた。

「やっ……。な、何するんですか?」
「ねえ、どうしてお前に 今の俺の気持ちが分かるの?」

 息がかかる距離で問いつめられる。
 こんな、顔、見たことない。── 傷ついたような、泣いてるような。

「先輩……」
「俺の気持ちが見合い相手に向かってる、って、どうしてお前に分かるのって聞いてるんだよ」

 壁に止まっていた手は荒々しく私の両手を掴むと一つにまとめた。
 しゅるりと私のタイが首から外されるのを感じる。

「やめてください。……やっ」
「……言ってみろよ」
「いや! やめて……。……私、好きじゃない人とは、こういうこと、しない……っ」
「上等だね」

 羽織っていただけの上着はあっけなく畳の上に落ちる。
 買ったばかりのブラウスのボタンが鈍い音を立てて飛んだ。
 今まで一度も見たこともないような行動に、私の方がこわくなる。

 先輩の指は情け容赦なく私の中に入り込んできた。
 ふ、っと、意地悪な声が降ってくる。

「……こんなに濡らして。家に来たときから抱かれたかったの?」
「ち、違い、ます……。や、先輩……こわい」
「ふぅん。……お前はこわいと濡れるんだ」
「な……っ」

 柚木先輩は私の唇をふさぐように舌を差し込むと、私のそれと絡ませる。

 性急な指の動きと、安心感が伝わってくる舌と。
 ふと私の目の裏に、先輩のフルートが浮かぶ。
 ああ、今、私はフルートになってるんだ。
 息を吹き込まれて、指を揺らされて。
 音色の代わりに、泣き出しそうな声と蜜を出してる。

 そして、この音楽に終わりがないことを願ってる。……もっと、続きが欲しい、って。

「先輩……。もう、私……」
「さぁ……。どうしようかな?」
「あっ……」

 突然止まる刺激に、私の中が先輩の指を締め付けたのがわかった。
 柚木先輩は満足げに私の反応を確かめると、再びゆっくりと指を揺らし始めた。

「お前は 俺と一緒に立ち向かってくれないの?」
「だって……。どうすれば……?」
「ずっと好きでいればいいんだよ。俺のことを。……何があっても」
「そ、そんな……っ。……あ、もう……」
「ああ。お前は、好きじゃない人とは、こういうこと しないんだっけ? じゃあ、もう止めておこうか」

 あと少し、というところで、先輩はまた指を止めた。

 身体の中に熱だけが残る。上り詰めようとして、解放できなかった熱。
 悲しくて出てくる涙とは違う、生理的な雫が目尻に浮かんでくる。
 下腹部の熱を吸い取るかのようなキスが与えられても、はしたなく身体が求めてしまう。

「……好きです。先輩が……。ずっと。だから……」

 自分から先輩のそれに口づける。……こんなことしたのは初めてかも。

「だから?」
「……して」


 終わりのない音楽なんて、ありえなくて。
 私は先輩の指遣いに導かれるまま、泣き声をあげた。

「香穂子……?」


 薄目を開けると着物の前が はだけて、先輩の筋張った脚が見えた。
 張りつめた布の一部分。熱くて堅いものが私の下腹部に当たっている。

「先輩……?」
「ああ、これ? 気にしなくていい。続きは明日な。……あいつのことも考えないと」
「あいつ?」
「田中。……あまり遅くまで仕事をさせるのも、明日に響くから」

 柚木先輩は、私の服を直すと、そのまま私を膝の上に抱きかかえた。


 男の人、ってすごい。
 私がこの行為以外のことは何も考えられないときに、そんなこと 考える余裕があるんだ……。
*...*...*
 帰り道。
 さっきの熱が溶けないまま、私たちは二人で大通りまでの道を歩いた。
 隣りには、穏やかな表情を浮かべた柚木先輩がいる。

 難しい、って、私は顔をしかめてる。

 柚木先輩が話してくれたことは、私じゃどうにもならないかもしれない。
 いつかそれによって、私たちの繋がりは 終りにしなくてはいけなくなるかもしれない。

 ── けれど。

「香穂子?」
「……ううん? なんでもない」

 自分で決めなくちゃいけないんだ。
 信じる、ってこと。続けていく、っていうことを。
 自分が指し示す方向。その先に、柚木先輩が 手を広げてくれてる間は。

「柚木先輩……」
「なに?」
「あの……。一つお願いがあるんです」

 先輩はなんだ? とでも言いたげに私の続きを待っている。


 この人についていこう。
 ── 好きだから、いい。そばにいてくれたら、それだけでいいもん。


「もう、私のこと、火原先輩に任せる、とか言わないでくださいね。……他の人に任せないで」
「香穂子……」
「私、柚木先輩がいい」

 先輩の瞳はおやおやと言いたげに見開かれて。
 先輩の頬の赤味が、自分の告げた言葉の恥ずかしさをダイレクトに伝えてくる。

「わ、あ、あの、やっぱり今言ったこと、忘れてください。今の、なし、です!」

 私の頬に先輩の手が伸びてくる。
 先輩らしい皮肉な口調で どんな返事が返されるんだろう、と身構えていた私に降ってきたのは。


 ── 優しいキスとねぎらいの言葉。


 さらりと落ちる髪からは私と同じ匂いがする。



「……良く言えました」
←Back