「はっ?」
「いや、あいつのこと」
午後3時。学院帰り。
俺は、田中に少し待つように告げると車から降りる。
朝、迎えにくるときはいつもあいつは律儀に門の前で立ってるから、な。
こうして玄関のベルを鳴らすのは久しぶりかもしれない。
香穂子が学院を休み始めて3日目。
── 香穂子の顔を見なくなって3日目の日の午後だった。
*...*...* Depend *...*...*
インターフォン越しに自分の名前を告げると、ドアの向こうでこちらの気配を伺うような人の影ができた。
「ま、まあ。あの……、柚木、さん? 香穂子の……?」
出てきたのは、ほっそりとした中年の女性。……あまり香穂子には似ていない。
けど、のんびりとした話し方と声は間違いなく、血縁だと思わせる雰囲気が漂ってる。
あいつの、母親、か。
「はい。お加減はどうかと思い、お伺いしました。あの、香穂子さんは……?」
「さっき薬を飲んで寝ていますのよ。もう少ししたら起きるかと思うから、こちらでちょっとお茶でも」
他に家人はいないのか、部屋の中は落ち葉の落ちる音さえも響き渡るんじゃないかと思うくらい、静まりかえっている。
その間を縫って、しゅんしゅんと湯が沸くような音が聞こえる。
……さて、どうするか。
人が目覚める時間というのは曖昧だ。ましてや薬を飲めば、確証も不確かなものになってくる。
つまり、俺がお茶を飲んでも、香穂子が目覚めるかどうかはわからないわけ、で。
「さあ、どうぞ? 私一人でお茶を飲んでもつまらない、って思ってたところなの。よかったらご一緒して、ね?」
香穂子の母親は俺が家に上がると思い込んでいるらしく にっこりと笑うと、俺用のスリッパを置いた。
似ていないと思っていた顔の中に、香穂子の面影が見える。
── まあ、いい。
香穂子に関することならなんでも心地よく感じる自分がいるのが、わかっているのだから。
少しくらいの時間のロスはあとでどうとでも帳尻を合わせることができるだろう。
「はい。では、お邪魔します」
「お紅茶でいいかしら?」
「はい」
俺は 南に突き出た日当たりの良いリビングに通された。
ゆったりとしたソファーが庭の木々に面して置いてある。
床にひいてあるタペストリーが初夏の頃とは違う、暖かい雰囲気の居間だった。
「香穂子のこと、ね……」
かちゃかちゃを茶器に触れる音に続いて、部屋いっぱいに茶葉の香りが広がる。
振り返ると、香穂子の母親がティーサーバと茶菓子を持ってこちらに向かってくるところだった。
「親の私が良くわかってあげられなくて。きっと柚木さんに、すごくお世話になってるんでしょうね」
「いえ、そんなことは」
香穂子の母親は、湯気の立つ紅茶を俺の目の前に置くと、ゆっくりとした足取りで俺の対面に座った。
「あの子……。二人の兄姉とは少し年の離れてできた子なの。だから、家族で溺愛しちゃったのね。
それが良かったのか悪かったのか……。満たされ過ぎちゃったのかもしれない。
良く言えば、聞き分けの良い、悪く言えば、今まで自分の意志で何かを決める、ってことをしてこなかった子だと思うの。
星奏学院も、家から一番近いから、っていう理由だけで決めたみたいだったし」
俺は頷きながらカップを引き寄せた。
確かにそうかもしれない。
香穂子の天真爛漫さからは、そういった家族の優しさがにじみ出ているような気がしていたから。
そして、俺は、あいつのそんな性格と、音色に惹かれた。
そばにおいておくだけで安心できる。
── 惹かれて、離せなくなってきている。
香穂子の母親は紅茶の中にレモンをくぐらせるとソーサーに置いた。
途端に紅茶の中の金の輪が、花開いたように優しい色になる。
そんなことは、今まで何度も目にしているはずなのに。
香穂子の母親がそうするだけで、まるであいつが同じことをしているかのように見えてくる。
「それが……。高二の春先には急に、触れたこともないヴァイオリンをやる、って言い出して。
夏休み明けには音楽科に転科する、って言うでしょう? もう、なにがなんだか、母親の私が戸惑ってしまって」
「大丈夫ですよ? 香穂子さん、頑張っています」
俺は紅茶を一口味わうと、笑いかけた。
実際、あいつは良くやっていると思う。
夏休み明けからは、音楽科に転入してきたから、あいつの様子は以前よりも頻繁に見かけることも多い。
初めは戸惑いがちだった音楽科の授業にも慣れて、最近はクラスメイトと笑い合ってる姿も中庭でよく目にするようにもなった。
意外だったのは、思ったよりも、俺を頼ってこないこと。
こちらが受験生だから、と遠慮しているのか、どうなのか……。
今回の病気のこともそうだ。
顔色が悪いと何度も告げても、大丈夫です、の一点張りで。その挙げ句、3日も休んで。
(……全く、世話の焼ける)
もっと、言えばいい。
俺があいつを束縛するように、あいつも、俺にどうされたいか、言えばいいのに。
俺の言葉に安心したのか、香穂子の母親は心配顔をほころばせた。
「そう? 香穂子……。柚木さんをはじめ、他の音楽科の方にもお世話をかけてるんでしょうね。本当にごめんなさい。
……良かったら、これからも香穂子と仲良しでいてやってくださいね。
この家は、音楽のことに まるで疎い環境なので……」
そう言って、香穂子の母親は俺に頭を下げた。
「お力になれるかわかりませんが……。ぜひ」
作法通りに頭を下げてから、ふと思う。
高校生である俺に、頭を下げる香穂子の母親を見て、温かいものに触れたような気がしたからだ。
柱時計が遠慮しがちに時を告げる。……4時か。そろそろ引き際かもしれない。
まあ、香穂子に会えないのは残念だが、こうして、あいつの子どもの頃の話を聞けたのは収穫だったかもな。
また1つ、あいつをからかう材料ができた、ってことだしね。
俺は立ち上がって鞄を手に取った。
「じゃあ、そろそろ僕は帰らせてもらいます。香穂子さんにはお大事にとお伝えください」
「あ、いえ。せっかく来ていただいたんですもの。起こしてきます」
「いえ、それでは……」
「あんまり昼間に眠りすぎると、夜眠れない、って言うんですよ。もう起こしても良い時間なので」
香穂子の母親は立ち上がった俺を手で制すと、そのままリビングを出た。
とんとんと階段を昇る音が後に残る。
俺は再びソファに腰掛けると、窓の外に広がったイロハモミジを見つめた。
小さな家。小さな部屋。
いや、あいつの家族は5人だったか。だったら、これくらいの大きさは適当なのか。
(これからも香穂子と仲良しでいてやってくださいね)
香穂子の母親の言葉が耳朶に残る。
温かい、と感じた感情はこれが起因しているのかもしれない。
今まで、俺の父母は俺の友人に対して、こんな気遣いを見せたことはあっただろうか?
たまにひょいと遊びに来る火原に対しても、そんな言葉をかけたことがあっただろうか?
……まるで、ないだろうな。
自分たちにとって益なる人間、そうじゃない人間を峻別しているのが柚木家だ。
火原の顔と名前を認識しているかさえ、怪しいものだ。
こんな暖かい思いやりの言葉を、俺の家族の一人でも俺にかけ続けてくれていたら。
── 俺はこんな閉塞感を味わうことなく、大人に近づいていけたのかもしれない。
「……ん?」
思考を中断するような、せわしない二人の足音と共に小さなささやき声が聞こえてくる。
どうやら香穂子は起こされて、今の状況を伝えられているらしい。
「え? ゆ、柚木先輩? お母さん、本当? 冗談だよね?」
「お母さん、ウソは言いませんよ。さ、リビングにいらっしゃるから、早くご挨拶なさい」
「早くって、早くって……。髪の毛、ボサボサだよ〜。顔も……」
「いつもとあまり変わりませんよ。お待たせするのも悪いでしょう。
ほら、私は布団を風に当ててくるから、あんたはちゃんとお相手してね。お世話になってるんでしょう?」
「お世話、には、なりっぱなし……。だ、だけど……!」
「日野さん、お邪魔してるよ」
「は……、はい!!」
押し問答が続く中、ドア越しに声をかけると、香穂子の慌てた声がする。
ようやく覚悟を決めたのか、白っぽいカーディガンを羽織った香穂子がドアの隙間から顔を出した。
「よ、ようこそ、です。柚木先輩……」
「お母さんは?」
「え? えっと、二階に行きましたよ?」
「ふぅん。じゃあ、いいか。……ったく、早く出てこいよ」
「って、何がいいんですかーー」
「お前の母親といえども、ネコ被ってるのは疲れるの」
俺は立ち上がって香穂子の手を掴むと、そのまま自分の隣りへと座らせた。
伝わってくる体温はじんわりと高く、まだ微熱が残ってるのが分かる。
俺は自分の手が冷たいのをいいことに、香穂子の額を手の平で覆った
「わ、冷たいですよ……」
「だからやってるんだろ? ── まだ熱、下がらないのか?」
「ん……。もう、大丈夫だと思います。明日は学院に行けそう、です」
香穂子は俺の手の上に両手を重ねると 気持ち良さそうに目を細めた。
── そう。こんな風に。
いつも、どんなときも。俺に、頼れば、いいのに。
「それで……。なに? 音楽理論で手こずってるって?」
「は、はい? どうして知ってるんですか?」
まるで弦に触れるかのように楽しそうに俺の指に触れていた香穂子は、ぴくりと大きな目を見張った。
「先生が生徒に指導法を聞くっていうのも変な話だけど……。
相談されたんだよ。普通科から来た、可愛い落ちこぼれの生徒に どうやって教えたら良いだろう、ってね」
「本当に? そんな話題に出てくる私って、一体……」
香穂子は俺の手を膝に下ろすと、恥ずかしそうに笑った。
「音楽理論の谷口先生は、ちょっと表現がわかりにくいところがあるから。
俺がまとめた資料なら貸してやってもいいけど?」
「いいんですか? ありがとうございます! 助かります」
小さな刷毛で塗ったような朱い唇が微笑む。……本当は、まだ身体が辛いのかもしれないな。
でも。
こんな俺の些細な提案で喜ぶなら、香穂子自身から切り出せばいいんだ。
ノートが見たい、と。貸してくれ、と。
「香穂子……」
「はい?」
「どうして、もっと俺に頼らない? こんなの、お前が頼めば俺がすぐ貸すことくらい分かってるだろう?」
この頃は、屋上も突風がよく吹くようになったからか、香穂子は練習室でヴァイオリンを奏でることが多い。
俺はコンクール中の日焼けがウソのように引いた白い指を撫でた。
何も取り繕ってない爪先は赤く、動くたび小さな花がちらちらしているようにも見える。
香穂子は照れくさそうに微笑むと言った。
「……頼ってますよ」
「香穂子?」
「いつもね、先輩がいてくれると思うだけで頑張れるから。
……だから、頼ってますよ。すごく」