*...*...* Relation *...*...*
 俺は窓を背に立つと、軽く腕組みをした。

 金曜日。放課後の練習室。
 まだ小寒を過ぎたばかりの太陽は、思いもかけず低い位置で漂っていて。
 白く地面を覆った雪は、今日は消えないまま夕暮れを迎えている。

「じゃあ、始めるか」
「はい。……お願いします」

 香穂子は、部屋の片隅に置いてあった楽譜台をかたかたと立てかける。
 そしてヴァイオリンを肩に載せると、真剣な面持ちで弓を引き始めた。


 週に一度、こうして香穂子と音楽を仲に取り持って会う。
 別に大した話をしているわけでもない。ただ、聴いて。俺の感じたことを告げて。
 香穂子はそれを赤鉛筆でスコアに書き写していく。
 わからないところは更に問いただしてくる。
 2回、3回とフレーズを合わせるうち、香穂子の内面が輝き出すような音が広がる。

 そんなとりとめのない時間が、今の俺にとっては大切な時間でもあった。
 週末、受験という名目で自宅の外へ出ることの許されない俺の、格好な息抜きにもなっている。

(……なんだ?)

 俺は窓に背を預けると香穂子の指を見つめた。

 香穂子の音がおかしい。
 音の作る雰囲気が淋しげだとか華やかだとかいうのではない。
 そんな感情を乗せる以前の、たどたどしい音が耳を引っ掻く。
 全く弦に覇気がない。

 それは、いつも俺が感じる健やかでのびやかな音色ではなかった。

 香穂子は眉を顰めながらどうにか1曲弾き終えると、あごからヴァイオリンを外した。

「今日はどうしたっていうの? ひどく音が飛んでいるよ」
「はい……。ごめんなさい。今日は」
「なに?」
「身体の調子が悪くて……」

 俺はゆっくりと香穂子のそばに近づくと、手の甲で額に触れた。
 そこはひんやりと冷たく、外の景色のように白い。

「熱があるわけではないみたいだな」
「あ、はい。あの、違います……」
「じゃあ、なに?」
「……えっと……」

 香穂子の瞳がきょときょとと俺と窓の外を交互する。
 ほの白いと感じていた頬にすっと朱みが乗る。
 羞じらいを浮かべつつ、おろおろと変わる表情を見て、俺もようやく納得する。

 ── なるほど、ね。

 口に出して自分の身体の状態を告げること。
 それは、何度も俺に抱かれた今になっても、そんなに恥ずかしいことなのだろうか?

「……ああ。あれ、ね」
「そ、そんな、あっさり切り返さないでくださいーー」
「何言ってるの。自分じゃ言い出せなかったクセに。……ほら、座れよ」

 俺は香穂子が手にしているヴァイオリンを手に取ると、ピアノの端に置いてあった椅子に香穂子を座らせた。
 香穂子は下腹部に左手を当てると、ふぅっと深い息を吐く。

「女性がいろんな分野で一流になれないのは 生理があるからだ、としたり顔で言う年寄りがいるけど、
 お前を見ているとまんざら嘘ではないらしいな」
「はい……。痛いときはどうしようもないですね。頭がぼぅっとしてくるんです」
「今まで聞いたことがなかったけど」
「はい。……私の場合、寒くなると辛いみたい、です。あ、でも、なんともない時もあるんですよ?」

 ヴァイオリンはやや無理な体勢で弾く楽器だ。
 背中をしならせるより、普通の格好で座っていた方が楽なのか、香穂子もさっきよりは笑顔を見せる。
 そして両手を膝の上に乗せると、ふと羨ましそうな視線を投げかけてきた。

「男の人っていいな……」
「は?」
「だって、毎月こういうモノもないし、……それに」
「それに?」
「私がもし男だったら、柚木先輩と親友になれたかもしれないもの。── 今の火原先輩みたいに」

 俺の右手は手持ちぶさたに、鍵盤の上を走る。
 通常よりも2オクターブ高いフォーレの子守歌が室内に広がっていく。
 香穂子は興味深げに俺の指使いを見つめている。

 何度かメインのフレーズを繰り返した後、俺は香穂子の髪に触れながら告げた。

「俺はイヤだね。お前と親友だなんて」

 俺の皮肉っぽい口調がおかしかったのだろう。
 香穂子は負けん気たっぷりな表情を浮かべると、必死に応戦してくる。

「え? そうなんですか?
 ……うう、きっと私がおっちょこちょいだから、手間がかかる、とか思ってるんでしょう?」
「それも一理ある」
「一理、ってことはまだ他にも理由があるんですよね? えっと、なんだろう……。
 あ、もしかして、私の楽典のレポートをやらされるかも、って思ったりしてますか?」
「それも然り、だな。……香穂子?」
「はい?」

 鍵盤の冷たさは、指先から身体の中へと注がれる。
 右手で作っていた主旋律に左手で伴奏を付けると、フルートとはまた違う丸みを帯びたキー音が香水のように心地良く拡散し始めた。
 急に真剣に奏で出したピアノの旋律を、香穂子は首を傾げて聴き入っている。


 俺が男で。お前が女で。
 だからこれほどまでに親しくなれて。キスをして。抱き合えること。
 受け入れて、受け入れられて。
 お互いの一番弱い部分を触れ合わせて、それでもなお飽くことなく、求め続けていること。


 ── 俺たちの関係は、友達のままでは終われない。


 香穂子の痛みを、俺は代わってやることはできないけど。
 その分を、それ以上に。

 最後のフェルマータを必要以上に伸ばして、鍵盤から指を上げる。
 香穂子は手を止めた俺を不思議そうに見上げた。



「── お前が女で良かった、って思えるようにしてやるよ」
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