もうすぐ3月になろうという放課後。

 今日は試験もなんとか終わったし、久しぶりに早く帰るって言っていたお姉ちゃんと二人で、お菓子を作ろうかな、と考えていた。
 新鮮ないちごが手に入るこの時期。
 いちごと生クリームの関係って最高に合うと思うんだよね。
 食べ過ぎるとちょっとおなかが気になるけど、いいよね。旬のものって。
 上手くできたら美咲ちゃんと真奈美ちゃんに。すっごく美味しくできたら、柚木先輩に食べてもらえたらいいな。

「かーほ!」
「は、はい!」

 勢い良く教室の戸が開いた。と思ったら、キレイにセットした髪が覗き込んでいる。
 緑色の普通科の制服。
 こうして音楽科の中に入ると、目の端で捉えてたとしてもその布の存在を追い続けてしまうほど目立つ存在だってことに気づく。

「あ、天羽ちゃん!」
「ひっさしぶり。今日は内部進学で附属の音楽科に行く人とアポ取っててさ。
 ちょっと桜館に来る用事があったから顔出したの。どう、元気?」

「うん。ありがとう。相変わらずだよ?」
「そっか。……なーんて、この私が納得すると思ってる?」

 天羽ちゃんは誇ったような笑顔ですたすたと私の席に来ると、突然耳元に口を寄せた。

「やせた、というか、儚げなったというか。なに、香穂。
 音楽科に行ってからキレイになったんじゃない?」
「もう、天羽ちゃんたら。褒めても何も出てこないよー」
「や、ホントだよ。ほら、例の人と上手く行ってるのかな、って心配してないワケじゃなかったんだけど。
 やっぱり桜館と楓館の距離は遠いわ! 音楽系のイベントがないとなかなか立ち寄らないんだよね〜」
「そうだよね。……せっかくだからどこかでお茶でもしよっか」
「オッケー」

 天羽ちゃんはいつも元気だ。
 それは出会って1年近く経っても変わらない。
 すらりと伸びた足は、以前よりもほっそりと引き締まってる気がする。── 一歩、大人に近づいているような。

「まずは香穂、飲み物を調達するよ。ほら、おいで」
「うん」

 窓の外を見ながら考える。
 常緑樹についている葉が、まったくと言って良いほど揺れてない。
 こんな日なら、森の広場でも寒くないかな。
 私は天羽ちゃんと肩を並べると一緒に購買へ向かった。
*...*...* Yell *...*...*
 森の広場は、冬ということもあって、周囲にはぱらぱらと数人の生徒が談笑しているくらいのひっそりとした雰囲気だった。
 冬だから、ってどんな日もひとくくりにするのは好きじゃない。
 実際、今、私と天羽ちゃんのいるベンチは、ほっかりと春本番の日差しが降り注いでる。
 こういう瞬間って貴重だよね。

「で、香穂はどうなの? ── 今、幸せ?」
「幸せ?」
「そう。それが一番大事なコトじゃない? 私としても親友が不幸より幸せな方が良いに決まってるじゃない」
「んー、どうなんだろう……?」

 私は手にしているココアの紙カップを握りしめた。
『幸せ』
 私の想像していた恋、と、今の柚木先輩への想いとは、大きな隔たりがある、とは思う。
 周囲には内緒にしていなくちゃいけない恋。

 そのせいで、土浦くんや火原先輩、月森くんに余計な心配をかけた。
 金澤先生にも、迷惑をかけた。

 でも一番迷惑をかけたのは柚木先輩に対してだと思う。
 私の、先輩への想いが止められなくて。
 その結果、柚木先輩はお祖母さまとの間に深い溝ができてしまって。

『いつかは時間が解決するから。……お前は何も心配するな』

 車の中、家の話題を持ち出そうとする私を、そうやってなだめる人。

 苦しかったことと、楽しかったこと、どちらが多かった? って聞かれたら、今の私は素直に楽しかったことだよ、って即答することはできない。

 ── けれど。それでも、やっぱり。
 きっと何年か経った後でも、私は未来の自分に誇らしげに伝えられると思うんだ。
 あの人に、会えて良かった、って。

 天羽ちゃんは、私に返事を強要することなくゆったりとコーヒーを飲むと、空の向こうに目をやっている。

「天羽ちゃん。私、柚木先輩を好きになって良かったよ? 嬉しい」

 意地悪な口調で隠す、先輩独特の優しさ。
 春のコンクールが終わってから、週1のペースで聞き続けてくれた、私のヴァイオリン。
 夏休み直前の初めての夜。初めての朝。

 離れてても、柚木先輩の気持ちはずっと私のそばにあった。

 初めて、家の事情を全て話してくれたとき。
 なんだかピンと来なかった。普通の高校生である私にとってはあまりに遠い話のように思えた。
 諦めると言う私に、そんな傷ついた表情を見せるのはずるい。そう思った。
 けど、そんな先輩を一人にすることはイヤだった。

 ── どうしても、離れたくなかった。

「お? これはまたきっぱり言い切るね。香穂」
「えへへ。恥ずかしいけど、……今は、そう、かな?」

 受験が終わる頃、彼は正式にお祖母さまに今の気持ちを伝えたと、淡々と話してくれた。
 難しい家の中、どんなに彼が孤立してるだろうと思った。

『父がね、俺の想像よりも頑張ってくれたよ』
『そうなんですか?』
『ああ。彼の古い傷が、思いの外深かったらしくてね』
『???』

 彼の疲れ切った顔を見て、出会った意味を考えた。
 ヴァイオリンに出会った。音楽に出会った。そして柚木先輩に出会った。
 音と共に、私に映る景色は変わり始めた。

 今の私には、どれか一つが無くなっても、どうしようもなく辛いモノばかりで。
 でも、もし、私の柚木先輩に対する想いが、柚木先輩自身を苦しめているのなら、私は、どうしたら、いいんだろう──。

『った』
『俺の問題は俺が解決する。……だから』
『はい?』
『ちゃんと、ヴァイオリン、鳴らしておけよ?』

 そのときの、先輩の目がとても暖かくて。

 透き通るような穏やかな視線を感じて、会えない時間に育てていくものがあると知った。
 彼への想い。
 ヴァイオリンの技術。
 音楽史の知識。

 柚木先輩と過ごす毎日が、宝物のように感じられる今なら、私の指には自分でも知らなかった力が宿る。
 どんな音色も奏でられる、そう思った。

 溢れそうになる想いを、指に乗せる。音にする。── どうか、あなたに届くと、いい。

 けれど、そうして奏でる音全てにどこか悲しいそうな色が滲んでいることに、自分自身戸惑っている。

 あ、そうだ。今日も家に帰ったら、少しだけでも譜読みしなきゃ。
 今の私にできることって言ったら、それしかないもん。

 ふいと一塵の風が吹く。
 楓館を出てきたときには全くなかった雲が、薄く太陽を取り巻き出す。

「……私さあ」
「あ、ごめんね。ぼんやりしてた。なあに?」

 天羽ちゃんは手にしていたコーヒーを飲み干すと言いにくそうに口を開いた。

「今も、柚木先輩って良くわからないんだ。胡散臭い、とまでは言わないけど。
 ── そうだね。何度直接話しても、やっぱり良くわからない」
「ん……。確かにそう、かも」
「でもね、香穂っていうフィルターを通して見える柚木先輩は、とても好きだよ。
 普通の、優しい人なんだろう、って思える。親友がここまで大切に想ってる人ならきっといい人なんだろう、とかね」
「えへへ……。お礼を言うのもヘンな感じだけど、ありがとう」

 天羽ちゃんは片方の眉を大きく下げて私に片目をつぶってみせた。

「とにかく。辛かったら溜め込まないで、私に言いなよ?
 もうすぐ柚木先輩は卒業しちゃうわけだしさ。もっとオープンにしてても大丈夫だって。
 親衛隊も自然解散していくよ、きっと」
「あはは、解散するのかなー?」
「しないと思うの?」
「『大学生の柚木先輩を愛でる会』、とか? 名称が変わるだけで、存続の方向だったりして」
「うわ、強烈。それに香穂って、見出しのセンス、なさ過ぎ!」
「い、いいの!」

 天羽ちゃんは、親衛隊さんたちが柚木先輩の通う大学に押し寄せるシーンを想像したらしい。
 一瞬顔をしかめて、その後で大受けしている。
 そしてベンチからすくっと立ち上がると、振り返って笑顔を見せた。

「ま、コンクールが取り持つ縁ってことで、これからも仲良くしよう?
 たまには冬海ちゃんも誘って3人で遊びにいくのもいいよね」
「うん! また企画しよっか」

 釣られるようにして立ち上がる。
 4時を過ぎると、ぐんと冷え込みが増すような気がする。
 夏でもひょうたん池の周りは涼しい。ということは冬はやっぱり他の場所よりも寒いのかもしれない。

 私は、スライドの大きい天羽ちゃんの後を追うようにしてひょこひょこと歩いた。
 うう、それほど背は変わらないはずなのに、この歩く速さの違いって……。
 あんまり認めたくないけど、やっぱり脚の長さの違いなのかな?

「った」

 不意に前を歩いていたローファーが止まる。
 慣性の法則、だっけ? 歩き続けていた私は止まることができずに天羽ちゃんの背中へぶつかった。

「ご、ごめん、天羽ちゃん」
「ねえ、香穂。あんたには前に言ったことあったよね。私の家、両親が離婚してる、って」

 目の前の人は振り向こうとはしない。
 風に対抗するように髪の毛をかき上げる左手に、くすんだバンドの腕時計が顔を出した。
 いつも天羽ちゃんの元気のバロメータみたいな赤いバンドが、やけに寂しそうに見えるのは、どうして……?

「母親が出て行ってさ、何が1番困る、って、それは食事の準備なのよ。
 掃除はしなくても死なない。洗濯も週に1度って割り切れば慣れる。
 けれど、食べることを週1回にするわけにいかないでしょ?
 父親はからきし家事ができない人だから、食事の準備当番を 私とお姉ちゃん2人で分担して」
「ん……」

 天羽ちゃんの肩の向こうの木々の隙間から、柊館の校舎が見え隠れしている。
 天羽ちゃんは光の加減によって変わる校舎の色をなんて表現しよう、って悩んでいるような難しい横顔をして笑っていた。

「人生不公平だと思ったわよ。
 どうして周囲のみんなは、デートだコンパだショッピングだって言っている間に、
 私は朝 お姉ちゃんに言いつけられた ジャガイモを気にしてなきゃいけないわけ?
 大体、ジャガイモ買う なんてこと、ショッピングって言わないよね」

 天羽ちゃんは振り向くと、少し視線の下にある私の顔を見て微笑んだ。

「でもね。考え直したんだ。私は今、仕事も家庭も両立してるキャリアウーマンなんだ、って。
 今はその予行練習をしてるんだ。なんだか私ってすごい、イケてるじゃない? って」

 ずっと前、コンクールの間に、ちらりと聞いたことのある天羽ちゃんの家の事情。

 すごくさらりと告げられて。
 それも他人事のように伝えられたから、大変そう、って思ったものの、実際は何もかも社会人のお姉さんがお母さん役をしているのかな、って考えてたっけ……。

 ── 飄々と人の間を縫うようにして歩いている天羽ちゃんには、なんの翳りも見えなかった、から。


 言うべき言葉が見つからなくて立ちつくしている私の肩を、天羽ちゃんの大きな手が滑っていく。


「だから、よ。香穂」
「え?」
「あんた 人には言わないだけで ホントは柚木先輩のことで、いろいろ頑張ってるんでしょ?
 だから1つだけエラそうに助言するよ。
 きっと今ここでやってることは、どんなことも将来の自分の力になる、って。
 私はそう信じてる。だから毎日笑って過ごしてる。── 香穂も一緒に頑張ろう?」
「天羽ちゃん……」


 強い人、なんだ。天羽ちゃんって。

 誰もが持ってる、弱さや、痛み。
 それをこんな風に自分の機動力に代えていく。
 笑って、何でもないことのように乗り越えていく人。

 じわりと歪んだ視界を気付かれないように、私は頬を緩めた。

「もう、天羽ちゃん、泣かせ上手だなあ」

 でも私の気持ちの動きはしっかりバレていたみたい。とびきりの笑顔で応酬される。


「何言ってるの。── 香穂の好きな人、ほどじゃないでしょう?」
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