柔らかな風が吹く、この場所で。
*...*...* Graduation *...*...*
「やっぱりここにいたのか」
「……はい」

 とぎれとぎれに音を作っていた小さな背は、ドアの開く音に気付くと悲しそうな笑みを浮かべた。
 空の底が白い。春と言うにはまだ寒すぎる季節。
 屋上から見上げる空は、痛々しいほど硬質な美しさをたたえている。
 この制服とコートに別れを告げる、日。

 香穂子は肩からヴァイオリンを降ろすと、真っ直ぐな目をして俺を見つめた。

「卒業式、なんだか泣いちゃいそうでした」
「どうして?」
「ど、どうして、って……。そんな、当たり前じゃないですか」
「ふぅん。だから、どうして、って聞いてるんだけど」
「言わせるんですか?」
「ああ、聞きたいね。今のお前がどう思ってるのか」

 香穂子は手にしたヴァイオリンを頑なに握りしめている。
 まるで手にしているヴァイオリンが、自分の代わりに応えてくれるとでも思っているみたいだ。

「そ、そんなの、もう会えなくなるからに決まってるじゃないですか!」
「答えとしてはベタ過ぎるな」
「で、でもね。きっとね、新学期が始まってから、寂しい、って思う気持ちが強くなるんですよ。
 屋上に来ても会えない。教室に行っても会えない。
 学院中、どこに行っても柚木先輩に会えない、って。
 私、会えない、って分かってても、あちこち柚木先輩を探し回りそうな気がする……」

 香穂子は俯くと、俺の視線を避けるようにヴァイオリンをケースに片付け始めた。
 艶を持ったヴァイオリン本体にぽたりと雫が落ちる。
 香穂子はあわててハンカチを取り出すと、散った飛沫を拭き取った。

「……ば、馬鹿みたいですね……。ごめんなさい」
「別に馬鹿とは言ってないだろ?」

 俺は香穂子に向かってゆっくりと足を進める。
 フェンスの向こうには、海と空の境界線がどこまでも水平に広がっている。

 香穂子と出会ったのは1年前。
 出会う前の2年間のこの景色と、今、香穂子も含めたこの景色と。
 ── おかしなものだ。香穂子がいない景色が思い出せない自分がいる。

 すぐ隣りに香穂子の存在を感じながら、俺はフェンスを手に掴むと目の前に広がる景色を見つめた。

「お前は卒業を期に、俺とのつきあいも終わりにしようって思ってるの?」
「そんなこと、言ってないです」
「じゃあ、気にすることは何もないだろ? 俺たちの関係は今のままなんだから」
「ん……」
「それとも俺に言って欲しいの? ── 愛してる、とか、離したくない、とか」

 考えてみれば、俺は今まで香穂子に対して、一度もその手の類の言葉を囁いたことは無かった。
 そんな言葉は、俺の行動を見ていれば、分かりすぎるくらい分かるだろうと思っていたから。

 いや。それは単なる俺自身への詭弁に過ぎなくて。
 ── 香穂子に会うまで、俺は俺の感情を素直に吐露することに慣れてなかったのだろう。

 俺は香穂子の手を引っ張ると胸の中に閉じこめた。

「……変わらないだろう? 俺たちは」

 卒業しても。
 俺の立ち位置が変わっても。
 小さい頃から諦めることには慣れていたのに。
 俺の中のもう一人の俺は、いつも心寄せる場所を探していたような気がする。

 本当の自分を知っても、逃げない相手を。
 本当の俺を愛しく思ってくれる存在を。

 ── やっと見つけた。

 俺は腕の中の宝物を抱きしめる。

「俺はね、お前を手放す気なんてないんだよ。
 俺の卒業なんて俺たちの中では一つの通過点でしかない。だから、安心しておいで」
「…………」
「なに?」
「……泣きそう、です」
「……いいよ。泣いても」
「卒業式の間中、大丈夫、大丈夫って笑っていたんですけど……。
 柚木先輩の答辞を聞いてたら、いろんなこと、思い出しちゃって」

 俺はあごの下にある赤味がかった髪に指を通すと、胸に頭を押しつけた。
 鎖骨の下のくぼみは、今はすっかりこいつの額の形に馴染んでいる。
 押しつける力に反して、腕の中の暖かい身体が躊躇しているのが分かる。
 見下ろすと涙のせいで朱い頬をした香穂子が困ったように見上げてきた。

「だ、だめ、です。制服が汚れちゃう……」
「構わないよ。今日で終わりだから」
「あ、あの……。親衛隊さんたちが、先輩の制服とか、タイが欲しい、って言ってたの、聞きましたよ?」
「渡すわけないだろ? お前の匂いが染みついてるんだから。── いいからおいで」
「柚木先輩、でも……」
「ああ。もう、黙って」

 香穂子の口を自分のそれで封じながら、背中に添えた手に力を入れる。
 戸惑いながらも、ゆっくりと俺の力に飲み込まれる香穂子が愛しいと思う。
 それは腕の中、快感に引きずられて自分を見失ったときの香穂子にも似ている。

「思えば、お前の泣き顔って初めて見たな」
「うう、忘れてください。ずっとからかわれそうで、イヤだもん」
「……俺がみすみすそんな機会を失うと思う? ご要望どおり、ずっとからかってやるよ」

 コンクールが終わって、音楽科の制服を着た香穂子に出会った。
 話すほど、抱くほどに、想いが募った。
 火原の告白。柚木家の事情。
 別れを告げたときの香穂子の態度は潔く、俺の方が追いかけたくなった。
 クリスマスコンサート。ヴァイオリンに立ち向かうときの、鋭いまなざしを何度も思い返した。
 冬の日。言いたいことはあっただろうに、黙って、ただ俺を抱きかかえてくれていた温もりは、今も俺の中にある。

 ── もう、二度と離したくない

 俺は、胸の中、安心したように身体を預けている香穂子の手を握った。

「今日は2人で並んで帰ろう」
「え? い、いいです。遠慮します」
「今日で隠してる必要もなくなっただろう? ほら、早く、ついてこい」
「えっと……。ヴァイオリン、取ってきます。ちょっと待っててください」

 香穂子はふわりと手を放すと、ぱたぱたとヴァイオリンの置いてあるベンチへと足を伸ばした。

「……ん?」

 ふと耳を澄ますと、勢いよく階段を昇ってくる足音が聞こえる。
 リズミカルな足音は、途中の踊り場で一瞬足を止めたものの、さらに加速して一気にドアの前まで来たようだった。

「柚木!」

 元気に開いたドアから、火原の笑顔が飛び込んでくる。
 火原の肩の向こうに、表情が読めない月森くんと、ああ、あれは、志水くんか、冬海さんもいる。

「火原?」
「ゆっのき、卒業おめでとう! って、ははっ、おれも卒業生なのに、ヘンだよね。こういうの」

 見ると、火原はぴっちりと制服を着て、タイを締めている。
 卒業生が付ける胸の造花が大きく歪んでいるのは、そんなことにお構いなく走ってきたからだろう。

「ありがとう。それにしても、みんな一緒でどうしたの?」
「ねえ、合奏しようよ」

 火原は入学式に見せた笑顔のまま、俺を見上げると言った。

「これからも柚木は香穂ちゃんの前では弾き続けるだろうと思うけど。
 一応、── 一応だよ? 一応、今日で音楽科と別れを告げる柚木への はなむけに、って思って、
 コンクールのみんなと数人のクラスメイトに声、かけてる。
 柚木、初見、得意だったよね。だから大丈夫だよ、きっと。
 みんなで、合奏しよう? ね、そうだったよね。香穂ちゃん」

 香穂子は俺の隣りで大きく上下に首を振っている。

「香穂子、お前、知ってたの?」
「はい。えへへ、こういう内緒話なら、いいかなあ、って。ね? 火原先輩?」
「そうそう。今さ、土浦が金やんに場所のネゴ取りに行ってるところ。ね、行こう?」

 合奏。
 どうやらそれは春のコンクールメンバーと、3Bの親しかった友人たちで構成されているようだった。

 この手のことが大好きでたまらない火原は、床から2cmは足が浮いているんじゃないかと思えるほど、気持ちが昂揚しているらしい。
 うろうろと俺たちの周囲を歩き回っている。

 火原の背後にいる月森くんに目をやる。
 月森くんは不満げに火原を横目で見つめながら口を開いた。

「俺は本来、音楽は感情に流されるものではないと思います」
「ああ、それは正しい認識だろうね」

 容易に想像が付く。
 きっと火原は火付け役で。それにすっかり感銘を受けた土浦くんが同意して。
 土浦くんは、あれこれ渋っていた月森くんを、上手いこと焚きつけたのだろう。

 1歩先を歩き出していた火原が、満面の笑みを浮かべて月森くんを振り返った。

「とかなんとか言っちゃってさ。月森くんが1番熱心に練習してたよね。この合奏曲」
「火原先輩!」
「まあまあ、2人とも」

 俺は吹き出しそうになる口元を引き締めて、2人の意見を調整する。
 一応、正客である俺が、主催者たちを取りなしてどうするっていうんだ。

「けれど……」

 月森くんは火原を軽く一瞥した後、今まで俺が見たこともないような軟らかい表情を浮かべて俺を見た。

「なにかな? 月森くん」
「……音楽の本質を知っている方と合奏するということは、一演奏者として無上の喜びだと思います」
「はい……。僕もそう思います」
「はい、あ、あの……。私も、そう思います」

 志水くんがそう言うと、彼の言葉を補うように冬海さんは口を開いた。
 見ると彼女の頬は はにかむように赤らんでいる。

「私、去年の香穂先輩のやったクリスマスコンサートを聴いて……。
 ああ、来年は私たちもこうやってやるんだ、って思ったら、もっと合奏のことが知りたくなって、
 あの、火原先輩のお誘いに乗っちゃったんです……。ごめんなさい」
「いや。……ありがとう。感謝しているよ、みんな」

 1年生の2人に、元々この誘いを拒否する勇気はなかっただろう。
 というか、志水くんに至ってはこういう合奏の機会を逃すということは考えられなくて。

 火原はまるで自分の手柄だ、と言わんばかりの明るい笑顔を浮かべている。

「ってことで、交渉成立、だね? じゃあ行こう? 土浦、短気だからなー。早く行かないと怒っちゃうよ」

 火原の声に押されるようにして、先頭を月森くんが行く。
 その両脇、後を追うように志水くんと冬海さんが付いていく。
 3人の一歩後をついて、親友と恋人が進む。その間に俺がいる。

 白い制服の波。

 この景色を、俺はどこかで見たことがある。
 ああ、そうか。高校1年の春、入学式の日。
 俺は、自分の前を歩く白い制服たちを、何の感慨もなく目に映していた。
 講堂へ行く途中、同じ新入生だった火原の張り切りぶりに目を見張った。けれど、ただ、それだけだった。
 中学でかぶり続けていた仮面のままの俺で、新年生の挨拶代表をそつなくやって。
 その続きのように3年間を優等生で過ごす。
 3年という時の流れに、なんの期待もしていなかった。

 それが今はどうしたっていうんだ。

 3年前と同じ、当たり前すぎる光景が、今はひどく感情に焼き付いてくる。

「柚木?」
「柚木先輩? どうしたんですか?」

 無口になった俺を、火原と香穂子が不思議そうに振り返る。

「……いや。何でもないよ」

 俺は熱くなった目頭を隠すように、髪の毛をかき上げた。


 出会って。話して。共に奏でた。
 音楽を通じてみんなに出会った。
 こんなにも愛していたんだ。
 ── ここで一緒に過ごしたこの時を、俺はずっとずっと覚えていよう。

 いつか、これから先、俺自身が途方に暮れたとき。
 家での確執。香穂子との関係に戸惑ったとき。

 今、湧き上がる感情は、俺自身の存在の拠りどころになってくれるだろう。


 両脇の2人は楽しそうに話を続けている。

「火原先輩、練習、バッチリですか?」
「うん! 香穂ちゃんも大丈夫? この前、ミスって月森くんに叱られてたでしょー。
 2章のフラジるところ、できるようになった?」
「え? ……見てたんですか?」
「とーぜん! あ、そうだ。これ、柚木へのクイズにしたら? 香穂ちゃんがミスったところはどこでしょう? って」
「うわあ……。って、クイズにしなくても柚木先輩にはわかっちゃいますよ。先輩は耳がいいから。ね? 柚木先輩?」
「……さあ、どうだろう?」

 批評、というのは、主観的立場に立っていては実践することは難しい。
 自分の中のもう一人の自分を自分の外側に立たせることで、初めて完璧に執り行うことができる類のモノで。

 これほど感情が高ぶっている俺にその所作が出来るかと問われると、今は出来るはずもないだろう。


 俺は余計なプライドが邪魔をして 口に出せない言葉を、二人の背中に向かって告げる。




(── ありがとう)
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