*...*...* Call *...*...*
「選曲は?」

 火原のあとを追うようにリズム良く階段を降りながら、俺は尋ねた。

「え? あ、えーっと、なんだったっけ? 香穂ちゃん。
 シューマンの可愛い曲だったよね。タータタタタタタータータ〜、って曲」

 火原の屈託のなさに俺の頬は自然に苦笑を浮かべる。
 もし俺だったら、きっとこんな答え方はしないに違いない。
 仮に楽曲名を忘れていたとしても、素知らぬふりをして相手に聞き返すなどして、自分が失念していることを相手に気取られないようにするだろう。

 けれど、俺は火原の無邪気な人柄が好きで。
 だから3年間ずっとなんの疑問もなく、親友でいられたのだとも思える。

 香穂子は くすくす笑うと俺の顔を見上げた。

「えっとね、楽曲名はシューマンの3つのロマンス第二曲、です。火原先輩のメロディは正しいです」
「ああ、あれね」

 春のコンクール。最終セレクションのとき、フォーレの子守歌の合間に、楽しそうに香穂子が弾いていた曲。
 俺が同曲でやり合おうと言わなかったら、香穂子はこの曲を奏でていただろう。
 そしてその後も、練習の合間に懐かしそうに弾いていた。
 単純接触の原理、とでもいうのか。
 俺もいつしか、この曲を聴くと、香穂子の柔らかく結んだ口元を思い出すようになっている。
 俺にとっても、愛着のある楽曲でもあった。

 ……そういえば、ときおり、その音を探すようなそぶりをしていた志水くんを見たことがあったな。
 けれど、それを敢えて香穂子に告げる必要は、もう、ないだろう。

「そうそう。選曲を香穂ちゃんと冬海ちゃんにお願いしてたら、二人ともコンクール中に練習してたこの曲がいい、って言い出してさ」
「はい。私と冬海ちゃんの大好きな曲なんです。華やかでちょっと切なくて。素敵な曲だと思いませんか?」
「ああ、まあね。悪くない」

 『3つのロマンス第二曲』はロバート・シューマンが作った愛らしい名曲だ。
 家の反対に遭い、いったんは音楽を諦め法律の世界に入ったシューマンは、妻クララと出会い、再び音楽に引き戻されたと言われている。
 なんの迷いもない、暖かい喜びが溢れている旋律とはうらはらに、彼のその後の人生は、クララと弟子・ブラームスとの恋を疑い続けて、自ら生を絶つ。

 古人の生き様が今までの自分と似通っているから、といって、これから先の俺の生き方が類似するわけではない。

 けれど。
 ── 未来の俺は、今の俺のこの瞬間を、どんな風に感じるのだろう。

 俺はメロディを口ずさむ。
 あのフルートパートは確か、第2フレーズからだったな。

 俺は相棒のフルートのぬくもりを手の平に感じる。
 学院に来るとき、いつも携えてきたフルート。
 そんな俺の様子を、お祖母さまは ときどき 胡散臭げに見ていたが、俺は気付かぬふりをし続けた。
 春のコンクールが終了したら手放そうと思っていた相棒。
 一度は手放して。
 そして、香穂子のヴァイオリンを聴くにつれ、受験が終わった今、また手すさびに奏で始めた楽器。

 学院に通う3年間は、音楽を身近においておきたい。そう感じられることが幸せだった。

 講堂に入ると、舞台の上のグランドピアノで指慣らしをしていた土浦が手を止めて 立ち上がった。

「遅いですよ。火原先輩」
「ごめんごめんーー。これでも早く来たつもりだったんだけど」
「まったく。合奏のこと、途中で誰かに言ったんじゃないですか? すごい人ですよ、ここ」
「え? えーっと、あ! って言っちゃいけなかったの?」
「……やっぱり犯人は火原先輩でしたか」
「いいじゃん。かえって盛り上がるでしょ? 結果オーライだよ!」
「やれやれ。── 俺も本気、出さなきゃいけなくなるじゃないですか」

 土浦は口ではそう言いながらも、引き締まった顔をして観客席に目をやっている。
 3Bのメンバーや、香穂子のクラスの2Aのクラスメイトは全員揃っているのか、殆どが見知った顔だ。
 前列5列の席は殆ど空きがないほど埋まっている。

 その事実は、演奏者全員の気持ちを高めるのにも一役買っているに違いない。

 月森は気合いに満ちた表情を浮かべて、ヴァイオリンを取り出した。
 火原は、オケ部で人を指示しなれてるのだろう。てきぱきと采配していく。

「じゃ、えっと、立ち位置は、柚木はここね。香穂ちゃんと月森くんは、ここ、っと。管と弦で分かれた方がいいよね」
「火原先輩……。僕は どこへ 行けばいいでしょうか……?」
「あ、志水くんは、香穂ちゃんの隣りかな。そう、椅子のあるところ。冬海ちゃんは柚木の隣りね」
「つーかさ、香穂子。これって、ピアノ抜きの五重奏曲だよな。ピアノ伴奏、楽譜探しから、えらい苦労したぜ」
「ごごめんね、土浦くん。でも、指揮者さんなしの演奏の場合、ピアノ演奏者さんが指揮者さんの代わり、で……。
 正確なリズムが取れる人が一番なの」
「ああ、別に香穂子を責めてるわけじゃねえよ。音楽科にピアノ弾きはたくさんいるっていうのに、わざわざ俺を選んでくれたんだもんな。感謝してるぜ」

 香穂子はパタパタと俺の前の楽譜台に楽譜をセットする。

「柚木先輩の楽譜はこれです。メインフレーズは第2から。フルートパートのソロがあります」
「ありがとう」

 俺は素早く楽譜を目で追った。

 メロディも知ってる。指使いもなんとかなる。けれど、毎日奏で続けてる人間と比較すれば明らかに劣る。
 でもたとえ初見というハンデがあっても、ここで俺の自尊心を傷つけるは、この上なく不本意なことで。
 ── このコンクール参加者の見ている中で、ミスなど一度もしたくない。
 俺は さりげない風を装って、指使いを頭にたたき込んだ。

 土浦は鍵盤の上滑らかに指を滑らせると、深く腰掛けて息を潜める。

「じゃ、そろそろ行きますか。── テンポは? 月森」

 月森は弓を構えるとふと俺を振り返って言った。

「柚木先輩が初見あることを考えると、ゆっくり目のLargoはどうだろうか?」
「いや、お気遣いありがとう。譜面通り、Andanteで構わないよ」
「大丈夫? 柚木」
「ああ。火原も心配しないで」
「じゃ、いくぜ」

 土浦はそういうと、ゆっくりと前奏を響かせ始める。
*...*...*
「ブラボー!!」
「素晴らしいわ」
「このメンバーでの合奏って貴重よね」

 講堂は、壁が揺るぐほどの拍手と歓声に包まれている。
 俺はフォルムを元に戻すと、観客席に向かって一礼した。

 いつの間にこんなに人が集まっていたのだろう。
 音楽科の白い制服で埋まっていた講堂は、今は普通科の制服の方が大多数を占めている。
 元々、音楽科は1学年で2クラス、普通科は5クラスという違いもあるからだろうが、これほどの人数が集まってくるとは……。
 俺としたことが、久しぶりの合奏に没頭して、周囲のことを真剣に捉えていなかったらしい。

 まあ、いい。
 それもまた一興、といったところか。

 以前の俺なら、絶えず人の目を気にし、最高の自分を演出することばかり考えていただろう。
 けれど今は。
 こんな場をくれた、火原や、香穂子。コンクール参加者の気持ちに身体を委ねて。
 余計なプライドが邪魔をして言えなかった感謝の気持ちを音にする。
 音は旋律を作り、旋律は言葉を生む。

 ── 俺はその中で 俺自身の言葉を言えたら、いい。

 割れんばかりの喧噪の中、俺たちは構えていた楽器を手に目を見合わせた。

 意外にも真っ先に口火を切ったのは志水くんだった。
 彼はふらりと立ち上がると、俺に向かって一礼をした。

「柚木 先 輩。火原 先 輩。……卒業 おめでとうございます。
 こんな 合奏の場を 授けてくれて、……僕は とても 嬉しかったです」
「いや。僕こそお礼を言わなくちゃね。素晴らしい後輩たちとこうして再び演奏する機会を設けてくれたことに感謝するよ」

 俺と火原の間に囲まれた冬海さんはクラリネットを手に笑っている。

「あ、あの……。お二人とも、大学、お忙しい、とは、思うんですけど、またぜひ星奏にも遊びに来てくださいね」
「あ、おれおれ。おれね、きっとオケ部の指導にしょっちゅう来ると思うよ。第二の王崎先輩? な感じで!」

 一方、月森と土浦は相変わらずの様子で、お互いの批評を始めている。

「土浦。後半のメロディ、ちょっとテンポが速まったようだ。感情に乗せて良い音とそうじゃない音があるだろう?」
「いや、悪い。あのあたりから急に観客が増えたんだよ。ちょっと調子に乗ったかもしれないな」
「珍しいな。君がそんな風に謝るのは」
「まあな。今日は先輩たちの卒業式だろ? 節目の日に、お前とやり合うことなんてしたくないんでね」

 春の頃と比べると、月森の音色は明らかに優しくおおらかになってきているし、土浦のピアノタッチは、激しさの中にも相手に合わせようとする余裕が生まれてきているようだ。

 ── このメンバーで、奏でているのが心地良い。
 そう感じるのは悪いことではなかった。

 俺は目の端に香穂子を捉える。

 温かい音を作り続けていた女の子は、どのメンバーの話題にも入らずに ただただ優しそうな目をしてメンバーのみんなを見つめていて。

 それは周囲にとっては何でもないいつもの香穂子だった。
 しかし俺からすると、今の楽曲の優しさに身を委ねることで、音楽の喜びや哀しみ、全ての感情を受け入れて、許しているような、大きな存在にも見えてくる。

 俺は、一歩、香穂子に近づく。

「香穂子?」
「あ……。ごめんなさい。ぼんやりしてました。あ、あの、譜面台と椅子、片づけてきますね」
「逃げるなよ。どうした?」
「……合奏、ありがとうございました。私……」
「どうして礼なんて言うの?」

「柚木さまーー!!」

 突然の甲高い声が耳を突く。
 その方向に振り向くと、見覚えのある顔たちが舞台下で笑みを浮かべている。
 ったく。仕方ない、か。
 俺は香穂子に軽く頷くと心の中でため息をついて、舞台脇の階段を下りていった。

「柚木さま。とても素敵なフルートでしたわ。
 これなら、どこの音大でも、いいえ、そのまま海外に行っても通用しそうな腕前ですわ」
「私、そうなったらそうで、どこまでもついていきます」
「やあ。ありがとう。君たちもこれから最上級生として、星奏学院の品位を保ち続けて欲しいな」
「柚木さまのおっしゃることでしたら、もう!」
「大学に行かれても、ぜひまた星奏学院に遊びにいらしてくださいね!」
「ああ、そうだね」
「そういえば、今度柚木さまが入学される大学についてなんですけど……」

 話はとめどなく流れ続ける。

 彼女たちは香穂子と同じ2年生。入学した当時から騒ぎ出したから、かれこれ2年のつきあいになる。
 けれど、きっと。
 1ヶ月後、街で彼女たちを見かけたとしても俺は彼女たちの顔を思い出せないに違いない。

 俺が女3人に掴まっている間に、舞台の片づけが終わったのだろう。
 さっきの音色がウソのように静まりかえったそこには、俺のフルートケースだけがスポットライトを浴びて静かに佇んでいる。

「柚木ー。そろそろ帰るよー」

 火原の声に押されるように香穂子は一番最後に階段を下りると、ぺこりと俺に頭を下げて通り過ぎようとした。

「そうだね。── ねえ、香穂子。悪いけど僕のフルートケース、取ってきてくれないかな?」
「は、はい??」

 香穂子は、女たちの真ん中で、自分の名前を呼ばれたことにぎくりと身体を硬くしている。

「ま、まあっ! か、香穂子? ですか。日野さんのことを」
「やっぱり噂は本当だったのですね。日野さんったら、ずっとウソついてた、ってことなのかしら!?」
「柚木さまにとって日野さんはやっぱり……っ」
「柚木さまのお優しさに頼って、でしょうね。許せませんわ」

 俺は悲しそうな表情を浮かべると、彼女たちを見回した。

「違うんだ、君たち。……嘘をついていた、っていうのは僕の方かもしれないね。
 彼女は僕が受験生であることを考えて、ずっと黙っててくれたんだよ」

 まあ、俺にしてみれば今日の卒業を持って、このゲームは終了。これで、何も隠していることはないわけだし?
 元々俺にとって彼女たちは、自分の地位を高めるための便利な道具に過ぎなかったのだから。

 香穂子はその場から逃げたい一心だったのだろう。
 小気味良く階段を駆け上がってフルートケースを手にすると、俺の前に差し出した。

「じゃあ、私はこれで……」

 そしてそのまま背を向けようとする。

 ……やれやれ。まあ、香穂子の気持ちも分からないではないけどね。

 これから先、俺のいない学院で、香穂子にちょっかいをかける人間が現れても困るから。
 ここで布石を投げておくのも良策というものだろう。

 俺はフルートケースごと香穂子の手を引っ張る。
 そして香穂子を人の輪の中心に連れてくると、笑顔を作った。

「彼女は僕の特別なんだ。だから、これからも良かったら仲良くしてあげて欲しいな」
「な……っ! ゆ、柚木先輩!?」

 俺は逃げようとする肩をしっかり掴むと、耳元に囁く。

「……それ以上逆らうと、意地悪するよ?」

 その声を聞き届けると、もがき続けていた肩は、観念しきったようにおとなしくなった。
 思いもかけない展開で、顔も上げていられないのだろう。
 ひたすら靴のつま先を見つめているような後ろ姿からは、小さな朱い耳が見え隠れしている。

「ということで、よろしくね。みんな」

 俺は一人一人の目を見て微笑んだ。
 人の感情を上手に操る。思えばこの所作も柚木の家にいたからこそ身に付いた芸当かもしれない。

 3人の女は何か決心したように頷くと、挑むように一歩前に出た。

「柚木さま。わかりましたわ……。でも、一つだけ質問に答えていただけますか?」
「ああ。なにかな?」
「柚木さまにとって、日野さんのどこがそんなに良かったんでしょう?
 この半年、音楽科に来た彼女を隣りのクラスでずっと見てましたけど。
 彼女、ちょっと練習熱心な、普通の人じゃありませんか」
「そうそう。悪い人ではないけど、普通すぎて柚木さまと釣り合ってる、って感じはいたしませんわ」

 手を置いている肩にぴんと力が入ったのが分かる。
 香穂子は赤らんだ頬をして振り向くと、また恥ずかしそうに下を向いた。

「そうだね。── まあ、君たちもきっと分かるときが来るんじゃないかな? 自分の特別に出会ったときに」
「ま、まあっ!」
「じゃあ、僕たちはそろそろ失礼させてもらうよ」

 俺は香穂子の肩から手を外すと、一歩先に歩き出す。
 背後から、香穂子の『ごめんなさい』という小さな声が聞こえる。
 足音と共に、隣りに甘い匂いがやってくる。
 ちらりと横目で様子を伺うと、香穂子の頬は羞じらいではない朱い色が浮かんでいる。

「も、もう……。柚木先輩。どうしてあんなこと、言ったんですか? 恥ずかしいです!
 柚木先輩は卒業だけど、私、明日も学院に行くんですよ?
 クラスは違うけど、私、明日、絶対また親衛隊さんの近衛さんや新見さんに会っちゃうんですよ?」
「ふぅん。……で?」
「そ、それで、きっと言われるんです! 『釣り合ってない』って。うう……。あまり聞きたくないかも」

 香穂子は突然の成り行きにすっかりしょげきってる。
 そんな顔さえも愛らしいと思う俺は、どこかおかしいのかもしれない。

「ああ。明日から春休みか。大学の入学式まで結構時間があるな」
「ん……。そうですね。いいなあ、先輩は 少し長めの春休みですね」

 香穂子を元気づけるためのとっておきの言葉が言えたらいいけど。
 今日これ以上刺激の強い言葉を投げかけたなら、こいつ、ずっと頬が朱いままかもしれないから。
 あれこれ考えた挙げ句、俺は2番目に浮かんだ言葉を告げる。

「俺の暇つぶしに付き合えよ。明日からずっと」
「え?」


「甘えにおいで。── 言われたぶん以上に話を聞いてやるから」
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