*...*...* Finally *...*...*
 緊張した面持ちの花嫁が、スツールに腰掛けている。

 手の平に載りそうなほどのティアラがまず目につく。
 花嫁の顔は見えない。
 背中を覆ってなおあまりあるほどの長いチュールに隠れてるせいだ。

「香穂子?」
「あ、柚木先輩……っ」
「おやおや。まだそんな風に俺を呼ぶの?」
「……ま、まだ慣れません!」
「そう? まあ、先は長いんだ。ゆっくり慣れればいい」

 柚木の家は、代々花嫁衣装は和装だった。
 俺の知る限り、2人の兄嫁も、姉も。雅もそうだった。
 だが……。

『ねえ、香穂子。お前はどうしたいの?』
『えっと、できれば……。ずっと着てみたいって思ってたドレスがあるんです。
 白、っていうよりも、透明な感じなんです。チュールが、長くて。
 花嫁さんの身体が教会に入っても、まだ、チュールは廊下にあるんですって』
『そう。だったら、それを着れば?』
『え? だって……。いいんですか?』
『お前がそうしたいなら、俺は応援するよ』

 柚木の家がどう、というよりも、俺自身、香穂子が着たい、というものを着せてやりたい。
 そうすることで、10年という年月を一緒に過ごしてきてくれた、こいつへの感謝の印にしたい。そう思ったからだ。

 幸いなことに、両親も、祖父母も、俺たちの結婚式については、何もかも俺の意志を尊重するという思いが根底にあったようだ。
 淡々と進んでいく準備に、何1つ意見らしいことを言ったことがなかった。

 香穂子との結婚の準備は、元々離れていたモノが、1つになるような。
 そして、全ての物事が上から下へと落ちる水のように、静かに穏やかに流れていった。

「長かった、な」
「ん……」

 緊張からか香穂子の顔は上気している。
 この頬の赤味がなかったら、香穂子の顔は白いチュールに紛れて、消えてしまいそうな はかなさだ。

 俺は、控え室の窓から、新緑を眺めた。
 梅雨の合間の碧は、昨日からの雨を吸って一段と輝きを増している。
 大嫌いだった自分の誕生月。それを好きになるきっかけをくれた香穂子に感謝しながら。

  ── 今日、香穂子は俺の6月の花嫁になる。

「── いつからか、お前に惹かれていたよ」
「柚木先輩……」
「柚木の家のことでは、長い間、お前を苦しめてきたね。
 ……手放した方が、お前が幸せになれるのかもしれないと思った。
 ── いっそ、何もかも話して、火原に譲ろうか、ともね。
 あいつなら、お前のこと大事にしてくれそうだから」

 この手の話をするたび、香穂子はいつも泣き出しそうな顔になったものだが。
 今日は、花嫁の自信、なのか、笑って応酬してくる。

「ううん? きっとそう言われても……」
「香穂子?」
「私がわがまま言って、柚木先輩のそばから離れなかったと思いますよ?」

 香穂子が持っている白いブーケが揺れる。
 これだけのボリュームの花を使っていれば、さぞかし香りは強くなるはずなのに。
 香穂子が持っているせいか、部屋の中は柔らかい香りに包まれている。

「素敵ですね。これ」

 香穂子は俺の胸にあるブートニアの位置を直すと、嬉しそうに微笑んだ。

「だから……。今日、この日を迎えられたことがすごく嬉しくて。先輩。ありがとうございます」
*...*...*
 胸が痛い。
 切なくて痛いことは今までに何度もあった。
 演奏前の緊張で、バラバラに切り裂かれてしまいそうな痛みも何度か経験したことがある。
 でも、こんな気持ちは初めてだった。

 ── 大好きな人が、目の前で微笑んでいることが痛いほど嬉しい、だなんて。

 私の衣装に合わせた純白のタキシードが、しっくりと馴染んでいる。
 柚木先輩の舞台衣装は今まで何度も見たことがあるのに。
 自分が手にしているブーケと同じ花のブートニアが、彼の胸を飾っているのが、嬉しくてこそばゆい。

「おや? 誰か来たようだね」

 コン、と控えめにノックされたドアを、柚木先輩が開くとそこには、素敵なドレスで正装した冬海ちゃんと天羽ちゃんが立っていた。

「香穂先輩……。柚木先輩」
「香穂。って、うわ、あんた、すごく綺麗……」

 冬海ちゃんは小さな紙袋を。
 天羽ちゃんは、およそ緋色のドレスとは相容れないような、いつもの大きな一眼レフを肩に掛けている。

「冬海ちゃん、天羽ちゃん……」
「あ、あの。香穂先輩。花嫁さんって、式当日はほとんど何も食べられないかと思って。
 ……あの、気軽に食べられるお菓子……。レモンパイなんですけど、差し入れ、持ってきました」

 冬海ちゃんは、いつもの優しい微笑みで、鏡台の前に紙袋を置いた。

「ありがとう。そっか、冬海ちゃんは『結婚』の大先輩だったんだ」
「いえ、そんな……。今日は、お、おめでとうございます。
 嬉しいです、私。こんな綺麗な香穂先輩を見ることができて」

 冬海ちゃんはきちんとアイロンのかかったハンカチを、くちゃくちゃに握りしめると涙を抑えている。

「香穂。あんたってば、本当にすごいよ……っ」

 日頃あんなにも饒舌な天羽ちゃんは、嗚咽に紛れて、次の言葉を探しているみたい。

「天羽ちゃん……」

 10年もの間、ずっと変わらずに私たちを見ていてくれた人。
 こんなにも、私たちのことを気に掛けてくれた人。
 そう思うと、私はかける言葉も見つけられずに、黙って2人を見つめるしかできない。

 冬海ちゃんの優しい笑顔や、音色に。
 天羽ちゃんの明るい声や、助言に。
 ── 私は、何度助けられただろう……。

 ブーケを手にしたまま、冬海ちゃんを抱きしめる。
 私たち2人を、上背のある天羽ちゃんが包み込むように抱きしめる。

 ね。いつか、金澤先生が言ってたことがあったね。
 一緒にコンクールに参加した仲間は、一生の仲間だ、って。
 だとしたら、私と冬海ちゃんもそして天羽ちゃんも、学科や学年の違いなんか飛び越えて、ずっとずっと友達だよね。

「ああ、もう! 激写、って行きたいところだけどねー。
 今の私は、あんたを、カメラじゃなくて、心に焼き付けておくことにするよ」
「ああ。そうしてあげてくれるかな?」

 天羽ちゃんは、一瞬カメラを取り出そうとして、その手を止めると泣き笑いの顔を柚木先輩に見せた。

「土浦―。ここだよ。きっと。ほら、『新婦さま控え室』って書いてあるもん」
「って、相変わらず落ち着きないですね。火原先輩」
「ああ。6月なのに、いい天気になりましたね……」

 ドアの細い隙間から、元気な声が響いてくる。と思ったら、顔よりも先に、緑色の髪が飛び込んできた。
 ── 火原先輩だ。

「あ、いたいた〜。花嫁さんの控え室に男は行っちゃいけない、って天羽ちゃんには言われたんだけどさー。
 いいよね。おれたち、花婿さんとも友達だもん。な? 柚木」
「火原。今日は忙しいところをありがとう。それに、志水くんと、土浦くんも?」
「柚木先輩、香穂先輩。今日は、ご結婚おめでとうございます」

 火原先輩の後ろにも人影が見える。志水くんと土浦くん。
 志水くんは相変わらずゆっくりとした口調で、深々と柚木先輩に一礼している。
 土浦くんは、颯爽とした式服姿がぴっちりと身体に張り付いている。
 彼は礼儀正しく柚木先輩にお辞儀をすると、私に目をやった。

「お。馬子にも衣装ってところか? そのドレス、似合ってるぜ?」
「あはは。懐かしい……。確かコンクールの時にもそう言ってくれたよね?」
「ははっ。お前、まだそんなこと覚えてるのかよ」

 ── 時間が戻っていく。

 大人っぽい風合いのスーツを着ても。
 大人っぽい表情が私たちを彩っていても。
 笑顔が、声が、私たちを高校時代へと引き戻していく。

 やっぱり、音楽で繋がったみんなは、特別なのかな。ね、リリ、そうだよね?

 一緒にいる時間が、話す言葉も。
 沈黙さえも、心地良い一つの音楽みたいに、ゆったりリラックスできるのが、嬉しい。

 月森くんと王崎先輩は、海外公演に行っていて留守だったけど、たまたま2人が連絡を取り合う機会があったらしい。
 2人の連名で、びっくりするような大きな花束と、『みんなで一緒に』というメッセージカードがついたワインが届いていた。
 土浦くんと火原先輩は早速そのワインを覗き込んで、ご機嫌な声を上げている。

「香穂子。そろそろ時間かな?」

 柚木先輩は愛用の懐中時計に目をやると、顔を引き締めた。

「はい」

 私は、鏡の前に座ると、もう一度自分の顔を覗き込む。
 涙で潤んだ目元を指で押さえる。
 左手の薬指にある存在は、今の、そしてこれからの私の宝物。

「行くよ? 香穂子」
「は、はい!」

 私は差し出された手にそっと手を載せると、顔を引き締めた。
 ── いよいよ、始まる。
 友達の輪の中にいるのと、違う。
 柚木先輩のお家の人の輪に入る瞬間……。

「ん……?」

 そのとき、静かに控え室のドアが開いた。
 柔らかな木漏れ日が降り注ぐ控え室とは違う、廊下側の暗さが、鏡の中に飛び込んでくる。
 暗い色調……。車椅子?

「香穂子さん」

 鏡の中から、小さなしゃがれた声がする。
 さっきまでの祝福の声は急にしんと静まりかえって、みんなが声のする方に顔を向けた。
 威厳のある、いかめしい雰囲気が漂ってくる。

 ……誰……?

「……お祖母さま」

 柚木先輩の掠れた声が、微かに聞こえる。
 手にしていたブーケが、がさりと不安げな音を立てた。
 柚木先輩の腕に添えていた手を無意識に離そうとして、捕まえられる。

 って、私、おかしい。
 今日は結婚式。
 みんなに祝福されて、私も、幸せで。誰にも怯えることはないはずなのに。

 車椅子は、すっかり大人の雰囲気を漂わせた雅ちゃんに押されて、ゆっくりと滑るように前に進んだ。

 少しきつくなった頬の線が、まず目につく。
 襟元は、深く合わせていらっしゃるはずなのに。
 どこかゆとりがあるのは、その着物の持ち主がかなりお痩せになったから?

「……綺麗なこと。これほど綺麗な花嫁さんを見るのは久しぶりです。
 なにしろ、雅が結婚したのは もう、5年も前のことですものね」

 柚木先輩のお祖母さまは、雅ちゃんを振り返ってそう言った。

 ── 身体が、震える。

 怖かった。怖かった人。
 酷い言葉を突きつけられた。

 ── 柚木先輩と一緒にいる自分を、私は、いつまでも長い間、認められなかったから。

 だけど。こうして控え室に来てくれて。
 式にも参列してくれて。
 綺麗だとおっしゃってくれて。

 目の前の人の黒地の着物の白い紋は、まぶしいほどの輝きを放っている。

『五つ紋つきの和服は、和装の中で、最高の礼装なんだ』

 以前、柚木先輩が教えてくれたことを思い出す。

 柚木先輩のお祖母さまは最高の礼装で、式にも列席してくれるんだ……。
 それって。
 ── 私のことも許してくれる、ってことなんだよね。

「あ、あの。お祖母さま。……ありがとうございます」

 初めてはっきり告げた『お祖母さま』という言葉が、自分が発した音じゃないように耳元でこだまする。
 心の中にあった、たった1つのわだかまり。それが、口の中に含んだ砂糖菓子のように消えていく。

 私の言葉に、柚木先輩はいつもの優しい顔を向けてくれた。

「── まだ、泣くんじゃないよ。化粧が取れてしまうから」

 そして、改めてお祖母さまを振り返る。
 その後ろ姿からは、熱い、感動を秘めた声が聞こえた。

「ありがとうございます。お祖母さま」
「さて。式が始まるまで、わたくしは控え室に下がっていましょう。
 梓馬さん、香穂子さん。どうぞ粗相のないようになさい」
*...*...*
「……疲れた。今日はもう寝る。お前も片づけは ほどほどに しておけよ?」
「はい。……でも、みんなからの電報やメッセージ、見ておきたいな」
「そう?」

 無事に結婚式がすんだ夜。
 私と柚木先輩は、予約しておいたホテルの1室に落ち着いた。
 すでに係の人が手配しておいてくれたのか、部屋のあちこちに、結婚式で使ったたくさんの花が、品良く盛られている。
 これは、どんなときも花のある生活を忘れないようになさい、っておっしゃっていたお祖母さまのお考えなのかな。

 式の間中、凛とした表情で私たちを見つめてくれていたお祖母さま。
 ……お疲れが出てないといいな。

「香穂子。……ちょっとこっちにおいで」
「はい?」
「── 抱き枕」

 柚木先輩はよほど気疲れしていたのか、私をクッションか何かのように抱き寄せる。
 そして 2、3回頭の位置を確かめると、そのまま胸の中で眠ってしまった。
 あどけない、子どものような表情に、自然と私の目も細くなる。

(仕方ないなあ)

 あまりに無邪気なその様子を見てて、胸が熱くなる。
 出会ってから10年。その間、彼は、なに1つ、私を心細がらせることは言ったことはなかった。
 だけど。
 見えない檻のような家。
 本当の自分をどこにも出せない生活の中で、彼はずっと、安らげる場所を探していたのかな……。

「片付けるの後回しにして、今日は寝ようかな……」

 人肌の心地よさにため息をつきながら、私はゆっくりと身体の力を抜いていく。
 瞼が重みを増して落ちていく。
 私もとろとろと眠りについているはずなのに、頭の芯だけ冴えて眠っていないことを感じてる。

 脳裏に小さな男の子が浮かんでくる。
 ああ、これは、結婚式の前日、柚木先輩の自宅にお邪魔したとき。
 柚木先輩のお母さまが見せてくれた、写真の中の男の子……?

 不思議。
 男の子は写真から飛び出してくると、ちらりと私の方を向いて。
 そして、何か諦めたように肩を落として遠ざかっていく。

「見て? 香穂子さん。これ、小学生のときの梓馬なの」
「可愛いですね……。女の子みたい」
「ふふ、それがね。── 私、思い出せないのよ。この時の梓馬がどんな子どもだったか」
「え?」
「情けない母親でしょ……。本当に思うわ。言い訳だけど。
 5人の子を育てて、あのお祖母さまにも仕えて。宗家の雑事もあって……。
 私、余裕がなかったの。梓馬の小さかった頃のこと、全然思い出せないのよ」
「お母さま……?」

 お母さまは茶托のお茶を取り上げると、口を付けることなく、そのまま元の場所に置き直した。

「あの子が初めてお祖母さまに口答えをしたのは、香穂子さんのことだったわ。
 すごい形相でお祖母さまのことを睨んで。
 『僕が今まで、長兄次兄以上の、なにをあなたに求めたことがありますか?』
 って。あのときの、沈んだ表情を今もまだ私、夢に見るくらい。
 ── 私、今まであの子の何を分かってあげられたのかと思う。本当に情けない」

 お母さんはそう言って、綺麗な指で目頭を押さえた。
 柚木先輩とそっくりな爪の形に、私は親子の絆を感じる。

「賢い子、才能ある子、と言われて、それだけで満足していたの。この子は独りで大丈夫だって。
 ダメな母親ね。……梓馬は私のことを許してくれているのかしら……?」

 お母さまは、庭の木々に目をやった。
 桜の季節はとうに過ぎて、ツツジが我先にとつぼみを綻ばせている庭は、既に夏への準備を始めている。

「でも、これで私は親としての仕事を一つ果たせるわね。梓馬のこと、どうぞよろしくね。
 香穂子さんがいてくれたら、きっと大丈夫だと思うの」
「あ、あの……。私、頑張ります。大事にします。柚木先輩のこと」

 心の奥に灯りが灯る。
 それが少しずつ大きくなって、私の目から飛び出していく。
 今まで柚木先輩から、お母さまのお話を直接聞いたことはなかったけど。
 私は懸命に、幼い頃の柚木先輩に話しかける。

 感じてましたか?
 ── この広くて冷たいお屋敷の中、柚木先輩はけっして一人じゃなかったんですよ。
 ちゃんとお母さま、見ててくれたんです。
 たえず気にかけて柚木先輩のこと、育ててくれていましたよ? 

 賢い人だけど、もしかして知らないかもしれないから、なにかの機会に私、ちゃんと伝えてみよう。

 腕の中、柚木先輩は軽く身じろぎをした。
 ぎゅっと抱きしめ合った状態では辛いのだろうと、身体を離す。
 すると、背中に回っていた腕はさらに強さを増して、私の身体を締め付けた。
 その、飾り気のない無防備な様子に胸が熱くなる。

 ああ、どうして私、『今』に生きてるんだろう。『過去』に戻れないんだろう。

 今、窓から悪魔が降りてきて、私の未来の命と、過去の1日を交換してあげるって言ったら。
 私は迷わず、過去の1日を選ぶ。
 そして幼い柚木先輩に会いに行く。
 小さな小さな男の子。
 怯えたように表情を硬くする男の子に、私、初対面にも関わらず、かがんで、目線を合わせて、はっきりと告げるんだ。

 『── あなたは一人じゃないよ。いつか会おうね』

 って。
 あ、そうだ。
 ついでに、『うざいんだよ、お前』なんて、言われた方が泣きそうになる言葉を女の子に言わないように、ってお願いもしちゃおう。

 微笑みを口端の片方に残したまま、眠り続ける柚木先輩の長い髪をかき上げる。

 『今』と『未来』にしか生き続けることのできない私たちだから。
 それは変えようがないから。だからこそ、2人で一緒に作っていく。
 音で形作られている『今』という瞬間を『未来』という太い旋律に繋げていこう。

 ── 今日、これからは、私があなたをしっかり見つめていく。

 私たちは、幸せになるために生まれてきた。
 1人じゃできないことも2人ならきっとできる。
 あなたには幸せになる権利がある。そして、私も。

 ねえ、知ってましたか? ヴァイオリンの弦。『コルダ』の意味。
 高2のコンクールの最中に月森くんが教えてくれたの。

 『コルダ』には『弦』という意味とは別にもう一つ、『絆』って意味があるんですって。

 高2で出会って、10年。
 流れた時間の分だけ、柚木先輩と私との絆は強くなっていった。
 そして、これから10年、20年。歳を重ねるにつれ、もっと強く、ほどけない絆になっていくこと。
 信じたい。ううん、信じて、生きていく。

 幸せにして、っていう、他力本願なことは言いたくない。
 幸せにしてあげる、って言えるほど完璧な人間になれないのも分かってる。

 だけど、ちゃんと言いたい。明日、あなたが目が覚めたら真っ先に告げたい。

「幸せになろうね」

 って。
 もし、柚木先輩の少年時代が、思い出したくないほど辛い存在であるのなら。
 その事実がとっておきの笑い話になるくらい、幸せに。

 ぽたり、と、眠っている柚木先輩の頬に私の涙が落ちたのを見て、慌てて指でぬぐい取る。
 猛々しいような、男の人のような、強い意志が溢れるように浮かんできて、次々と睡魔をはねのけていく。
 このままじゃ私、明日寝坊しそう。
 きっと、柚木先輩、

『香穂子は結婚1日目から寝坊した』

 って、一生、私をからかうんでしょう?

 けれど。
 ── 今まで、私のことを見えない力で支えてくれた最愛の人を、今度は私が守り続ける。


 私は柚木先輩の頭の下にある腕を動かさないようにして、そっと枕元の灯りを消した。
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