*...*...* 2nd *...*...*
「えっと……。星奏学院音楽科1年の柚木です、か……。ううっ、緊張する!」わたしは、まっさらな制服に腕を通すと、目の前にある鏡に向かって取り澄ました笑顔を作る。
真っ白な上着。中に着るシャツだけは、お好みの色を選ぶことができるから、わたしは、顔色の映りがいいパープルを選んだ。
だけど、どういうワケか、お父さまは、わたしにベージュ色のシャツも着るように、と会計の中に入れてしまった。
わたしがそのことに不満を言うと、お母さまは懐かしそうな表情を浮かべて、ブラウスの襟を撫でて言ったものだった。
「お父さまは、在学中、ベージュのシャツを好んで着ていたから。
あなたにも同じブラウスを着せたいんじゃないかな」
わたしは、ふぅ、と大げさにため息をついて、鏡越しにお母さまを見つめる。
「だから、ってわたしに自分の好みを押しつけるなんておかしいもん」
「まあ。そう言わないで。お父さまのわがままだと思って聞いてあげて?」
お母さまはくすくすと笑いを頬に残したまま、肩についていた埃をさっと払った。
わたしはそれをぼんやりと目の端に捉えながら、何気なく口を開く。
「お母さまも、星奏学院音楽科の制服を着ていたの?」
「うん……。私は2年生の後期に音楽科へ転科したから、1年半、音楽科の制服を着たことになるのかな?」
「そうなんだ。普通科の制服と音楽科の制服、2種類制覇した、ってことだね」
「あはは。制覇、って言えるのかなあ……」
話をしながらもわたしの手は モショモショと胸元の辺りを動き回っている。
わ、タイを結ぶのって、結構難しい……?
自分では、かなり器用な方だと思ってたけど、これじゃ、毎朝3分は、タイ結びに時間を取られそう。
あ、でも、いいか。
この柚木の家から星奏学院までは車で約1時間。
その間を有効に使えば、タイを結ぶ時間なんて、問題にもならない。
それどころか、小テストの勉強だって、車の中でできちゃうかも。
お母さまは、制服姿のわたしをくるりと一回りして見つめると、嬉しそうにわたしの胸元に目を走らせた。
「まあ。タイの色まで、お父さまと同じなのね」
「え? それってすごい因縁! ねね。そういえば、高校時代のお父さまってどんな感じだったの?」
15歳まで育ててもらう間、言葉の端々や、なんでもない折りに聞いたことがある、お父さまの高校時代。
お父さまとお母さまにとってそれは、思い出したくない過去、というわけではなく。
ただただ、毎日降りかかってくる、宗家の雑事や、お父さまの仕事のフォローなんかを、お母さまは淡々とこなしていて。
その生活が幸せ過ぎるからだろう。
わたしの知らない過去よりも、もっと、幸せそうな顔をして、今、2人一緒にいるような気がする。
過去の続きに未来がある。きっと未来の続きの未来にはもっと幸せな2人がある、って信じて疑ってないみたい。
お母さまは白っぽい首筋をうっすらと赤らめた。
「え? どんな感じって……」
「何でもいいから、教えて?」
「ん……。優しかったわよ。学院中から人気があって。ファンクラブもあったの」
「へえ……っ」
わたしは目を丸くして見上げる。
確かに人気があるって本当かも……。
たまに行われたことがあった中学校の父兄参観。
いろいろなお父さまがいる中、わたしのお父さまは、歩いている間も、教室の後ろで立っている姿さえも目立ってた。
わたしの悪友は、ぽかんとお父さまを見つめたまま、
『あんたって年の離れたお兄さんがいたんだっけ……?』
って放心した顔してたっけ。
20余年を経てもなお、中学生をとりこにするお父さまだもの。
高校生時代は、さもありなん、って感じなのも、うなずけるよね。
「って、違う。わたしが聞きたいのはお父さまとお母さまの関係のことなの」
「関係……?」
「どっちから告白して、どうやってつきあい始めて、ってこと!」
じ、っと見据えたわたしに、お母さまは苦笑を浮かべると、たった今気付いた、とでも言いたげに、年代物の柱時計に目を遣った。
「また、そんなこと言って。ほら、もうあまり時間がないわよ?」
「え? あ、本当だ!」
わたしはお父さまが子どもの頃から住んでいるという家に住んでいる。
自分の部屋から見える中庭は、春の桜や、秋の紅葉。冬の雪景色。それぞれに、季節が感じられて好き。
だけど、1つ、イヤだなあ、って思ってることがある。
それは、自分の部屋とダイニングにすっごく距離があることだと思う。
「お母さま……? わたし、どこか、ヘン?」
歩き始めて2、3歩。ふと、わたしの背中の辺りに視線を感じて振り返ると、
お母さまは、目を潤ませて、わたしの後ろ姿を見ているところだった。
「お母さま?」
「はい? う、ううん。なんだか懐かしいなあ、って浸っちゃったの。ごめんね。早く朝ご飯食べておいで?」
*...*...*
朝ご飯の途中に、細身のスーツを着たお父さまが、席についた。「おはようございます。お父さま」
「ああ。おはよう。お前も、もう高校生か。……早いな」
お父さまはわたしの おろしたての制服に目をやると、まぶしそうに目を細めた。
「そうなの! しかも、わたし、お父さまやお母さまの後輩になるのね?」
ご飯と、おみそ汁。お母さまお手製のだし巻きたまご。
それに切り身の魚、和風のサラダ、果物というのが、我が家の定番の朝ご飯スタイル。
もっと、クロワッサン、だとか、スクランブルエッグ、だとか。
洋風っぽい朝ご飯にも憧れたけど、何事もお父さま中心に、っていうお母さまの考えの元、この和風スタイルは変わらない。
だけど週末は結構わたしの好きなモノを出してくれるし。
なにしろわたしも、朝はお母さまのだし巻きたまごを食べないと、気分が乗らない、って感じだから、
ずっと和風でもいいか、と思い始めている。
お母さまは湯気の立ったおみそ汁をお父さまとわたしの分、運んでくると、今度はお茶の準備をしている。
……ホント、お母さま、って、手際がいい……。
わたしなんて、お母さまの年になっても、こんな風にできないんじゃないかな。
「わたしって、やっぱりお父さまに似てるのかな? それともお母さま?」
わたしは、時計の針と格闘しながらどうにか朝ご飯を食べ終えると、焙じ立ての番茶を口に含んで、一息ついた。
「いきなり、どうしたっていうの?」
お父さまは、新聞から顔を上げるとしげしげとわたしを見つめる。
「なんか……。なんとなく、かな?」
どうしてだろう。そんな質問をした自分が分からない。
高校生になるから、って、それほど緊張することはないのに。
ましてやどっちに似てる、なんて、今はどっちでも構わないのに。
「お前はお父さまに良く似てるよ。容姿は、ね。だけど、性格はお母さまそっくりだ。
お前が、どうか実りある、高校生生活を送ることを願っているよ」
お父さまは、きちんと背を伸ばして、姿勢良く朝ご飯を口に運ぶ。
お父さまの隣りの席が1つ空いているのは、そこで、お父さまは毎朝朝刊を読むから。
4種類の朝刊。うち、2つは英字新聞。
次々とページを捲る姿は、朝ご飯を食べているお父さま、じゃなくて、新聞が好物の青虫さんのように思えてくる。
「そろそろ行くよ? お前も一緒に乗っていくといい」
ぼんやりしているわたしの横、お父さまはそう言って立ち上がると、お母さまの持っていた鞄を手に取った。
「……今日も遅いの?」
「いや。なるべく早く帰るから、待っていて」
「はい」
お父さまは朝食の後、いつも二言三言お母さまと話をすると、お母さまの身体を引き寄せて、目尻の辺りに口づける。
この間わたしは、その場にいない透明人間になる。
これだけは見ちゃいけない、というか、ジャマしちゃいけない、というか……。
わたしが割り込んじゃいけないんだ、これは大事な2人の儀式なんだって、まだ、物心つかないウチから分かってたもん。
お父さまは、お母さまの髪を撫で終えると、満足そうにわたしの方に顔を向けた。
「俺は先に行ってるよ。お前も早く支度しておいで」
*...*...*
車寄せのところまで行くと、運転手の田中が、きびきびと車のドアを開けてくれた。これから3年間は、片道1時間かかる星奏学院へ通うことになる。
「ねえ、お父さま。まだ、わたしは、お父さまの2番目なの?」
「は?」
「つまり……。お父さまが1番好きなのはお母さま、ってこと?」
以前、お母さまがいないときに話をしたことがある。1番と2番の話。
つまり、お父さまにとって、お母さまは、永遠の1番で、娘であるわたしは永遠の2番だ、ってこと。
2番という響きが気に入らなくて、わたしは自分で振った話題にもかかわらず、不機嫌な声を上げた。
『わたしもお父さまにとっての1番になりたい。どうしたら、なれるの?』
『言葉のあやだよ。俺にとっては香穂子もお前も譲れない1番だ。
だけど、お前が、強引に順番をつけようとしたんだろう?』
『そ、それはそうだけど……』
お父さまは、なんだ? とでも言いたげな、おどけた表情を浮かべて、わたしを振り返った。
「まあ、そうだね。……ご不満?」
「うーん。どうだろう……」
お父さまとお母さまが仲が良い、っていうのは、すごくわたしにとって居心地のいい空間だった、と、今でも思う。
だから、お父さまの1番好きな人がお母さま、っていうのは悪いことじゃない。
だけど、わたし自身からしてみたら、いつも、わたしはお父さまにとって永遠のセカンド、ってことだ。
多分、お母さまが亡くなったとしても、その席は空席のまま、しかも永遠に埋まることもない席になる。
── それが、なんか、不満。
口を尖らせて膝の上にあるカバンを弄くっていると、お父さまは小さく笑って、わたしの手を取った。
「お前はとても可愛いよ。でもね、お前にとっても、俺や香穂子は、1番じゃなくていいんだ。
いや。もう少し厳しい言い方をすれば、1番であってもらっては困る、かな?」
「え? どうして?」
「── 俺たちは、お前が死ぬまでそばにいてやることができないからだよ」
お父さまは、真剣な口調でそう告げた。
「俺も香穂子も、そしてお前も、天寿を全うするのなら、多分、俺たちが先に亡くなるだろう?
お前が、俺たちより先に亡くなる、と仮定すれば、それは多分、お前が天寿を全うすることにはならないだろう?
だからだよ」
「う、うん……」
なんなの? いきなり。
入学式の朝から、天寿だの、全うだの、そして、亡くなる、だの……。
ふわりと膨らんでいた気持ちがしゅん、と冷や水を浴びせられたように小さくなる。
いつものわたしだったら、お父さまのお話を茶化して、笑って、おしまいにしちゃうんだけど。
今日のお父さまの口調からは、決してからかうことのできないような真面目な雰囲気が漂ってくる。
お父さまの言ってることは、よく分かる。だけど……。
お父さまは、弱りかけた仔猫をじっと観察するかのようにわたしの顔色を見守っていたけど。
やがて、会社の前に車が止まったらしい。
「お前の1番が、この学院で見つかるといいな」
わたしの髪を一束手にすると、するすると撫で上げて笑った。
「じゃあ。俺はここで。お前も入学早々、遊び歩いていないで、なるべく早めに帰宅するんだよ」
「はい。お父さま」
お父さまを車から降ろした後、田中は、慌てて運転席に滑り込むと、落ち着いた様子でハンドルを切った。
「久しぶりでございます。この辺りを通るのは」
「田中?」
わたしの制服同様、今日新品の制帽を身に着けたような田中は、ゆっくりとブレーキを掛けると、懐かしそうに景色を眺めている。
「あ、そっか。田中、お父さまが通学してた頃も、運転手さんだったんだ」
「はい。そうでございます」
「ねね。高校生の時のお父さま、ってどんな感じだったの?」
「そうですね。……品行方正、とでも申しましょうか?」
「んー。それだけじゃなんか、つまんない」
「そうかと言って、わたしの口からあれこれ申し上げたことが、あとで梓馬さまのお耳に入っても困りますから」
わたしや、お父さまやお母さま。
柚木の家の人間が話しかけなければ、けっして自分からは話そうとしない、田中。
その田中が独り言とはいえ、自分の感情を見せるなんて珍しい。
悟りきったような澄ました横顔がなぜか気に入らなくなって、わたしは、甘えた声を出した。
絶対、田中は、お父さまとお母さまの高校時代を知ってるに違いないんだもの。
「田中。そんなこと言わないで。お願い! なんて言っても……」
そこでわたしは、田中の目の端に寄った深いシワを見つけて、言葉に詰まる。
どうして、お父さまといいお母さまといい、昔話になると、こう、うっとりと懐かしそうな顔をするんだろう。
── まるで、宝物、みたい。
娘であるわたしに聞かせることも、もったいない、って思ってる? とまでは言わないけど。
とてもとても大事で、大切にしてて。
もしその思い出に色が付いているとしたら、話すことで、薄まってしまう、消えてしまう、って考えてるんじゃないかと思えてくる。
「……なんて言っても? ……続きはなんでしょうか? お嬢さま」
田中は、穏やかな口調で聞いてくる。
けど、いつものわたしの突拍子もない質問の内容を知ってるからか、心持ち身構えてるみたい。
わたしは状況を立て直すと、強引に話を進めた。
「そう。なんて言っても、今日はわたしの入学式だもの。
なんでもいい。高校時代のお父さまとお母さまのこと、聞かせて!」
「……困りましたな」
「困らないの! これはわたしと田中だけの秘密、ってことで、わたし、絶対、お父さま、お母さまには言わないから」
田中は、しばらく運転に集中しているかのようにじっとフロントガラスに目を遣っている。
わたしは、長期戦だ、とばかりに黙りこくって、田中の首筋を見つめていた。
赤銅色に日焼けした肌は、わたしとは違う。そしてお父さまやお母さまとも違う。
どこか狡猾で、それでいて奇妙な清潔感があった。
「── お幸せそうでしたよ。2人とも」
「はい?」
「梓馬さまは、香穂子さまとご一緒のときは、それはもう のびのびとなさってました。
香穂子さまも、そんな梓馬さまのことを、とても大切に思っていらしたようですね」
「……なんだか、今と変わらないよね、それ」
「そうでございます」
バックミラー越しに、田中は嬉しそうに目を細めた。
「今と、全然お変わりないんですよ。……そろそろお嬢さま、学院に到着しますよ」
「あ、はい」
わたしはボックススカートのヒダを意味もなく整えると、カバンを引き寄せた。
もうすぐ、わたしの高校生活の第一歩が始まる。
『お前の1番が、この学院で見つかるといいな』
耳元にお父さまの声が響いてくる。
そうだよね。
自分の中にあるちから。それがどこへ向かおうとしているのかまだ分からないけど。
わたしもお父さまやお母さまみたいに、わたしの1番を見つけたい。
音楽の中に。友だちの中に。
それができたとき、初めて、また、わたしはあの2人に近づける気がする。
「お嬢さま?」
ドアを開けても、なかなか降りてこないわたしを心配してか、田中は不安そうに、車の中を覗き込んだ。
「ううん。行ってくる」
そしてわたしは、新たな一歩を踏み出す。