「よっし。今日はどこで練習しようかな……」

 今日の授業もこれでおしまい。あとはSHRを残すのみ、という時間になると、私は決まって、窓の外を眺める。
 梅雨の間の晴れ間、なのか、このところ、暑いくらいの良い天気が続いている。
 私は薄い雲が気持ちよさそうに広がっている空を見上げて思わず笑いかけた。
 音楽室や練習室、という締め切った空間よりも、外で練習することの方が好きだな、って思うようになったのは、
 まだ自分の中にある、柚木先輩への想いを知らない頃、屋上に飛び出して行くことが多かったことが理由かもしれない。

(屋上……?)

 そうだ。私……。
 一昨日の放課後を思い出す。
 風に飛ばされた、サン・サーンスの楽譜。楽器のことを気遣う柚木先輩の声。回された腕。
 そして……。── 初めてのキス。

(うわあ……っ)

 そもそも付き合ってるか、付き合っていないのか。
 そんな線引きさえもできない私が、突然柚木先輩とそんな風になるなんて……。
 考えただけでも、頭の奥が かっと熱くなる。
 でも何度も繰り返される優しい仕草に、私の身体は従順にあの人に従っていった。
 丸2日経った今なら、ありがとう、って伝えられるかもしれない。

 で、でもそれは。
 ── この、恥ずかしい、っていう気持ちを、どこかに放り出せたら、の話、かも……。

 今朝、一緒に登校したときの柚木先輩は、昨日と全然変わった様子はなかった。
 だけど、あれ? どこかギグシャクしてる私に気付いたのかな。
 車から降りるとき、こんな風に言ってたような気がする。

『お前には慣れが必要かもな』
『慣れ、ですか?』
『そう。……俺としても早く慣れてもらわないと、落ち着いて話もできやしない』

 それって、つまり……。
 と考えて我に返る。
 顔中が、すぐ先にある炎に当たったみたいに熱い。
 わ、私、なに考えてるの。こ、こういうことは、眠りにつく瞬間、ベッドに入ったときのちょっと時間に思うことだよーー。

 妄想を振り払うべく、私は知らないうちに頭の上で両手を振っていたらしい。

「あら? 日野さん。明日の時間割のことでなにか質問かしら?」
「は、はい? あ、あれ? ……ごめんなさい。何でもないんです」

 クラスメイトの笑い声と一緒に、明るく担任の先生から名指しをされて、また私の頬は熱くなった。
*...*...* Mauve *...*...*
 私は手際よく荷物をまとめると、今日は珍しく、観戦スペースの方に足を伸ばした。

『観戦スペースは床がコンクリート張りでしょ? 案外 音がスコーンって響くんだよ。知ってた?』

 昨日火原先輩がそう告げた言葉が頭の中にあったのかもしれない。
 グラウンドでは、サッカーの練習試合の真っ最中なのかな。
 見ると、部員以上に観客さんの方が多いみたい。女の子も混ざって、楽しそうに試合の様子を見守っている。
 たった今、シュートを決めた男の子は、誇らしげに観客の方をくるりと一周すると、また自分のポジションについた。

 ああいうの、わかるなあ…。
 シュートを決めた瞬間は、音楽でいえば、演奏が終わった瞬間。
 しかも、自分で自分の演奏に及第点を出せた瞬間だもの。
 嬉しくてありがとう。聴いてくれてありがとう、って。
 私だってもし演奏直後に楽器を手にしていなかったら、さっきの男の子みたいに、思い切り駆け回っちゃうかもしれない。

「今日は何を弾こうかな……」

 手にしていた楽譜たちから、お気に入りの1曲を探し出す。
 ぱらぱらと表紙をめくって、旋律を追う。そこの中で、今の気持ちと、この景色に合う曲を見つける。

(── 不思議)

 朝、顔を洗っていても。登校しても。授業中も。お昼休みも。
 いつでも、私の中のどこかしらにまとわりついていた、柚木先輩へ向かうドキドキした気持ち。
 それが、楽譜に向かうことで瞬く間に消えていく。

 ヴァイオリンを頑張れば、頑張った分だけ、またあの人に近づける気がする。
 別の言い方をすれば、私が本当に柚木先輩に近づけるのは、音楽に触れているときだけなんだもの。

 私は散々悩んだあげく、瑠璃色な羽根の鳥が森の広場へ突っ切っていったのを見て、ディニークの『ひばり』を選曲した。
 セレクションの時に、月森くんが演奏していた。
 前後して、志水くんも奏でた。
 2人の音にはまだまだ遠いけど……。うん。まずはやってみよう。

 そしてもし、上手く弾けたら。
 ── 明日でもいい。柚木先輩に聴いてもらおう。
 柚木先輩だったら、どんなコメントをくれるだろう。

 と、そのとき、楽譜の上に華奢な手が乗っかった。

「あ、あれ?」
「日野さん、よね? あなた」

 目の前の女の人は、楕円形のフレームのメガネの奥、せわしそうに何度もまばたきをしている。
 きちんと手入れが行き届いた、セミロング髪。前髪の一部は藤色のリボンでふんわりと結ばれている。

「ごめんなさい。ちょうど練習しよう、っていうときに。
 あ、あたし、3年音楽科の赤井沙耶っていいます。ピアノ専攻なの」

 彼女のつやつやと輝く髪は、まっすぐな髪質っていいな、なんて、いつも私が半分あきらめていることを思い出させた。

「日野さん?」
「あ! ごめんなさい。初めまして、私、日野香穂子って……」
「あなたにとってあたしは初めましてかもしれないけど、あたしにとってあなたは、とっても良く見知った人よ。日野さん」

 ぴしゃん、と言い返されて、私は肩に載せていたヴァイオリンを胸の前に戻した。
 一体、どうしたっていうんだろう……。
 赤井さんの華奢な体つきから、生まれる、優しい、女の子らしい声。
 だけど、その中に潜ませたであろうトゲは、まっすぐに私に対して向かってきた。

「日野さんは、この前のセレクションの総合優勝者だもの。
 今のあなたを知らない人って、この学院中にはいないんじゃないかしら」

 メガネ越しに届く視線は鋭く、まるで心の中を切り刻まれるような鋭さがある。

(もしかして……。親衛隊さんの1人、なのかな……?)

 一瞬そう考えたけど、親衛隊さんの顔は、前に一度しっかり見たこともあって、覚えてる。
 あの集団の中に、この人はいなかった気がする。

 赤井さん? 3年の? 
 おとなしい感じの小柄な人。……どう考えても記憶にない。

 赤井さんは、真正面から私を見据えると、思い詰めた表情で口を開いた。

「こんなことを聞くのって、ルール違反、っていうか、マナー違反、ってわかってる。だけど、教えて欲しいの」
「はい。あ、あの……。なんでしょうか?」
「あなた、柚木くんとはどういう関係なの? 先輩後輩以上の関係なの?」
「はい?」
「教えて欲しいの」

 赤井さんはそこでいったん口を閉ざすと、真剣な目で私の顔を見つめた。

「セレクションが終わるまでは、ヴァイオリンに不慣れだから、って言って柚木くんの車に乗せてもらってたのよね。
 だけど、セレクションが終わってもう1週間も経つのに、その様子は変わらない。
 だったら、……お付き合いが始まったのかな、って思ったの」
「そ、それは……」

 なんて言っていいかわからなくて、私はぼんやりと赤井さんの顔を見つめ続けた。
 こうやって尋ねてくる、っていうことは、それって、つまり……。
 赤井さんは、柚木先輩にすごく関心があるってこと。その……、好き、ってことかな?

 赤井さんは、そこでふっと言葉を止めると、口元をゆるめた。

「あー。もう、ごめんね。あたし、自己嫌悪になりそうだわ。日野さんに当たってもどうしようもないのに」
「いえ、その……っ」
「座らない? ははっ。観戦スペースって、いいわね。カフェテリアと違っていっぱい席があって」

 笑顔になると、思いの外明るい表情を浮かべる赤井さんに、私はつられるままに、彼女の横に腰を下ろした。
 最初に感じた思いとは違う。温かくて優しい雰囲気が生まれている赤井さんの隣りに座るのは、
 親衛隊さんに囲まれたときほどの不安はなかった。

「あたしねー。高1の時に柚木くんと出会ったんだ。同じクラスってことで」
「はい」
「たまたまあたしが柚木くんのフルートの伴奏をしたことがあって、よく話す機会があったの。
 彼、誰に対しても優しいでしょう? 勉強も音楽もすごく出来て。私にもフルートのこと、とてもたくさん教えてくれたわ。
 ジョイントのコツ。保管の仕方。手入れの方法。── あたし、どんなことでも嬉しかった」

 私は赤井さんの言われるままに頷いた。

「── この2年の間、ずっと好きだったの。
 だけど、どうしても恥ずかしさが先に立って、親衛隊に入る、なんて考えられなくて。
 ああやって、みんなでわいわい騒ぎ立てるのって好きじゃなかったし」
「はい……」
「唯一、聞いたのは、1年の頃、柚木くんが、あたしの持っているシャープペンの色が好きだって言ってたこと。
 あたしから見たら、色褪せた紫色の、なんの愛着もないペンだった。だけど……」

 そこで赤井さんは、ふっと、自嘲的な笑いをこぼした。

「……あれ以来、ずっと身に付けてるんだ。彼の好きな色を」

 また、運動場で大きな歓声が上がった。
 見るとさっきとは違うチームの男の子がグラウンドで大の字になって寝そべっている。
 その上に、次々に男の子が覆い被さっていく。もしかして決勝点になったのかもしれない。

 私は思いを馳せる。

 赤井さんは、ずっとずっと柚木先輩が好きだったんだ。
 好きです。ファンです。親衛隊です。って第三者にカミングアウトできないくらい好きだったんだ。
 好きで好きでどうしようもなくて。だけどどうしようもできなくて。
 自分が身に付けるモノで、自分の気持ちを表現しようとしたんだ。

 2年と、1ヶ月。

 私と、赤井さんの想いはそれだけの時間の違いがある。それは事実。
 時間の長短で想いを測るなら、私は、赤井さんにはかなわない。

 だけど……。わかっていても。
 ── いやだ。柚木先輩が私から遠くに行ってしまうのは、いや。


 ふい、と気持ちいい風がグラウンドから吹いてくる。
 その風は、赤井さんの髪の毛をしなやかになびかせて、止まった。
 きらりと藤色のリボンが揺れる。
 藤色のリボンは、赤井さんの白い面輪にとても儚げに彩っていた。

 明日、赤井さんは、また藤色の何かを身に付けて学院に来るのかな。
 沈黙でいることが苦痛じゃない空間を不思議に思いながら、私は赤井さんと目の前のサッカーの試合を追い続けた。


 赤井さんはそれ以上私に尋ねることなく、ふぅ、と大きく息をつくと立ち上がった。

「今日は失恋記念日かな。ははっ。家にある藤色のモノ、全部整理しなくちゃ」
「あ、あの。赤井さん……っ。どうして? あの、私、何も言ってないのに」
「わかるよ〜。私、ずっと柚木くんだけを見てきたから」
「赤井さん……」
「ありがと、日野さん。あたし、あなたと話ができて良かったよ。すっきりした」

 赤井さんは、私を振り返ることなく、軽い足取りで、観戦スペースを後にする。
 その後ろ姿を見送っていると、ちょうどそこに柚木先輩が入ってきたのがわかった。
 クラスメイトの親しさで、赤井さんは柚木先輩に二言三言話をすると、笑って手を振る。
 柚木先輩も優しげな微笑を送ると、踵を返して私の方に近づいてくる。

 後ろ姿の赤井さんからは、失恋という名の暗さや冷たさなどは全く感じられない。
 しっかりした足取りと、ぴんと伸びた背中は、彼女も素敵な演奏家であることを教えてくれる。
 柚木先輩はつかつかと私の隣りに立つと、心配そうに柳眉を寄せた。

「たまにグラウンドまで来てみれば。……お前、赤井さんとなにを話してたの?」
「いえ。あの……。あ、セレクションのお話をしました」
「は? それだけのためにあんな長い時間、話したり しないだろ」
「はい……」

 最初に受けた印象と違う、赤井さんのすっきりとした笑顔だけが私に残る。

 もし私だったら? ── できるかな。
 想う気持ちの深さなんて量れない。だけど、想っていた時間の長さは測ることができる。
 2年と、1ヶ月。
 ……私、赤井さんより、ずっと強く柚木先輩を想ってるって言い切れるのかな。

「香穂子?」
「……ずっと好きだった、って聞きました。柚木先輩のこと。2年も」
「は?」
「私……」

 柚木先輩は、赤井さんの歩いていった先を見つめる。
 だけど、そこにはもう人影はなかった。
 藤色のリボンがひらりと風に舞っていたのを思い出す。
 彼女は、今日、あのリボンをどうするのかな……。
 ううん。リボンだけじゃない。2年分の気持ちを、どうやって諦めるのかな。

「香穂子」
「あ、あれ? すみません。目に埃が入ったみたい……」

 グラウンドと風に言い訳を押しつけて、私は目尻を指で擦った。
 赤井さん……。
 彼女の幸せが、自分の今の状態と相反するってわかっていても、胸が痛くなるのは押さえられない。
 ── 恋愛って、どうしてみんながみんな、幸せになれないんだろう……。

 柚木先輩は皮肉そうに口端を上げた。

「……で? お前、もしかして、あの子のために自分が身を引いた方が、なんて考えてるの?」
「そ、そんなことないです!」
「どうだか」
「本当です! 私、他のことはよくても……。柚木先輩だけは、ダメです」
「……どうだか」
「赤井さんには申し訳ない、って思うけど……。でも、私も柚木先輩が好きだもの」

 売り言葉に買い言葉で、ムキになって言い返したら、その言い方が可笑しかったのだろう。
 柚木先輩は声を上げて笑っている。
 し、しまった……。
 私、もしかして今、とんでもないことを言った、よう、な、気がする。しかも、本人を目の前にして!

 ヴァイオリンを抱きしめながら、がっくりと肩を落としていると、隣りから満足そうな声が聞こえた。


「俺はね、お前のその言葉が聞きたかったの」