「え? バレエ、ですか?」
「そう。家の関係で結構有名なバレエ団のチケットが手に入ったからね。お前、関心ある?」
「はい! いいんですか?」
「この前、料理をごちそうしてもらったし、そのお礼」
「いえ、そんな……。私こそ、セレクションの時お世話になったのに」
「いいんだよ。── お前にやられっぱなし、って言うのも性に合わないし、ね」

 香穂子の手料理で誕生日を祝ってもらった次の週末、俺は香穂子を観劇に誘った。
 題目は「眠れる森の美女」、いや、「Sleeping Beauty」といった方が今は通りがいいのかもしれない。

 普段だったら、この手のチケットは、すべて姉か雅に流れていくのが常だが。
 どうした巡り合わせか、今回に限っては俺の元にやってきたからだ。

 『行かない』という選択肢もあった。
 しかし、俺が頭に浮かんだのは、セレクションの間中、幸せそうにヴァイオリンを抱える香穂子の姿だった。

 ── あいつ、なら。どうだ。

 あいつ自身が、綺麗だと思い、心を揺らされることに出会った翌日。
 たとえば、月森とアンサンブルを組んだとき。火原の演奏を聴いた最終セレクションの直後。

 そして、俺が初めて、あいつを抱きかかえ、唇を覆った日。

 周囲から受ける影響を、自分の中に照り返して、翌日には、全く違った音色を携えてくるあいつなら。
 このバレエも見る価値がある、のかもしれない。

 チケットについていたパンフレットを読むと、今回のバレエに小さな弦楽四重奏がつくことが大きなポイントらしい。
 なるほど。生演奏と、バレエ、か。メインはバレエだとしても。
 あいつの勉強にもなる。
 ── 音楽を理由にして、堂々と香穂子を誘い出せる、ってことか。

「柚木先輩。今日は本当にありがとうございます。嬉しいです」
「いや。お前、都合はよかったの?」
「はい!」

 待ち合わせの場所からほど近いカフェで軽く昼食を取り、この町で一番の市民ホールへと向かう。

「バレエ、って、実際に観るのは初めてです! どんな感じなんだろう……」
「バレエの歴史と、今お前が夢中になっているクラッシック音楽の歴史はとても似通っている。
 だから、そんなに違和感なく、観ることができるだろう」
「はい……。あ、あのね、題目が『眠れる森の美女』って聞いたので、ストーリーだけはネットで調べてきました。
 子どもの頃読んだことがある、『眠り姫』っていうお話と似てたような気がします」
「まあ、有名なストーリーだよな。初めて観る人間でもわかりやすいと思うぜ」

 約3時間の大作。── 香穂子は気に入ってくれるだろうか。
*...*...* Purely *...*...*
「本当に素敵だった……!」

 バレエが始まる頃、あれこれ考えていたことは杞憂に終わったようで、香穂子は始終大きな目で舞台に踊るバレリーナを見つめていた。

 壇上から少し降りたスペースに、ヴァイオリン2本と、チェロ1本、ヴィオラ1本の奏者がいた。
 その他の楽器は全部、音響に任せたようだが、やはり、生演奏が入るのと入らないのでは、印象が違う。

 今回は、バレエがメインだからという強い認識があるのか、それとも、見かけよりも音が勝負だと信じて疑っていないのか、
 彼らの服装は、ぴんと張りのある白いシャツと、黒のスラックスというシンプルな装いで統一されていた。
 
 音楽は、黒子だ。そう思うときがある。
 存在しなければ困る役割であるくせに、あまりにその場に馴染んでいると、存在すること自体忘れ去られてしまう。

 先ほどの興奮が冷めらやぬ表情で、香穂子はゆっくりと俺の半歩前を歩いている。

「おっと。お前にはこっち側を歩いてもらおうか」
「あ、はい……?」

 俺は香穂子を歩道側に誘うと、小さな手を取った。
 ── まあ、こいつがうっとりとした風情で歩いているのを見ている分には楽しいけど、怪我をされても困るしね。

「バレエ、どうだった?」
「もう……。なんて言ったらいいんだろう。── 感動しました」

 夕暮れの迫った公園で、香穂子は弾んだ口調でそう言うと、さっき聞いた曲を口ずさんでいる。

「素敵ですね。バレエとカルテットが一緒になってる、なんて」
「ああ、まあな」

 生演奏というのは、コンディションなりなんなりと多少のリスクはある。
 だけど、今回のバレエは、バレエを主体とした小規模演奏なのが功を奏したのか、
 大きくもなく小さくもない心地よいメロディが、ずっとバレエの質を高めていたように思う。

「楽しかった……、みたいだな。それはなにより」
「はい! やっぱり最終章が1番素敵でした。低い音……。テノールよりさらに下の音階から始まるんです」
「ああ、バスね」
「はい。その音はチェロですね。それで、1、2、3、で深呼吸1つ置いて、タン、で、オーロラ姫が袖から出てくるの」
「へえ」
「── こんな風に」

 よほど先ほどのプリンシパルのステップが記憶に残ったのだろう。
 近くの公園に着く頃、香穂子は、ふわりと白いスカートを揺らして回り始めた。

「それで、ですね。ここからヴァイオリンが2本、入ったんです。
 オーロラ姫、ジゼル王子、ご結婚おめでとう、って妖精さんが現れるところかな」
「ふうん……。それから?」

 洗礼式の日。
 邪悪な妖精カラボスに呪いをかけられたオーロラ姫は、16歳の誕生日に、指を刺して死ぬことを約束される。
 しかし、善良な妖精リラは、姫が亡くなることを不憫がって、カラボスのかけた魔法を緩和する。
 『姫は確かに指を刺すかもしれません。だけど、死ぬことはありません。
 100年の眠りののち、姫にふさわしい王子が現れるでしょう』
 
 そして100年後。姫の美しさを伝え聞いたデジレ王子が、オーロラ姫のいる古城にやってきて、キスをする。
 姫が目覚め、父親や母親も目覚め、城中が目覚め。
 結婚を祝福するための祝宴が催される。
 
 ── まあ日本で言えば、勧善懲悪。円満快活。とでもいった感じの、わかりやすいエンディングだ。

「オーロラ姫は、みんなの祝福が嬉しくて仕方ないの。妖精と踊って。鳥や猫と遊んで。
 そんな姫を可愛くって仕方ない、って感じで、王子が抱きしめるんです。
 本当に幸せそうだった……」

 夏至が近いのか、7時を過ぎてもまだあたりは薄明かりに包まれている。
 ふわりと広がるスカート。スカートが翻る分だけ、香穂子の白い脚もあらわになる。

 この、瑞々しい肌が、続く先。
 どんなに踊ってもけっして見えることのない柔らかい部位。
 ── そこに、俺が触れたら、こいつはどんな反応を返すのだろう。

 香穂子は俺の視線に気付くことなく、くるりともう一度ターンした。

「面白いな、って思ったのが、最後の宴のシーンかな?
 意地悪な妖精の、カラボスもやってくるんですよ。
 姫と王子の前で、『お前たちにはかなわないな』なんて茶目っ気たっぷりに笑いながら、恥ずかしそうに杖を振るんです。
 あのときは、王子も姫もかすんで見えました。客席のみんなも笑ってましたね」
「ああ、そうだね」
「あと、鳥の役のバレリーナさんや、猫の役の方のお化粧……。姫や王子とは違ってて、興味深かったです」

 香穂子は瞬時に鳥が出ていたときの旋律はこう、猫のときは、こう、と楽しそうに口ずさんでいる。

「それにしても。……オーロラ姫はいいなあ。あんな素敵な王子さまが来てくれるんだもの」

 うっとりと同じ言葉を繰り返す香穂子が、少し癪に障って、俺は目の前の鼻をつまみ上げた。

「お前の王子は?」
「は、はい?」
「お前の王子はどこにいるんだろうな?」
「はい? えーっと……。どこなんでしょう??」

 香穂子の鈍さに多少の脱力感を覚えながら、俺は香穂子の背を押した。

「まあ、いい。……結構 いいものを見せてもらったし」
「はい? いいもの、ですか……?」
「ほら、早くおいで。夕食でも取ろうか」
「はい!」

 俺の提案に満面の笑みでうなずく香穂子を見て思う。
 ── 俺の屈託に気付くようになる頃、こいつはどんな音色を響かせるのだろう。
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