*...*...* Telling *...*...*
 大気が冷え込む冬は、空の色まで固くなる。
 俺は玄関の戸を開けて、ようやく溶け始めた朝の空気を深く吸い込んだ。
 中庭の向こうから、低いエンジン音が聞こえる。
 時間に忠実な田中は、今日も俺が家を出る5分前から車の用意を始めている。

 香穂子はパタパタと俺の後を追ってくると、残念そうにため息をついた。

「どうしても、ダメですか?」
「内緒。選曲はサプライズも楽しいものだぜ?」
「そ、それはそうかもしれないけど……」
「寒いから、もうお前は部屋にお入り」

 ひんやりとした香穂子の頬を手で覆う。
 弾力のある柔らかい感触は、昨日俺が可愛がった胸のふくらみと同じ、みずみずしさに溢れている。
 触れた箇所に赤味が乗るのを見て、俺は少しほっとする。
 具体的な症状はないものの、最近の香穂子はなんとなく疲れやすくなっている気がする。

「行ってらっしゃい。梓馬さん」
「ああ。お前もあまり無理するんじゃないよ?」

 今日はクリスマスイブ。
 今年はたまたまこの日が平日ということもあって、俺はいつもどおり職場に向かった。

 12月に入ってから、俺は会社の昼休みに少しずつ練習を繰り返してきた。
 フルートケースは自分の立場をわきまえたかのように、誇らしげ俺の手の中に収まっている。

 初めて香穂子と一緒に過ごしたクリスマスから、10年。

 誕生日やら、結婚記念日やら、俺と香穂子の間には、たくさんの記念日があるというのに、
 10年もの間、いろいろな思い出が積み重なってきた、このクリスマスという日を、俺たちはことさらに大切に思っていた。

『来年のクリスマスも、一緒にいてくれますか?』

 17歳の頃の幼い香穂子が、俺の中に今もいて。
 毎年この時期だけは、俺にフルートを握らせる。

 ロンドンに留学していた年のクリスマスだけは、香穂子と俺、2人きりの演奏会はできなかったけれど。
 それ以外の年は必ず2人の時間を共有し、ともに新しい1曲を仕上げてきた。

「こればっかりは、ね……」
「は? 梓馬さま?」
「いや、なんでも」

 一緒に住むことのただ1つのデメリットは、隠し事ができないということだと最近知った。
 以前だったら、クリスマス前のこの時期。
 俺は、仕事を早めに切り上げると、自分の個室で夜更けるまでフルートを奏でていたけれど。

 共に暮らすようになった今年から、俺は練習場所に苦慮するようになった。
 俺に与えられている会社の一室は、防音とはいえ、人との会話が漏れない、という程度のもので、
 さすがに勤務時間中に音を奏でることはできない。
 ホテルの一室を、とも考えたが、俺が帰ったときの香穂子の嬉しそうな顔を見ると、なるべく早く帰ってやりたいという気持ちになってくる。

 結局、この1ヶ月はフルートを構えて、指使いの練習をする程度で。
 やはり、1度くらいは、午後から会社を抜け出して、ホテルで練習をしよう。
 そう思っていたとき、俺は親友からの連絡を受けた。

 火原に会えるのが楽しみなら、フルートを奏でるのも楽しみで。
 そして、今夜、香穂子と2人きりの小さな演奏会に興じるのも楽しみだ。

 田中は慎重にハンドルを切ると、バックミラー越しに俺を見て微笑んだ。

「ずいぶん、嬉しそうでございます」
「そう?」
「はい。梓馬さまは、香穂子さま絡みのことは、いつも嬉しそうでございました」

 正面からの表情はわからないものの、かすかに見える横顔には、嬉しそうな目尻の皺が張り付いている。

「ああ、昨日も話したとおり、今日午後から、ちょっと送迎を頼むよ」
「かしこまりました」

 俺は手に携えた重みを、久しぶりに懐かしく感じる。
 香穂子と友と。
 そして音楽がある限り、俺は、この世に存在していることに感謝できるのかもしれない。
*...*...*
「柚木〜〜。ここだよ!」
「火原。君も忙しいだろうに、悪かったね。付き合わせて」
「ううん! そんなこと ないない。おれ、柚木に会いたかったし。こいつも思い切り吹いてみたかったし」

 星奏学院。冬の練習室。
 ここは、暖房が効いてくるまでに若干の時間がかかる。
 俺はフルートを組み立てながら、改めて火原の顔を見上げた。

「うー。懐かしい。おれたち、よくここで練習したよね」
「ああ。君はよく、練習室の予約を取り忘れたと言って、僕の部屋に転がり込んできたから」
「あはは! そうだったねー」

 練習のための時間と場所をなかなか確保することができなくて悩んでいた頃、たまたま火原から連絡をもらった。
 音楽関係の会社に就職している火原も、やはり最近は自分で楽器を奏でることが少なくなった、という話になって。
 だったら、1度2人でゆっくり音合わせをしてみようという結論になった。
 場所はどうしようかと尋ねたら、火原は、どういうわけか星奏学院がいいと言い張った。

 受験を控えた3年生は、休日でも練習室を使うかもしれない、という俺に、
 火原は俺と話しながら、別の人の携帯を駆使してちゃっかり金澤先生に予約を取り付けたらしい。
 明るい声で絶対大丈夫と言う。

「今日、金澤先生はいらっしゃるの?」
「金やん? おれたちが来るって言ったら、なーんか嬉しそうだったよ。俺もあとで拝聴させてもらおうかな、とか言ってた」
「そう?」

 栗色の壁。
 少し埃がかかったグランドピアノ
 俺たちを取り囲む練習室は、10年前とまるで変わることなく、俺たちを包み込む。

 香穂子ともよくここで練習をした。
 最初の頃は、何度か厳しい言葉を投げたこともあったが。
 あいつはいつも前向きで、努力家で。
 次の日には俺が驚くような音色を作って笑ってみせた。

 ── あれから、10年。
 香穂子は、今も俺のそばにいる。

「それにしても、柚木ってば、エラいね。今もずっと音楽を続けているなんて。
 おれは、音楽関係の仕事に就いているけど、自分が演奏することなんてほとんどなくなってるよ」
「僕も、それほど練習しているってほどじゃないんだよ? だけど、この季節だけは特別かな?」
「特別?」
「なんとなくね」

 神やら仏やら。目に見えない信仰物をそれほど大切に思ったことはないけれど。
 聖なるこの日に、愛しく思う子の笑顔がそばにあること。
 考えれば考えるだけ、奇蹟のような気がして。
 これほど1人の人間に依存している自分が、どこかおかしいのではないかとさえ思えてくる。

「選曲は? なんにする?」

 火原は俺が広げた数枚の楽譜を見て、タイトルをチェックした。

「火原、初見は得意だったよね。これなんてどう? 元気がいい曲だから」
「っていうか、おれ、柚木が持ってきた楽譜、全部吹きたい。いい?」
「おやおや。大丈夫なの?」

 吹奏楽というのは、見た目以上に、運動量が激しい。
 吹き慣れていない人間が、いきなり数時間続けて無理な練習をすると、過呼吸になることもある。

「って、柚木。おれの肺活量知ってるでしょう?
 まだジョギングだけは毎日続けてるからねー。いきなり、こいつを吹いても大丈夫だよ」
「そう? じゃあ、指慣らしにアルビノーニでも吹こうか。
 これならまんべんなく音律も入ってるし、君も知っているから吹きやすいでしょう?」
「アダージョ? この曲は難しくてなかなか『吹けた!』って気にならないんだよね。やってみるよ」

 俺と火原の間に譜面台を立てる。
 すると火原は、おれは暗記してるから大丈夫だよ、と言わんばかりの目配せで、心持ち楽譜を俺の方に向けた。

 大らかで。明るくて。
 ともすれば、細かなところにまで気が回らないとも思われそうな火原だけど。
 こんな風にさりげない気配りをいつもしてくれていたことを思い出す。
 ラフなセーターとジーンズを着こなしている火原が、音楽科の制服を着ていた頃と重なる。

「じゃあ、始めよう?」

 俺の言葉に火原は頷くと楽譜を目で追う。
 火原から始まるフレーズに、俺も息をのむ。

「よぉ。よく来たな。2人とも!」
「うわっ!! って、金やん、タイミング悪すぎ!」

 突然ドアが開き、懐かしい顔が飛び込んでくる。
 音が生まれていない今なら大丈夫だろう、と金澤先生は飄々とした様子で練習室に脚を入れたらしい。

「びっくりした〜! 息を吸い込んで、さあ、吹こう、って思ったときに金やん、来るんだもん」
「こんにちは。金澤先生。今日は火原がご無理を言ったようですみません」
「いや、なに。偉大な卒業生のために一室空けるってのは、気持ちが良いモンだぜ? 気にすんなよ」

 ひょろりとした長身に、寒そうな白衣がまとわりついている金澤先生は、10年前、俺たちが卒業した頃と寸分変わらない。
 いや、少し目の下の影が濃くなっている、か。
 時間は確実に、俺たちの上にも、金澤先生の上にも流れ続けている。

「それにしてもお前たち、まだ関係が続いているんだなー。いいこった。
 コンクール関係の仲間は、一生の友人になり得るからな」
「そうなんだよねー。この前の柚木の結婚式には、土浦にも志水くんにも会えたしね」

 火原は嬉しそうに相づちを打った。

「ああ。そうか。柚木と日野って結婚したんだもんなー。
 だったら、全員、知らない間柄でもないんだ。日野も、この場所に連れてきてやれば喜んだだろうに」
「ダメだよー。金やん。香穂ちゃんは柚木の秘蔵っ子だから。なかなか見せてもらえないよ?」
「いや。そういうわけではないんだけどね。彼女もちょっと体調が優れないみたいだから」

 ここに香穂子を連れてきたら、選曲をサプライズにする意味が無くなってしまう。
 とは思いながらも、いつか、また。今度は、この3人だけじゃなく、土浦も、志水も。
 都合が合えば、月森や王崎先輩とも、会えたら、と思う。
 違う。会えたら、じゃない。会えて、共に、音を作り出せたらいい。

 ── これも、クリスマスがかける魔法なのかもしれない。
*...*...*
「ただいま」
「お帰りなさい。ちょうど夕食の準備ができたところだったんです」

 銀色の香炉から低く煙がたなびいている。
 頭の芯が、ピンとしびれるような、白檀の薫りが広がっている。

 10の思い出を重ねた2人なら。
 聖なるこの日には、これから先の10年も、もっと、たくさんの思い出が降り注ぐ日になるのだろうか?

 日頃あまり量を食べない俺が、この日は、箸を湿らす程度で、食事を終える。
 香穂子も心得たように、一口で収まるような小さな料理を並べていた。

「どう? 練習はできた?」
「はい。なんとか。梓馬さんは?」
「今日は懐かしい人たちに会ってきた」
「え?」
「火原と、金澤先生」

 今日昼からのことを話すと、香穂子は楽しそうに目を輝かせている。

「いいなあ。私もまた火原先輩に会いたいな。しばらくお会いしてない気がします」
「まあ。お前の体調が整ったらね」
「はい。火原先輩と梓馬さんのデュオ、聞いてみたい」

 早めに食事を終え、リビングに行く。
 俺の行動を心得えているかのように、日頃テーブルが置いてある場所に譜面台が置かれ、照明がやや落とされていた。
 上着を脱ぐと、軽く肩を回す。
 俺と香穂子の、2人きりの演奏会。

 ── 久々に胸が高まる。

「今年は、お前から? それとも俺から?」
「ん……。じゃあ今年は梓馬さんから」

 香穂子は正面のソファに腰掛けると、あごの下で指を組んで俺を見守っている。

「高校の頃の先生が、俺のこんな姿を見たら、驚くだろうね」
「あはは、金澤先生とか?」
「いや、金澤先生は、あれでも普通科で音楽を教えていた方だから。
 俺で言えば、フルート専攻の辻先生かな。実技でずいぶんお世話になったよ」

 2人きりの演奏会は、香穂子と初めて共に演奏した『アヴェ・マリア』から始まる。
 第2楽章が大好きなんです、と、何度も繰り返し奏でていた、『ユーモレスク』。
 卒業式にコンクールメンバー全員で合わせた、シューマンの『3つのロマンス第2曲』。
 時折、香穂子の気に入っている曲も入れ、最後は、フォーレの『子守歌』で締める。

 香穂子もいろいろな思いが浮かんでは消えていくのだろう。
 時折、桜色の唇がハミングをしたり、潤んだ目が俺の演奏姿を見つめていたりする。

 俺は楽譜から香穂子へと視線を移した。

「今、観客はお前1人。お前1人のために俺はフルートを奏で続けているわけだけど」
「はい……」
「こんなに自由に、のびのびと吹く楽しさを、俺は今まで知らなかった気がするよ」

 ── ありがとう。

 初めて会った日のことを思い出す。
 まっすぐで。人を疑うことを知らない女の子。
 どんなことも一途だった。ヴァイオリンに対する姿勢も。俺へと向ける想いも。
 そんなあいつに、惹かれ続けて。
 今、俺はこの場所に立っている。

 もう、何回この曲をこいつの前で奏でたのだろう。
 そう考えて、俺は、いつしか回数を意識するのを忘れていた自分に気づく。
 いつだっただろう。ロンドンから突然帰国したクリスマスから、か?
 あの頃を境に、俺は何の疑いもなく信じられるようになった。
 ── 香穂子は、これから先もずっと俺のそばにいてくれる、と。

 暖かな香穂子の拍手に我に返る。
 俺はまっすぐに香穂子の方へ向かうと、香穂子の横に座り、華奢な手を取り上げた。

「お前に会えて、俺の世界は大きく広がった。── 感謝している」

 香穂子は、まぶたに落ちてくる俺の唇をくすぐったそうに受け止めている。
 そして、柔らかな肢体を預けながら、微笑んで言った。

「あのね。梓馬さん。1つだけ、違うんです」
「は?」


「観客は、もう、私1人じゃないんですよ?」
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