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「柚木くん。ごきげんよう」
「ああ。今日はわざわざお祝いをありがとうございました。気をつけて帰ってください」
「はい! わたくしこそ、受け取ってもらえて光栄よ。
 それで……。これから、あの、よろしければ、一緒に、どう?」

 目の前の女は、余裕の中に必死さを隠して、俺をその場に押しとどめようとする。
 風に揺れるブルーのタイは、今にも雨が降り出しそうな6月の空にも似ている。
 俺は内心ため息をついた。
 まったく。今日が俺の誕生日だ、ってことを、この1つ年上の彼女はいったいどうやって知ったのだろう。
 そして俺は今日、不特定多数の人間から何度同じ質問を受けて、何度同じ返事を返しているのだろう。

「ああ。すみません、浅井先輩。僕、今日は火原と約束があって」
「へ? おれ? えーっと……?」

 俺は隣りにいる火原に目を当てながら、改めて目の前の彼女を見つめた。

「あれ? 火原、言っていたじゃない。今日の楽典の課題、放課後に片付けてしまおうか、って」
「い、いいの!? やりぃ!」
「ああ。かまわないよ。今から図書館に行って片付けてしまおうか」
「そう……。残念だわ。じゃあまた明日ね?」
「はい。本当にありがとうございました」>

 先輩はがっかりとした表情を浮かべたモノの、俺が他の女とどうこうするわけではないらしい、と理解したのだろう。
 軽く手を振ると、白い背中を向けて遠ざかっていく。

「あ、あれ? あ、あの人、よかったの? 柚木」
「いいよ。君の方が大事だから」
「うーー。助かる。ありがと。柚木」
「そうだ。図書館に行こうか。君に良さそうな書籍があったと思うよ」

 よほど今日の授業の楽典は、この親友にとって困難を極めたのだろう。
 親近調というのは、優美な規則正しさだけを見れば、数列にも似ている。
 数学が苦手で、来年高3になれば、数学の授業がなくなることを心待ちにしている火原は、元々数学が得手、という訳ではないのかもしれない、か。

 俺たちはクラスメイトの話をしながら、図書館に向かう。
 2年生になって2ヶ月。
 下級生が入ってきたことも手伝ってか、専科の先生たちの態度は一気に厳しいものへと変化したように思う。
 なんだかんだ言っても火原は教授陣にとって愛嬌のある生徒なのだろう。
 どんな先生からも可愛がられている。

 音楽関係の書物は、図書館のちょっと奥まったところにある。
 確か目星をつけておいた本は、と考えながら足を運ぶと、
 俺たちの背後から付けてきたのか、今度は、赤いタイを着けた女の子3人が滑り込んできた。

「あ、あの。柚木サマ。あの、一言、言いたかったんです。お誕生日おめでとうございます!」
「ああ。どうもありがとう。君たち」
「え? え?? 柚木、今日が誕生日なの?」

 火原はそこでようやく気付いたのか、落ちそうなほど目を大きな見開いて俺と後輩を交互に見上げている。

「そうですよ〜。火原先輩、知らなかったんですか? 今日。今日、6月18日は、柚木サマのお誕生日だってこと」
「朝からずっと申し上げたかったんですけど、なかなかお会いできなくてっ」
「それはどうもありがとう。だけどここは図書室だから、君たちももう少し静かにね?」
「きゃあ。柚木サマとお話しちゃった!!」

 俺の注意はまったく聞き流されながら、かしましいほどの黄色い声は辺り一面に広がっていく。

 ── やれやれ。
 思えばいつからこんな風に、女たちは俺に注目するようになったのか。
 俺は記憶の糸を辿る。

 幼稚園の頃は、色の白さと髪型から、よく女の子に間違えられた。
 自分の名前をそれほど女らしい音だと思ったことはなかったが、女の子の名簿に入っていたこともある。

 小学校に入ってからはさすがに女に間違われるようなことはなかったが。
 そういえば何度かクラスメイトから皮肉を言われたことはあった。

『柚木の隣の席ってさ、恨まれるからごめんだよ』
『恨まれる? なぜ?』
『お前、知らないの? このクラスにお前のファンクラブができてるの』

 どうして人は虚構の中で、虚構を作って楽しんでるのかな。
 ため息とともに、かすかに唇の端が不自然に上がる。

 なぜだろう。
 今まで、周囲の人間は、俺自身の存在価値を高めるためだけの道具だとしか思っていなかったのに。
 それさえも、最近は煩わしい。
 思春期特有のモラトリアムの期間が、こう思わせるのか、なんとなく気だるい。
 自分の体が、気持ちを置いてけぼりにして、一人、大きくなっていく。
 着慣れていた服が、小さく、窮屈になっていくような感覚だ。

 上手く言いくるめて1年生の3人組を帰らせたあと、俺たちは数冊の本を手に窓際の空いている席に座った。
 他の席からの死角になっているこの場所は、何かに集中するには都合の良い場所だ。
 とはいうものの、火原はひたすら今日の楽典の課題から逃れたい一心らしい。
 興味津々な顔をして尋ねてくる。

「それにしても知らなかったなー。柚木、今日、ってあれ? 6月18日、か。誕生日だったなんてさ」
「そう?」
「おれより半年先輩だね。おれって誕生日12月だからさ」
「12月か。いい季節だね」

 俺の受け答えに、火原はいかにも不満げな声を上げた。

「えーーー? ちっとも良くないよー。6月の方が良いに決まってるじゃん」
「それはまたどうして?」
「12月なんてさ、誕生日プレゼントと、クリスマスプレゼント、いっつも ひとまとめにされちゃうんだよ?」
「ひとまとめ?」
「うん! 兄貴なんて、いっつも『おめでとさん。和樹』って言葉だけだしさ。
 それが毎年なんだ。言葉だけってどうなの? って気がしなくない?」
「ふふ。優しいお兄さんだね」
「だからーー。ちっとも優しくないんだってば!」

 6月。── 梅雨。誰もが嫌う鬱陶しい季節。
 不機嫌に眉を顰めた、祖母の顔が浮かんでくる。

 俺は、望まれて生まれてきたのだろうか?
 柚木の家のことを考えれば、家を継ぐ長兄以外にも、男兄弟は多い方が良いに決まってる。
 だが、次兄と比べて、三男という存在はきわめて不安定だ。
 長兄のスペアは次兄。これは真であっても、次兄のスペアである俺は、必要と言えば、必要。不要と言えば不要の存在。

 案外、俺が女だった方が良かったのかもしれない。
 そうしたら、年近い雅と良い遊び相手になれたかもしれない。

「えっと、柚木? ……どしたの?」
「あ、ああ。なんでもない。今日はいろいろな人に話しかけられて、ちょっと疲れただけ」
「あー。そういえば、休み時間もひっきりなしだったもんね−。おれ、今日3回も柚木のことで話しかけられちゃったよ」
「そうなんだ」
「うん! さっきの子たちとは別の1年生かな。赤いタイをした女の子でしょう? それに、2年の普通科の子にも聞かれたっけ」
「普通科の子? 珍しいね」

 普通科と音楽科。同じ学院内にいるとはいえ、校舎が離れていることもあって、会うのはせいぜい登下校のときくらいだ。

 彼女たちは俺のことをよく知っている。いや、よく調べている、と言った方が正しいのか。
 しかし、俺はその人間のことをまったく知らない。
 不均衡な土俵の上、会話を作る面倒さ。
 優等生でありつづける芝居も、おっくうに感じることも最近はあったりする。

 火原は開いた書物には見向きもせず、目を輝かせて話し続ける。

「あー。それに、さっき正門前で柚木と話してた、3年の浅井先輩! あの人、フルート専攻の人だよね!
 おれ、昼休みに呼び出されて、勝手にドキドキしてたら、『柚木くん、呼んでくれる?』だったんだよなー。
 キレイで、大人っぽい感じの人だよね」
「そうだったんだ。火原も忙しい1日だった、というわけだね」

 火原には邪気がない。火原の言うことは、言われた言葉そのままに受け止めればいい。
 火原の純真な部分は、ときどきこんな風に、俺を素直に柔らかくさせる。
 ── こんなことが、こんなにも心地良いとはね。

「で、で。どうしたの? 浅井先輩に、なんて言われたの?」
「さあ?」
「えええーー。教えてよ〜。告白されたらさ、どうやって返事ってすればいいの?」
「おやおや。火原。僕は『告白された』とも、なにも言ってないでしょう?」
「だってさ、絶対告白されたに決まってるんだもん」

 火原は憮然とした顔で俺を見上げている。
 一人の近しい人間を作る、ということは、それなりにリスクも負う。
 リスクを取ってまで、女と付き合うなんてことは、今の俺には無用。むしろ煩わしいと言ってもいいくらいだ。

 火原は四角く くりぬかれた空を見ながらうっとりと話し続ける。

「おれは難しいことはよくわからないけど……。そうだな。おれを一途に思ってくれる女の子だったら嬉しいな」
「……そう」
「一緒にケーキ食べたりさ。あ、もちろんおれがおごるんだよ! それで、週末は、一緒に遊園地行ったり」

 ── 恋愛、か。
 もし俺が恋をしたとしても、それはお遊び。結論は柚木の家にゆだねられている。
 そもそも、好きという感情はどこから生まれてくるのだろう。
 結局、誰もが自分が可愛いんだ。恋愛なんて、虚構の中で自分を愛でているに過ぎないのに。



「香穂子〜。ここ、これでいいんだよね?」
「って、私に聞くの?? うーん。自信ないかも……」
「よし。香穂子。クラスの男子、よさげなやつに聞いてくる役、決定」
「えええ? 私なの?」
「数学なら、別のクラスの『土浦』って人、良くできる、ってウワサ聞くよね〜」
「土浦、くん……? 私、よく知らないよ?」

 隣の席では普通科の女生徒が賑やかな声を上げながら、試験勉強をしているらしい。
 少し声が大きい、と思いながらも、笑顔を添えて視線を投げかけると、とたんにその席は静かになった。
 香穂子、と呼ばれていた女も、顔を上げて、しまった、というようにうつむいている。

「さあ、火原? 一気に片付けてしまおうか」

 俺は持ってきた本を火原の方に向けると、参考になりそうな箇所を指さした。
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