「……違う。何度言ったらわかるの?」

 五線の上で踊っていた音符が、急に大きく滲む。
 心底呆れたような声を耳に捉えながら、わたしは鍵盤から手を下ろした。
 高校入試まで、あと1ヶ月。
 先週より、今週が。昨日より、今日の方が緊張の度合いは増している。
 『これ以上辛くなることはないよ。もう、大丈夫だよ。あと少しなんだから』
 誰かがそう、声をかけてくれたらいいのに。
 このままじゃわたし、緊張の渦に吸い込まれて、戻ってくることができなくなる。

 わたしのすぐ横で指導用の楽譜を見ていたお父さまは、盛大なため息をついた。

「もう1度やってごらん? お前ならできるだろう」
「……お父さま。もう、わたし、弾けない」
「なにを子どもみたいなことを言ってるのかと思えば」
「だって、わたし、まだ子どもだもの!」

 わたしは乱暴にピアノの鍵盤に手をついて立ち上がると、そのままお父さまの顔も見ずにピアノ部屋を飛び出した。
 
*...*...* 1st *...*...*
 何度も曲がる渡り廊下。
 背後からピアノの悲鳴が追いかけてくる。
 さっきわたしが手をついたときに立てた、イヤな音。
 基調和音でもない、ただの、無秩序な音。
 ピアノにはなんの罪もないのに。イライラしてモノにあたるなんて、わたし、最低。

 さっきのお父さまとのレッスンを思い出す。
 お父さまの優美な音。その後に続く、わたしの荒削りな音。
 分かっていても、頭と指は違う方向へ走り出す。
 わたし、やっぱり、お父さまやお母さまみたいに、音楽の才能なんて、ないんだ。

 わたしは縁側にあったお母さまのつっかけを引っかけると、そのまま中庭のさらに奥へと身体をひそめる。
 高さが1メートルくらいしかない小さな桜は、幼い頃からわたしが秘密基地として使ってたところ。
 最近、わたしの身体は少し大きくなったけど。大丈夫。まだ使える。
 背を丸めて小さな隙間に滑り込む。
 葉っぱのついていない細い枝は、痛々しいほど晴れ上がった空を射貫くように伸びている。

 この季節のこの子は、春の姿が想像つかないほど淋しげな顔をしてる。
 それを見てまたわたしは泣きたくなる。

「本当に、わたし、星奏学院、受かるのかなあ……」

 この子が満開の頃、わたし、笑っていられるのかな? 『サクラサク』なんて合格通知、もらえるのかな?

『あなたなら、多少体調を崩しても必ず合格圏内でしょう』

 わたしのピアノをずっと見てくれている先生は、わたしの星奏学院入学に太鼓判を押してくれてる。

 わたしが星奏学院の音楽科に行きたい、って思った理由。
 音楽が、好きだから。ピアノが、好きだから。
 この2つには、絶対、自信がある。
 だけどこの自信は、ちょっとお父さまに注意されただけで、砂の城みたいになし崩しになるんだ。

 本当に物心つかない頃から、わたしのまわりには絶えず音楽があった。
 お母さまは、ちょっとした時間ができるたびにせっせとヴァイオリンを手にしていたし。
 わたしが即興で歌うあやふやな歌にも、一緒に楽しみながら伴奏をつけてくれたりしたっけ。

 そう。わたしを育てたのはお母さま。
 こと音楽に関しては特にそうだった、って思う。
 『あなたのいいところがいっぱい出せる曲になるといいわね』
 なんて言っては一緒に演奏して、いろいろな解釈を聞かせてくれたっけ。

 お父さまは、お仕事が忙しい日が多かったけど。
 それでもお母さまのお話を聞いては、お母さまのヴァイオリンと一緒にデュオを楽しんでた。
 そんな2人の間に割り込みたくて、わたしは居間にあったピアノに手を出したのが最初だった。
 どんな拙い音を出しても、お父さまとお母さまが笑ってくれるのが嬉しくて、つい、夢中になった。

『ねえ。あなた、ピアノ、好き?』
『うん! わたし、ピアノ、だいすき。ぜったい、ピアノ、うまくなる。おとうさまやおかあさまみたいにうまくなるの!』

 お父さまは口には出さなかったけれど、わたしがピアノをやる、と言ったことがよっぽど嬉しかったみたい。、
 わたしがピアノを習い始めてからすぐわたし用の新しいグランドピアノと、ピカピカのメトロノームを買ってくれたっけ。

 ──── そう。
 音を通してわかり合える、という感覚。
 わたしと、お父さま、お母さまの間に、日本語以外の新しい言葉が生まれたような感じが特別だった。
 さらに、この新しい言語は、日本語とは違う。
 わたしたち3人しか知り得ない、秘密の暗号のような、とっておき、な感じがあったんだもの。

 これ以上身体を冷やすのはマズイ、と、私は鼻先が付くほど思い切り膝を折り曲げた。

 そう。……小学生の頃までは楽しかった。
 だけど。
 ある日突然気づいちゃったんだ。
 わたしはどれだけ練習したって、お父さまお母さま2人の音楽に追いつけない、って。

 音楽って、万国共通語の楽譜がベースにある以上、誰だって譜面さえ読めて、指使いがなんとかなれば程度のレベルにはなれる。
 なのに、わたしが作る音と、お父さまが作る音はやっぱり違う。お母さまとも違う。
 これが本当の才能の差? 決定的な違い?
 考えれば考えるほど気が滅入ってくる。
 どれだけ頑張っても、わたしはあの2人のようにはなれない。
 誰か、本当のわたし自身を見てくれる人は、いるのかなあ……。

 1月半ばの風のない日とはいえ、やっぱり庭は寒い。
 勢いよく部屋を飛び出してきたから上着もない。
 だけど、部屋には戻れない。
 だって、もし、お父さまと廊下なんかで出くわしたら、わたし、どうしていいかわからない。

『ごめんなさい、お父さま』

 昔は簡単に言えた言葉が、今は言えない。
 音楽って、先が見えない。
 星奏学院に合格すれば、それがゴールなの? そこがようやくスタートラインなの? どっちなんだろう。

「あ……」

 ガサリ、と玉砂利を踏む音が、近づいてくる。
 お父さま? それとも、お母さま?
 お母さまならまだいいけど、お父さまだったら?
 わたしは姿を確かめるのが怖くてぎゅっと目を閉じた。
 バカバカ。最初が肝心なんだもの。ごめんなさい、って。いつもみたいにごめんなさい、って言えばいいのに!

「ふふ、やっと見つけた」
「お、お母さま!」
「今日は暖かいけど、そんな薄着じゃ風邪引くわよ。ほら」

 お母さまはそう言うと手にしていたカーディガンを私の肩に乗せた。
 タマネギの皮を何枚も重ねたような色のカーディガンは、本当はお母さまのモノ。
 それを身につけたお母さまは陽炎みたいに儚げで。
 わたしも同じモノを身につけたら、少しはお母さまに近づけるかな。
 そんな気持ちで欲しい、って我儘を言ったっけ……。

「来年も、桜が楽しみね」

 お母さまはまるで生き物に触れるかのように優しく桜の木の幹を撫でている。
 そうだ。この桜の木を、お母さまはこの庭の中で一番大切に扱ってた。
 花が咲けば咲いたで、去年より早いとか遅いとか。
 若葉がいっせいに空に向かう頃、虫が付いたりしないか、とか。
 紅葉が今年は少なめだったから、葉の調子が悪かったのかしら、とか。
 ああ、そうだ。
 この子が咲いている間中、お母さまは、必ずこの子を仏間に飾る。
 そこにはわたしが一度も会ったことがない、お祖母さまがいらっしゃるから、と。

 お母さまの目は桜の木からするするとわたしを捉えたところで止まった。

「大変? ピアノの練習」
「う、うん……。お父さまの言うとおりに弾けなくて」

 お母さまはいつもふわふわと雰囲気が柔らかい。
 滅多に怒らない。怒ったところを見たことがない。
 意地悪なクラスメイトのことを相談してたときも、少しはわたしに同調してほしいって思ってるのに、
 お母さまはそのクラスメイトに対してちっとも腹を立てない。
 そのお母さまに腹を立てて、わたしが怒ってしまうこともしょっちゅうだ。

「……お父さまはあなたに期待してるのよね。だから、つい練習にも力が入ってしまうんだと思うわ」
「そ、そうだよ! お父さま、気合い入れすぎだよ。わたし、あんな風に弾けないもん!」

 お母さまはわたしの味方だ、と思った瞬間、わたしの声に力がこもる。

「ムリなことばっかり言うんだもの。もっと表現力を、とか、解釈を、とか! あとね、それからね……っ」

 お父さまは確かにわたしのお父さま、なんだろうけれど、やっぱり異性だからかな。
 お母さまに対して話すようにすらすらと言葉が出てこない。
 だけどお母さまは違う。心の中を掃除するみたいにどんなことでも伝えられる気がする。
 お母さまは何度も頷きながら私の話を聞いたあと、ぽつりと口を開いた。

「……お父さまは、本当は音楽の道を進みたかったんだと思うの。
 だけどね、進みたくても進めなかったから……。
 だから、その分もあなたに託しているところがあるのかもしれないわね」
「え……?」

 進みたくても? ……進めない?
 なに、それ。聞いたことない。どういうこと?

 ぽかんと馬鹿みたいに口を開くことしかできなかったわたしの頬にお母さまは手をやると、その冷たさに眉をひそめる。
 そしていつもの優しい笑顔になると、わたしの背を押した。

「ちゃんとお父さまに謝るのよ? お父さま、笑って許してくれるだろうから」
*...*...*
 おそるおそる、足音を忍ばせながら、さっき飛び出したピアノ部屋に戻る。
 楽譜台は元の位置に戻され、お父さまが座っていた椅子も、壁際の定位置に片付けられている。

 ──── 本当、なの?
 お父さまが、音楽の道に行きたくても行けなかった、って本当のことなの?

 部屋の隅、ガラスケースの中に入っているフルートに目をやる。
 そして壁に飾ってある何台かのヴァイオリンも見上げる。
 今でも時折お父さまが手にするフルートは、いつでも準備万端とばかりに、こちらを静かに見据えてる。
 週末、夕食を終えたあと、よくお父さまはフルートを取り出して、手入れをしたり、ときには奏でたりもする。
 いつも愛おしそうに握りしめている仕草に、私、そんな深い意味があったなんて、思いもしなかった。

「……なんだ、戻っていたのか?」
「お、お父さま!?」

 ふいにドアが音もなく開いて振り向くと、そこには普段のお父さまが立っていた。
 どうしよう。心の準備が出来てない。どうしよう。
 謝らなきゃいけないの、分かってる。わたし、さっき、酷いことしたもの。
 勝手に席を立って。このピアノにも痛い思いをさせたもの。
 どうしよう……。

「どうした? そわそわして」
「ごめんなさい! お父さま」
「は?」
「さっき、ヘンなこと言って、勝手に出て行ってごめんなさい」
「……ああ。香穂子になにか、言われた?」
「ど、どうしてそう思うの?」

 さっきの中庭でのこと、お父さま、見てたのかな?
 わたしとお母さま以外、人影はなかったのに。
 お父さまはわたしがどう思っているのか、なにもかもお見通しみたい。
 淡々と根拠を説明していく。

「簡単だよ。お前がさっきまで着てなかったカーディガンを着てるから、香穂子が届けたんだと推察しただけ」
「う……。ご名答です」
「ついでに話を聞いてもらったんだろう? さっきよりさっぱりした顔をしてる」
「……あの、聞いた、の。お父さまの話を」

 そういうとお父さまは、おや? と言いたげに眉を上げた。

「えーっと、その、お父さまがね、その、高校でね、音楽を辞めたって」
「……ああ」

 本棚にある楽譜を取り出そうとしていたお父さまは、いったん手を止めると、わたしの方に向き直った。

「俺はお前が好きだよ。別にだからと言って、俺の生き方や後悔をお前に押しつけるつもりはない」
「うん……」
「ただ、やると決めたなら真剣にやれ。そうでなければ音楽に失礼だ」

 お父さまはそれだけ言うと、見たい楽譜が見つからないのか、ふたたび真っ直ぐ本棚を見つめる。
 取り澄ましたような端正な横顔が、悲しいような、淋しいような気がして、わたしはムリに明るい声を出した。

「えへへ。お父さま、さっきわたしのこと、『好き』って」
「ああ。それがなに?」
「ね、その『好き』って、お母さまよりも『好き』の、『好き』?」
「は?」
「つまりね……。順番をつけたら? わたしが1番? それともお母さま?」

 楽譜と、フルートと、ピアノ。それにヴァイオリン。
 音楽に囲まれた部屋で、わたしはお父さまに少しでも違うことを考えて欲しくて、お父さまの言葉尻を取るようなおかしな質問をする。
 するとお父さまはやれやれといった風に微笑むと、わたしの手を取って言った。





「俺にとっては、どっちも譲れない1番だよ」
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