*...*...* Phone *...*...*
 出るか、出ないか。
 俺は瞬時に、自分の行動に対するメリット、デメリットを考える。
 もし、自宅にいる今、鳴っている携帯に出なかったらどうなるか。
 帰宅したお祖母さまからの苦言を聞き、それを受け流し。
 結果的に、俺からかけ直す、ということになるだろう。

 逆に、携帯に、もし、出たら。
 こちらも結果は同じだ。
 女の言うがままに、会う場所、会う時間を取りつけて。
 この前の見合いの続きのような、堅苦しい時間を過ごすのだろう。

 ──── どちらにしても、着地点は同じ。

 庭に膜のかかったような残照をまき散らし、秋の夕陽が落ちていく。
 自室から見る庭の木々は初冬の風に吹かれて身を縮めている。
 俺は牧神の楽譜を膝に置くと、携帯を取り上げた。

「……失礼しました。柚木ですが」
「あ! 梓馬さん? 忙しい時間でしたか? 私。礼乃です」
「いえ。大丈夫ですが、なにか?」
「すみません。図々しいかと思ったのですが、梓馬さんのお祖母さまから、連絡をもらって。
 一度わたくしの方から梓馬さんにご連絡するようにと。ふふ、……あの子は奥手ですから、って」

 この前の堅苦しい時間を経て、相手も少し余裕が出てきたのか。
 それとも、あちらの親に言い含められたか。
 よくいえば親しく、悪くいえば慣れ慣れしくなった女が電話口で話し続ける。

「奥手、ですか。それは心外だな」
「いえ、そう聞いたら、私、なんだか勇気が出てきてしまって! 明日、よろしければ礼乃とご一緒してください。
 あ、そうだ。待ち合わせの場所は、最近完成した駅ビルでいいですか? 2階に可愛い喫茶店があるんです」

 俺は本人に気づかれないようにため息をつく。
 そして、さっきと同じように、今から起こす行動における、メリットデメリットを考え始める。
 ──── 断っても断らなくても、こいつと会うことは絶対、か……。

「……わかりました。では具体的な時間と、待ち合わせ場所を教えてくれるかな?」

 不愉快さを押さえながら返事をする。
 電話口の声は楽しそうに待ち合わせの時間と場所を話し続けている。
 夕方の6時。
 今日は確か、家にいるのは俺1人。
 夕食の時間がどう、という面倒はないにしろ、ずっと話し続けられるのも不快さが増す。

「梓馬さん? あれ? 聞こえてますか?」
「ああ、ごめんね。そろそろうちは夕食の時間みたいだ。もう失礼してもいいかな?」
「まあ。そうでしたの? でしたら早く言ってくださればいいのに。
 では、時間と場所、間違えないでくださいね」

 多少の棘を含ませて話してみたが、どうやら相手には通じなかったらしい。

「それじゃあ、また」

 俺は最後まで仮面を被り続けたまま、電話を切る。

「……さて。どうしたものか」

 このまま、まだぬくもりが残ったままの携帯で、香穂子に連絡をするのも、あいつが汚れてしまう気がする。
 だが、どうにもあいつと話したいという気持ちが収まらない。
 机の上の時計に目をやる。
 6時を少し過ぎた時間。あいつはなにをしているのか……。

「失礼します。お兄さま、いらっしゃる?」
「ああ、雅か。お入り」

 かすかに足音が近づいてくる。と思ったら、それは聞き慣れた人のもの。
 じっとふすまに目をあてていると、その奥から凜とした声が聞こえた。

「あら、お兄さま、今日はずっと家にいらしたの?」
「ああ。まあね。……おや? 今日の夕食は俺たち2人だけ?」
「ええ、そうね。確かお祖母さまもお父さまたちも、宗家の会合があるとかで、出払ってる、ってお話じゃなかったかしら?」
「ふぅん。そういうお前はどうしたの。今日は確か学校の行事で遅くなるって言ってなかったか?」
「ええ。男子校との他校交流があったのだけど、つまらないから抜け出してきちゃったの。
 どうしてかしら? 同級生の男の人ってやたら頼りない気がするの」
「……なるほどね」
「私、1人きりの夕食だったらイヤだなあ、って思ってたの。嬉しいわ。お兄さまがいてくれて。わたし、温めてくる」

 雅はどこかほっとした顔で笑うと、作法通りの美しさで立ち上がる。
 こういうところは、厳しいお祖母さまの躾けが、母親よりも大きな影響力を以てして行き届いている、といったところか。
 日頃は、味にも厳しい祖母を気遣って、母はできたてのものを食卓に出すようにしているが、今日は母も不在。
 通いの使用人が言われたとおりに作った、ある程度腹を膨らますための料理が置かれているはずだ。
 俺は雅の制服を見て、ふと浮かんだことを口にした。

「ああ、そうだ。礼乃さんって確かお前と同じ学校だったな」
「礼乃さん? そうね。私より2つ学年は上だけど、知ってるわ。なあに? お兄さま。彼女がどうかしたの?」

 俺は口元に苦笑を浮かべたまま、雅の顔を見上げる。
 すると雅は俺がなにを考えているか察したらしい。
 やれやれといった風に、大げさに首をすくめた。

「……多分、お兄さまの直感は正しいわ。悪い人ではないんだけど、人に気を遣われて生活をしてきた方でしょう?
 私たちみたいに苦労してないのよ」
「……そう」
「いそいで温めてくるわ。そうね、5分経ったら、ダイニングに来て」
*...*...*
 すっかり温度を無くした携帯を手にすると、俺はリダイアルであいつに電話する。
 身体が近くになくていい。声だけでも、聞けたらいい。
 だけど、聞いて、どうする? なにを話すんだ。

『もう、他の人に任せないで。私、柚木先輩がいい』

 隠しきれない恥じらいを頬に乗せて、だけど、目だけは真剣に、すがるように俺を見て。
 そう言ったあいつに、俺は今、なにを告げようとしているんだろう。

『もしもし、香穂子です!』
「ああ、俺。……今、お前、話しても大丈夫か?」

 土曜日の夕方。
 あいつの父親はごく普通のサラリーマンだと聞いたことがある。
 だったら、一家水入らずで食卓を囲んでいるのか、それとも、お茶の時間か。
 いずれにしても、柚木の家のような冷たさとは無縁の明るさがあるはずで。

『はい。今、……自分の部屋に来たので、もう大丈夫ですよ?』

 少しだけ息を切らす声。ぽすんと、なにか柔らかいものの上に腰掛ける音。
 あいつは今、笑ってるだろうか?
 そう考えるだけで、自然と笑みが浮かんでくる。

 ──── こいつは、いつも笑っていればいい。
 ヴァイオリンを抱えて、目をきらきらさせて、笑っていればいいのに。

『えへへ。この時間に電話って珍しいですね』
「別に意味はないよ。……ただお前に甘えているだけ」
『は、はい? あ、あの……、面と向かってそんなこと言われると、その、どうしていいか』
「ははっ。この場合『面』っていうのは顔のことなの。今は電話越しだから、顔は付き合わせてないだろ」
「あはは、そういえばそうでした」

 電話越しの香穂子の声は、実際の声よりも少し甘くて幼い。
 息さえも漏らしたくなくて、耳に携帯を押し当てる。
 香穂子も同じ気持ちなのだろうか。
 少しの間、2人の間に沈黙が続いた。

「悪い」
『……柚木、先輩?』
「明日、女と会う。会ったからってお前にするようなことはしない。会って、話して、別れる。それだけだ」

 携帯はさっきの沈黙とは違う別の静けさを作り出している。

「約束の相手は、この間の見合い相手。前に話しただろ? お前と同い年の。
 お前に先に言っておいた方が、噂で聞くより気が楽と思って連絡しただけ」

 そもそも、俺の都合を分かれという方が無理があることは分かっている。
 
 泣くか。怒るか。それとも、女と会う場所を聞き出すか。
 香穂子はどんな行動に出るのか。
 
 ところが、意外にも香穂子の反応は俺の想定外のものだった。

『そう、ですか……』
「それだけか?」

 電話口で香穂子は小さく笑う。
 なんの思惑もなさそうな、無邪気な声。

 これが香穂子の芝居でもなんでもなくて、本心なら。
 俺は、よほど信用されているのか、それともどうでもいい存在なのかどちらかだ。
 そして、それは多分前者だろう、という想像もつく。うぬぼれでもなく、純粋に。
 香穂子は、それほど器用なタイプの人間じゃない。
 どうでもいい存在の人間に時間を割くほど、暇なやつでもないだろう、から……。

『……私は柚木先輩が好きですから。いいですよ?』
「香穂子」
『気をつけて行ってきてくださいね』

 あまりにあっさりと切り返されて、俺は更に憎まれ口を叩きたくなる。

「お前は俺に甘いんだよ。相手の……。俺のどんなことも許してしまう」
『ううん? そんなことないですよ?』
「どうしてそう言い切れる?」
『……今は、柚木先輩が好きだから、いいんです。でも、そうじゃなくなったら……。私の気持ちが変わったら』

 一瞬の沈黙。こくりと息を呑む音。

『……柚木先輩がどんなに引き留めても、私は柚木先輩のそばから離れます』
「香穂子……」
『だから、……だから、ちゃんと掴まえててくださいね。……私がどこかへ行かないように』

 声だけは気丈に振る舞いながら。ときには笑い声も交えて香穂子は話す。
 だが、俺が今思い浮かべるあいつの顔は、きっと涙を浮かべている。

「今から1時間後。温かい格好をして待ってろ」
『は、はい? 柚木先輩、なにを……?』

 俺は素早くコートを羽織ると、頭の中で雅への言い訳を考える。
 勘のいいあいつのことだ。なにも言わずに許してくれるだろうか。
 それともちゃっかり、なにかしらのペナルティを与えて、自分そっくりの顔で笑うだろうか。

 俺は携帯を耳に押しつけたまま、自分の部屋をすり抜けるとまっすぐ玄関へを向かった。




「……ここまで俺を甘やかしたんだ。もう少し付き合ってくれてもいいだろう?」
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