*...*...* オンリーワン *...*...*
パンッと、勢いよく、かけっこのスタートを切る音。それに続く、歓声。
9月23日。――快晴。
今日は早矢(さや)の運動会。
昨日までのこれでもかっていうくらいのヒドい雨も、ウソのように晴れ渡って、
運動場のところどころにある水たまりがなければ、これ以上ない運動会日和だった。
「サヤね、サヤね。今日、ちゃんと、できるかなあ?」
夏休みが終って、この2週間というもの、早矢の園生活は毎日が運動会の練習一色だった。
家に帰ってからも、何度もその日園でやったことを繰り返して、
『あのね、今日は、こんな風に踊ったの』
とわたしたちに見せてくれてたから、
わたしたちまでその振り付けを覚えることができるくらいで。
「ね、けーくん、……これで、いいかなあ?」
「もう〜、早矢、『けーくん』じゃなくて、『パパ』でしょう?」
運動会当日になっても、まだ、振り付けに自信がないのか、わたしがお弁当を作っている間にも、 早矢は珪くんにまとわりついて、あれこれ手足を動かしている。
珪くんはまっさらな白いTシャツに着替えながら、微笑んで。
「……ああ、いいんじゃないか?」
「もー、けーくんっ! 間違ってるときはちゃんと言ってよう!」
ふふ。……また、珪くん、早矢に言い負かされてる。
本当に女の子っておしゃまなのよね。
この頃はテレビの影響か園生活での賜物か、大人っぽい言回しを流暢に操(あやつ)るようになって。
そのたびに珪くんとわたしは、目をくるくるさせて笑っちゃうんだ。
「「どこで覚えてきたの?」」
って。
「おまえなら、大丈夫」
珪くんは、屈んで。
早矢の目線に合わせながらゆっくりと言う。
「あのな、大切なのは、楽しんでくること、だから」
「……そう、なの?」
「そう」
「ほら、朝ごはんできたよ? 今日はいっぱい食べて行ってね?」
わたしはそんな2人に声をかける。
――いつもの、いつも繰り返される、そんな日常。
2人を見てて、頬がゆるむ。
ありがたいな、って。いつも思う。
『有難い』……有る、ことが、難しい。
だから、絶えず、感謝しなきゃ、って。
*...*...*
プログラムは順調に進んで、いよいよ早矢のお遊戯の番になった。「もうすぐだね〜。お遊戯、楽しんできてね?」
と、わたしは早矢の頭をぽんぽん、と撫ぜて。
あれ?
今まで年長さんの器械体操や、年少さんのカスタネットのリトミックをにこにこ見ていた早矢は
心持ち強張った顔をしている。
「早矢?」
「ん……。なんだかサヤ、キンチョウしてきちゃった。……行きたく、ないよう」
「そんな、行きたくない、なんて……」
「早矢、入場門まで一緒に行くか?」
早矢は顔がすっぽり隠れるくらいの大きな白のボンボンを手に持ちながら、小動物のように不安げな目のイロをしている。
確かにいつもの園での練習とは空気が違う、とは思う。
たくさんの観客の前で、しかもほとんどの親がビデオやカメラでバシャバシャと子どもたちを写すから。
その熱気や歓声に、すっかり怖じけついちゃってるんだ……。
「んー。もうすぐ出番なのに。……ね、同じクラスのお友達、もうみんな並んでるよ?」
「ほら、ついてってやるから」
「……イヤなの」
わたしと珪くんがいくらとりなしても、早矢は膝を抱えたままびくともしない。
「珪くん、どうしよう?」
「……困ったな」
珪くんも、帽子をかぶり直しながらため息をつく。
これじゃ、抱っこして入場門まで行っても、すぐ帰ってきてしまいそうだし……。
それ以前に、行きたくないの、とダダこねて、泣きだしてしまってもかえって収拾がつかなくなりそう……だし。
「ね、早矢……って、な、なに!?」
なんとか言い含めようとわたしが声をかけたとき。
視界の端に、早矢が持ってるボンボンと同じ色を捕えた、と思った瞬間、そのボンボンはわたしの腕をかすめて、早矢の前でスタッと止まった。
「サヤちゃん、オレと行こ?」
「ル、ルイくん!?」
……ルイくん?
いつも幼稚園から帰ってきた早矢が、おやつを食べているとき、一番最初の話に出てくるオトコのコ。
ただ、お互いの自宅が遠いから、一緒に遊んだことはなかったけど。
早矢の話では、ルイくんがいつも引っ込み思案の早矢をリードしてくれているようだった。
ルイくんは早矢の横に座ると、小さな手で入場門を指さしたりして、懸命に説得している。
「あのね、あのね、……サヤ、ちょっとコワくなっちゃったの。先生も、いつもより、コワいお顔してるし」
「……大丈夫。オレがいるから」
時おり聞こえるルイくんの声。
「……うん!」
大きく頷く影。
しばらくして。
早矢は、さっきまでベソかいてたのがウソのように晴れやかな顔をして立ち上がると、
「じゃあ、ママ? けーくん? サヤ、ルイくんと行ってくるから!
2人とも、サヤのお遊戯、ちゃんと見てるんだよ? いい?」
と、片手でビシっとわたしたちを指差して、
もう片手はしっかりルイくんと手をつないで行ってしまった。
この変り身の早さには、2人してビックリすると同時にふき出してしまう。
「なあに? あれ」
「……さあな」
ひとしきり笑ってから、わたしは珪くんに尋ねた。
「珪くん、……ちょっと、悔しいでしょ? 秘蔵っ子を取られて」
ときどきわたしがその血縁関係に妬(や)きたくなるほど、あんなに可愛がってた一人娘だもの。
すると珪くんは、穏やかな目で早矢の後ろ姿を見つめて、
「いや、これでいい、と、思う」
と、ぼそっとつぶやいた。
「本当に?」
「ああ。……俺たちが、土台を作ってやる。それから先のことは早矢自身が決める。
……俺たちは、ただ、見守ってやればいいんだ」
「珪くん……」
珪くんがそう言うのはとてもよく解かる。
けどね、ついわたしは見守ることができなくて、目に見える『わかりやすいモノ』に頼ってしまってた。
ひらがなが書けるか、とか。
一桁の計算ができるか、とか。
――ピアノのレッスンが◯◯ページまで進んだ、とか。
でも、珪くんは、違ってた。
バイオリン、本当は大好きだったのに、
途中で、親のために弾いてる、って気づいた瞬間に、もう見るものツラくなったって。
親のため、じゃなく、自分のため、にできることを早矢には見つけてほしい、って。
そういう力を持った子にしたい、って。
わたしが周囲のお母さんたちの話を聞いて、自分の子育てに関して戸惑っているとき、珪くんは、いつもゆっくりと諭(さと)してくれた。
『無事に産まれたことを、感謝しろよ』
『唄の歌詞じゃないけど、早矢は、『ナンバーワンじゃなくてオンリーワン』だろ?』
……その度に、我に返ったっけ。
ふと見ると早矢は、極上の笑顔で踊ってる。
あれ? わたしたちがいる場所、気付いてないのかな?
ここにいるよ〜って、手を振ってみるけど。
そんなこと全然おかまいなしで、あ、今度はルイくんと一緒になって、踊ってる。
『アナタ ハ ワタシ ノ ココロ ノ サイワイ』
この頃は珪くんが、早矢に聴かせてるお話の一節が脳裏をかすめる。
早矢。
無事に生まれて。
健やかに、こんなに大きくなって。
わたしたちに笑顔を見せてくれる。
自分の意志で、少しずつ歩き出してくれる。
親のわたしたち、より、大切なものが増えはじめている。
それを、大好きな珪くんと、一緒に見守れる、幸せ。
――わたし、の、家族。
「馬鹿、なに泣いてるんだ?」
「う、ううん!な、なんでもっ」
珪くんは、まるで早矢にするみたいに、わたしの頭をぽんぽんと撫ぜて。
さりげなく背後に立つと、わたしの両肩をつかんで言った。
「なあ」
「ん?」
「早矢には、親の都合で離ればなれ、ってことにはさせたくない、な。……俺たちみたいに」
まるで自分に言い聞かせてるみたい。
泣いて、これ以上泣けないくらい、泣いて。
そして珪くんはあきらめることを憶えた、って。
この世にはどうしようもないことってあるんだって。
ただ、そのことを理解するには、幼すぎたんだ、……って。
「早矢にとって、俺たちは、……忘れるくらい軽い存在であってほしいと思う。
そこに存在することが当然で、忘れるくらいの」
「そう、だね……」
早矢の人生、だもの。
こうして、わたしたちの姿を追うことなく踊っているように。
早矢の人生は、早矢自身が、決めていって欲しいよね?
放任ではなく、かといって過保護でもなく。
早矢が助けが必要な時はいつでも、手を差し延べられる位置で、ずっと見つめていてあげたいね?
お遊戯が終盤に差しかかったとき、子どもたちの愛らしいポーズを撮ろうと、お父さんたちは白線ぎりぎりまで前に詰めかける。
でもわたしたちはビデオ撮影はしない。
ファインダーから覗く早矢を見てるより、自分の目に焼き付けておいた方がずっといいだろ? って珪くんが言うから。
……というより、今までいっぱい写真を撮られすぎて、
『あんなのは全て虚構だから』
って、悟ってしまった、……んだって。
お父さんというお父さんが、みんな必死になってビデオを回してる中、飄々(ひょうひょう)とした表情で早矢を眺めてる珪くん。何だか、可笑しいよ?
お遊戯が終って、満面の笑みと鳴り止まない拍手の中、早矢は誇らしげに微笑んで退場門へと向かった。
その時も、ルイくんと手をつないでいく早矢を見て。
「……やっぱり、少し悔しいな」
と、珪くんはぽつんと洩らした。
「あはは、『これでいいと思う』っていうのは、強がりだったんだ〜?」
わたしが茶化すと。
珪くんは、少しだけ肩に置いた手に力を入れて言った。
「少しだけ、義父さんの気持ちも解かった気がする」
「え?」
「おまえをもらったときの、義父さんの気持ち。……義父さん、こんなに早くを手放すことになるとは、って泣いてたからな」
お父さん。
珪くんが結婚の挨拶に来てくれたとき、ずっとずっと不機嫌で。
ろくに返事をしなくて。
わたしと母さんはなんとかお父さんに話をさせようと、話題を振るんだけど、口をへの字に曲げたままだった。
それが、もう珪くんが帰るという間際になって、突然目頭を押さえて。
『こんな娘だけど、……一生懸命育てたから。可愛がってやってくれ』
って絞りだすように言って、……眼鏡を、取った。
その時の目の赤さも、くぐもった声も。
……不思議だ。
親になってから思い出すと、また違った感情がわいてくる。
「?」
「ん、なあに?」
わたしがぼんやりそんなことを思い出してると。
珪くんは、わたしの意識をこっちに向けさせるように、肩を抱き寄せて言った。
「は、早矢と違って、……ずっと俺のそばにいてくれるだろ?」
「も、もちろん!」
わたしの肩をにぎる、その手に。その力に。
――わたしも、ずっと、支えられて、生きたいな。
珪くんと、ともに、あるように。