*...*...* In my mind *...*...*
 カサリ、と参考書をめくる音がする。

 ふっと息をつめて。
 細い指が開いたページの表面をなぞっている。


「えと……、じゃあね、次……。
 『So many men, so many minds.』は?」
「……十人十色」
「うっ。正解、珪くん」


 夕暮れが近い、はばたき市立図書館。
 咲良に言われるままに、早めに昼食を取って、それから寄り道もしないでここへ来て、かれこれ4時間以上が経過している。


「じゃ、次、俺、だな。
『It is no use crying spilt milk.』
 ……これは?」



 咲良は俺の口の動きをゆっくりとマネをしながら、右手で、くるりくるり、とシャープペンを回して、
 まるで、イタズラが見つかった子供のような小さな声で訳している。


「ん……。『spilt』は『spill』の過去分詞形だから……。
 確か『こぼれる』っていう意味だったよね…。『ミルク』が『こぼれて』……?んんん?」
「ん?」
「うーん、わかんないっ。降参っ!!」
「『覆水盆に返らず』……『こぼれたミルクを嘆いても仕方ない』ってこと。
 『no use 〜ing』を『〜しても仕方ない』って訳せるかが、キーなんだ。……わかるか?」


 俺はそう言って『no use 〜ing』に薄く下線を引いた。


 一流大学の過去問を眺めていた咲良が、突然ノートにとんっ、と頭を臥せてしまったから、
 また、苦手な数学につまずいたのかと思って顔を横に向けると。
 咲良はまた起き直って英語の過去問のページをにらんでいた。


「どうした?」
「う〜〜。わたしね、長文読解は好きなんだけど……。こういう、選択問題、マズいかも……。
 悩み出すと、とことんわからなくなっちゃうの」
「そうなのか?」
「ん……。特に、英語の『ことわざ』っていうのかな?  苦手……。意味がね、全く見当つかないの」


 そう言って、ちょっと遠くに置いてあったエンジ色の辞書を手元に寄せるとパラパラと意味を調べ出した。



 ……真面目なんだよな、こいつ。
 なんにでも一生懸命なのはいいけど。
 俺から見ると、ときどき真面目すぎる、というのか、
 ……少しだけ、要領が悪いようにも見えたりする。


 心なしか、この頃は顔色も優れなくて。
 何時に寝てるんだ、と訊くといつも黙り込むから、本当のところはわからないけど。


『必死』って言葉がピッタリくるくらい、
 いつも見えない力が咲良の背中を押してるような気がする。



 軽い気持ちで、

『おまえ、……バカだな』

 とからかったら、以前は『ば、バカじゃないもんっ』と
 笑って言い返してきたのに。
 こうして受験が近づいてきてからは、

『うっ。そうかも……』


 と、下を向いて、必死に問題集をやり直すことが多くなった。


「咲良……」


 俺は咲良の見ている辞書のページをそっと手で覆って。
 もぉ、なによう!とでも言いたげに見上げてきた目を見つめた。



「なぁ……。
 日本語でも、英語でも、そうだけど……。
 ことわざ、とか、言い回された使いまわし、って言うのは、
 とても聞き取りやすい、と言うか、韻を踏んでる場合が多い……。
 だから、理屈で考えるより、そのまま覚えてしまった方が早いんだ」
「そうなの?」
「そう。そういうの、いっぱいある。
 『No news is good news.』『Out of sight, out of mind.』……」
「わっ。待って、待って〜!」


 覚えちゃうから、待って、ね?
 咲良はそう言って、俺が言ったコトバを必死に書き留めてる。

 再び真剣にノートに視線を落とし始めた咲良を見て、
 俺は、この前咲良から告げられたことを思い出していた。







『……ね、珪くん。……わたしも、一流大学、受験してもいいかなあ?』
『?……別に、俺が決めることじゃないだろ?』
『あっ!う、うんっ。そうだよね。
 えへへ、そうだよね。珪くんに訊くより、まず氷室先生に訊いてみなきゃ、ね?』



 かぁっと頬を赤らめてそう言うと、さっさと別の話題を持ち出した咲良。


 俺はこの時のことを思い出すたびに、とても居心地の悪い思いをする。
 きっと、咲良なりに勇気を出して言ってくれたんだと思う。


 ただ。
 咲良の、少し高めの甘い声が、




『……受験しても、いいかなあ?』
『……一緒にいても、いいかなあ?』



 こんな風に言ってるように聴こえて。
 勝手にあわてて、俺は『俺が決めることじゃない』と言ってしまった。


 ―― 俺、本当は、嬉しかったのに、な。
 おまえがそう言ってくれたとき。



 でもおまえは俺の言葉を聞いた時。
 おまえはどんな気がしてたんだろう……?




 「えっと、できた、よ?」

 俺がぼんやりと咲良のつむじを見つめていると、
 咲良は机から顔を上げると、嬉しそうにノートを差し出して来た。
 見ると。
 ……間違ってはいないんだけど、全部、直訳している。
 俺はシャープペンを赤のボールペンに持ち替えて、咲良のキレイな字が躍っている個所に丸をつけた。



「はじめの。……これは、日本語にも同じことわざがある。
『便りのないのは良い便り』って。
 次の、は……。『out』って、『外』ってことなんだ。
 こうやって、主語も述語もないようなフレーズと言うのは、
 主語は、『One』、『人』であることが多い。
 『視界の外にいる者は、やがて、心の外に行ってしまう』
 これは、おまえの訳したとおりだよな。
 ……日本のことわざではなんになると思う?」
「んっと……。見えないと、だんだん離れていっちゃう、ってことだよね?
 あ、わかった!『去る者、日々に疎し』だ!」


「……そう。エライエライ」



 俺が力を込めて言うと、咲良はくすぐったそうに笑って。



 「『Out of sight, out of mind.』かあ……。
 珪くんのおかげでまたひとつ賢くなれたよ?」



 その。
 咲良の発音があまりにもキレイで。


 俺は思わずそのオトが生み出された場所を見るともなしに見つめていた。
*...*...*
『Out of sight』

 咲良を家に送りながら。
 俺の頭の中では、さっき咲良に教えた言葉が咲良の声で何度もリピートされていた。



『Out of sight』


 ……そうなのだろうか?
 人はみんな、視界から最愛の人が消えても、やがて時間と距離に風化されて、
 簡単に忘れていくことができるのだろうか?


 付き合ってるわけでもなく、ましてや恋人でもない咲良。
 あと、数ヶ月、クラスメイトとしてこうして一緒にいて。
 あと、数ヶ月、したら、卒業して。



 そのとき。
 俺の視界に彼女が映らなくなったとき。



『out of mind』




 俺は咲良を心の外に置くことができるのだろうか?


 数センチ。
 今ならなんの苦労もなく、繋ぐことができるこの手を。  また永遠とも思える程の長い時間、手放さなくてはならないのだろうか?


 そして今度は。
 ―― 入学式のように再会できるとも限らないのに。



 咲良の家に着くための、一番最後のカドを曲がったとき、俺はやりきれない思いに囚われて立ち止まった。



「……咲良!」
「わっ。な、なに? いきなり大きな声出して」
「……おまえ、どうして、一流大学受験するんだ?」




 あの時、勝手にあわてて。
 訊きたくて訊けなかったこと。
 言いたくて、言えなかったこと。


 咲良の顔を覗き込むようにして尋ねると、
 咲良は軽く唇を噛んで、もじもじしながらマフラーのチェック柄をなぞっている。



「訊いてるだろ?」
「えっと、珪くん……。怒らない?」
「……言ってみろよ」
「ううっ。……っと。……くん、が、行くから……」
「聞こえない」
「も、もう〜〜! 珪くんが、行くから、だよ」
「……咲良……」



 その、なにかに挑むような声に、思わず目を見開くと。



「わーん。ごめんなさい。不純な動機だ、ってわかってる。でもね……」



 と咲良はすまなそうに目を逸らして。



「もしも、ね……。一緒の大学だったらね。
 構内で、ちょっとでも珪くんの姿、見えるかな、って……。
 あ、でも、大学って大きいから、そういうの、ムリ、かな?」
「……バカ」
「ううっ。……そのとおり、です……」



 どうして、おまえ、そんなに弱気なんだろうな。



 それとも。
 おまえにだけは、もっともっと俺の中に踏みこんで来て欲しい。
 そう思う俺がいけないんだろうか?
 俺の言葉を言葉どおり受け取った咲良は、キレイな眉を寄せて俯いている。



 違うんだ。
 ―― 俺が、本当に言いたいのは。
 伝えたいのは。



「咲良……」



 俺は咲良の顎に手を添えて、無理やり咲良の顔を持ち上げた。



「大学なんて、関係ない。たとえ違う大学でも……」
「え?」
「……どこでも。……俺が咲良に会いに行くから」







『Out of sight』




 見えなくなったら。





『in my mind』




 おまえを心の中に手繰り寄せてやる。





『なあ、珪。……見えなくなったら、目を閉じるんだ。
 そうしたら、見えてくるだろ? おまえの大好きなコが』



 泣くことも忘れてぼんやりしてばかりの俺を、宥めるようにさすりながら、
 何度も何度も同じ言葉を繰り返してた、じいさん。




 昔はそうやって、やり過ごしてた。
 ―― 自分で自分の人生が切り開けなかった5歳の頃までは。


 でも、今は違う。
 おまえが俺を必要としてくれるなら。
 できる限りそばにいてやりたい。
 ―― いや、俺がそばにいたいんだ。





「だから、……ムリするな」
「む、ムリなんてしてないよっ。うん、してない」


 目をくるりと動かして、斜め上を見る咲良。
 ―― おまえ、ウソつくとき、本当に分かりやすいんだよな。



「バレバレだ……。おまえ」



 俺はそう言って、真っ赤になった咲良の鼻をつまんだ。




「い、いひゃい……」
「風邪引いてるんだろ? 今日は早く寝ろよ」
「は、放してよう」
「……約束したら、な」
「……す、するっ。しますっ。だから、は、放して〜!!」
「ああ。放してやる」




 全く強引なんだから〜、と咲良は鼻をさすりながら、俺に文句をつけてくる。
 おまえの寝込んでるところなんて見たくないからな、とさらりと言い返してやると。


 咲良はやや改まった声で。



「でもね……。
 少しでも、追いつきたいよ、珪くんに。
 顔、というか、見た目はこんな感じだし。
 性格、っていうのも、変えようと思ってもなかなか変わらない、から。
 わたしの、できるところで、……珪くんに近づきたい、よ?」
「咲良……」
「嬉しいの。
 数学の問題が、ひとつ解けるようになっただけでも。
 英語のことわざ、ひとつ知っただけでも。
 また、……少し。
 珪くんに近づけたかな、って。ふさわしくなれたかな、って、思うんだもん」





 咲良。




 ―― おまえ、どうしてそんなに愛しいんだよ。




 この3年間。
 おまえとの出会いの日を境にして。
 全てのものに、彩りとぬくもりがあることを知って。
 十分すぎるほど、多くのものを俺に与えてくれて。




 ……それでもまだおまえは、更に与えつづけようとしてくれる。



 絶えず。
 ずっと。




「おまえ、……もう、十分だ」



 それだけの言葉を必死で繋ぐと。



「ううん。ダメなの。足りないの。……もっともっと、って思っちゃうの」

 珪くんのことに関しては、わたし欲張りなんだよ? 知ってるでしょう?



 まるで見えない相手に自慢しているかのように、自信たっぷりの口調でそう告げるから。
 そのエラそうな咲良の様子に、俺は思わず笑った。




 咲良。
 ……咲良。



 おまえの名前を口の中で転がすだけで、
 こんなにも、胸を締め付けられる、なにか、が、ある。
 ―― 何度言っても言い足りない。



 俺の、一番。





 オトコで良かった。
 こんな風に、簡単におまえを引き寄せられるから。
 そんなことを思いながら、俺は咲良の抱き寄せると耳元でささやいた。



「バカ……。それ以上頑張ったら……」
「ん?」











「……俺が追いつけないだろ」
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