*...*...* キリリク 19000 *...*...*
「えぃ……っと。……、も、少し……」

 わたしは思い切りつま先に力を入れて背伸びをする。手を伸ばす。
 かすかに鈍い音を立てて、ベージュ色のそれが動く。
 あと、もう少し、もう少し、だもん。

 わたしは深く息を吸い込むと、これ以上は無理なくらいぐぐっと背中に力を入れて、同じことを試みた。


「っと……っ」


 結果は同じ。
 理科室用の木製の丸イスが、鈍い音を立ててかくり、と揺らぐ。
 わたしはそれを、目の前にあったビーカーや試験管が入っている戸棚の扉を掴むことで、バランスを取った。


 ……やっぱり、ダメだ。

 それ、に、触れることのできる指が1本から2本に増えただけで、
 目的の段ボールはちっとも手前に移動してこない。



 ここは校舎の外れにある第一理科室。
 朝のSHR終了後、日直のわたしはこうして理科室に来てフラスコの準備をしている。
 アンラッキーなことに、今日は一緒に日直を組んでいる男子が、
 私立大学の入試だからってことでお休みをしていて、
 わたしは一人で化学の実験の準備をしなくてはならなかった。

「ふぅ、っと……」

 この頃の教室は、受験シーズンが本番を迎えたからか、
 わたしたち3年の教室は、それこそ歯が抜けたかのように、まばらな友だちを数えるばかりになった。

 氷室先生も、あまりに出席者が少ないときは、挨拶のあと出席しているコを目で追って、
 そしてふっと大きく息を吸うと、パタンと出席簿を閉じてしまうこともしばしばで。


 いよいよ、なんだな。


 なんて、このごろのキン、と冷えた空気とともに、目に見えない受験への緊張感がぐるぐると身体を締めつけてくる。


(やっぱり、有沢さんと一緒に来れば良かった……)


 って、ちょっと考えてかぶりを振る。
 ダメダメ、人に頼っちゃ。
 わたしはたった今、自席で食い入るように単語帳をめくっていた有沢さんの様子を思い浮かべた。


 今、一番大事な時だもん。
 みんな、大学を目指しているコは、この一瞬一瞬が惜しくて、大切で。

 どれだけ頑張っても、自分の勉強のどこかにモレがあるんじゃないか、
 詰め込んだ知識は明日になったらすっかり抜け落ちてるんじゃないか、って気持ちになっちゃう。


 だから受験までは……、って、自分の本当にやりたいことは全て後回しにして ストイックな生活をしてるの、
 自分も同じ立場だからとても良くわかってる。

 きっと彼女にお願いしたら、


『全く、さんは仕方ないわね……』


 なんて、アンニュイな言葉使いとは裏腹に、軽く腰を浮かせてくれるだろうことは予想がついたけど、
 それだけはしたくなかった。


 じゃあ、……って。
 高2年の時から、


 『あたし、勉強って向いてないんだ〜。進学なんてムリムリっ』


 なんてさらりと自分の進路を決めて。
 さっきも氷室先生の目を盗んで、雑誌読むのに余念がなかった奈津実ちゃんに甘えても。
 ……きっと奈津実ちゃん、わたしと同じくらいの身長だから、結果は同じこと、かも。



(珪、くん……)




 わたしは、思い出すことを一番にしたい、と感じていながら、
 それを後へと引き延ばしていた人へと考えを向けた。

 珪くんは他の級友のように、滑べり止めの大学、というのは受験しないようだった。
 そのため、受験だからと学校を休むことはなく毎日ちゃんと通ってきている。

 そんな彼と、顔を合わせたり、たわいない話をしたり、というのは、
 今のわたしにとって、一番ほっとする時間なんだ、……けど。


 今年に入ってからというもの、珪くんは朝、教室に入ってくるやいなや、
 長い腕をくるりとネコのしっぽのように丸めて、机につっぷしてることが多くなった。


 見るからに寝不足なのは明らかで。
 まさか、あの珪くんが受験勉強している? なんて、それもちょっと考えにくいし。
(って、よく考えればすっごく失礼なこと、言ってる、かも)

 じゃあ寝る暇を惜しむほど、珪くんは夜、何をしてるの?
 と思わないでもなかったけど、訊くこともなんだか恥ずかしくて。

 わたしは珪くんの赤い目を見るたびに、言いかけていた言葉を口の中に押しこむような作業をしていた。


 そしてそれは今日の朝も同じことだった。


、おはよ……』


 そう言って、小さく微笑むとわたしの後ろの席に座って。
 氷室先生が来る頃には、すやすやと夢の中に行っちゃったんだ。


 それがね。
 それが、とても気持ち良さそうなの。

 18歳の男の子がね、それこそ本当にあどけなく安心し切っているような穏やかな顔で眠っているんだよ。

 今が1年の中で一番の厳寒期だっていうのに、窓からこぼれてくる日差しは日増しに、強く深くなって、彼の髪の上を踊る。
 わたしは、きらきらと彼の周りを取り囲むように舞う光の粒子に見とれていたら、
 とても起こしてまでお手伝いしてもらうなんて申し訳なくて、
 珪くんが起きないように、こそりと席を立ってここに来たんだったっけ。


(珪くんと会えるのも、もう少しなのかな……)

 珪くんの顔、見れて嬉しいクセに、嬉しさの後には淋しさが付きまとう。
 お話してると、楽しいハズなのに、息の継ぎ間には切なさが込み上げる。


 それは。
 どれもこれもリミット付きのことだから。



 3月、まで。


 ううん、もうしかしたらそれは、卒業式までのことかもしれないんだもの。



「……泣かないんだからっ」


 潤んだ視界をごまかすようにわたしはくるり、と周囲を見回す。

 今から、今スグ、この身長を5センチ伸ばして、って神様にお願いしても、悔しいけど、それは簡単に却下されるだろう。

 ……要は、この、わたしが今乗っているイスよりもちょっと高いイスがあればいいんだよね。
 わたしはくるっと黒板の方に振り返ると、教壇のあたりに目星をつける。
 ……ん、アレ、使えそう。


 わたしは日常のわたしより50センチ高い世界から、黒板と教卓の間にあるパイプ椅子を見つけた。
 たたっとそこに駆け寄り、手にしてみると、わりとしっかりした造りなのが分かる。
 わたしはパイプ椅子を運んでくると、その上に用心深く丸イスをのっけた。


 えと、ちょっと、グラグラしてるけど、平気、かな?

 パイプ椅子の縁に足をかける。……わわっ、ふ、不安定、か、も……。
 大丈夫、少しだけ、だもん。


「や、やってみよう……!」





 かくしてわたしはチャレンジャーになる。
*...*...*  *...*...*
 ひんやりとした空気が続く廊下。
 足早に駆けて行く、ナースシューズの音。


 周囲の空気以上に、重く冷たい沈黙がロビーの長椅子に腰掛けているわたしと珪くんを取り囲む。


 あの時、フラスコ入りの段ボールとともに、廊下まで響きわたる音を立てて落っこちたわたし。


『わ、、アンタ、なにフラスコに遊んでもらってるのよっ。って、だ、大丈夫なの!?』


 わたしよりちょっと後に理科室に来た奈津美ちゃんは、
 初めは冗談を飛ばしていたものの、しかめっ面のわたしに気付くと、
 血相を変えて目線に合わせるようにしゃがみ込んだ。


 そしてそのちょっと後に来た珪くんは、 わたしと奈津実ちゃんの表情を見て、
 弾けるように駆けて来ると、有無を言わさずわたしを抱きかかえて保健室に運んだ。
 保健医の先生は、かなり腫れ上がったわたしの足首を一目見て、
 レントゲンを撮らないとなんとも言えないから、と、テキパキと病院に連絡を取るとタクシーを呼んだ。



 そんなこんなで、今、わたしたちははばたき市立病院にいる。




 珪くんは病院に来てから一言も口を利かない。




 ……今まで2人きりでいたことって、それこそ数え切れない程あったのに。
 こんなに続く沈黙というのは初めてで。




 ううん、……違う。

 珪くんは無口で。
 今までこんな風に2人の間に沈黙が横たわることは何度かあった。

 でも、それらは全部、わたしにとってほわりと心地良いもので。
 なにか言葉をつながなきゃ、なんて気を使ったことは一度もなかった。
 ……でも、今は違う。


 わたしはプリーツスカートから伸びた脚の、その終点を見る。
 そこには、今朝起きたときには想像もしていなかった、包帯でぐるぐる巻きにされている自分の足首があった。


 幸いなことに腫れと痛みのわりには、骨はどうもなくて、
 1週間も大事にしていれば治るでしょう、というお医者さんの話を聞いて、
 なんとか受験日には元に戻りそうだと、わたしは受験日を逆算しながら、ほっと胸をなでおろしていた。


 でも。
 わたしは沈黙をごまかすように、自分の横に立てかけてある松葉杖をそっとさすった。


 新しい品なのか、スチールで出来たそれは、思ってた以上に扱いやすく軽いもので、
 丁度脇に抱えるクッション部分は、光沢のある薄いピンクのストライプの布で覆われている。
 途中のビスの調節で、使わないときには畳んでおくこともできるようで、
 これなら学校に行っても、授業中それほど邪魔にならないだろう。



 ……問題なのは。

 可愛らしい松葉杖よりも。
 ちょっと熱を持っているこの脚よりも。


 ―― 隣りにいるこの無口な、人、なんだ。



「えっと」


 沈黙を破るように口を開くと、珪くんは目だけでわたしに返事をした。
 ううっ。……やっぱり怒ってる。



「あの……」



 なにか、なにか言わなくちゃ。


 こうして学校を早引けして、病院まで付き添ってくれる彼に。
 ありがとう、とか、ごめんね、とか。えっと、いっぱい。


 言いたいことはたくさんあるのに。
 珪くんから伝わって来る拒絶の空気に、うまく舌が回らなくてわたしは思わず上唇をなめる。

 すると、わたしの言葉を待たずに、むしろそれに覆いかぶさるような硬質な声が届いた。



「……どうして、俺を呼ばない?」
「ん、と……。だって珪くん、寝てた、し……」
「起こせばいい」
「ん、……なんだか疲れてるみたいだった、から……」
「関係ないだろ」


 いつもの優しい口調とは全然違うその響きに、わたしは胸に熱いものが込み上げてきた。




「か、関係ないこと、ないじゃない!
 珪くんは今日は当番じゃなかった。疲れてるように見えた。とっても気持ち良さそうに寝てた。
 だから、わたしは声がかけられなかった……っ!」



 言い出した言葉は止まらない。
 心配してここまで付き添ってくれてる珪くんになんてこと言ってるんだろう。
 やめて、ってもう一人の自分が引き留めてる。
 言葉と一緒に、ほろっと熱いものが頬を伝う。


 もう、もう、わたし、こんなところでなに泣いてるんだろう。



 売り言葉に買い言葉じゃなくて、ちゃんと、そ、そう、お礼言わなきゃ。
 って、その前に、謝らなきゃ!

「ご、ごめんなさ……」









「もっと頼れよ」










 ことばの途中で、突然引き寄せられた肩。耳元に感じる、声。



 けれどそれはさっきのような冷たさを持った音ではなく、なにか力だけが抜けてしまって、
 自然に流れ出てきたような、柔らかいものに包まれていた。



「頼れ」
「珪くん……」
「おまえがケガしたらって思ったら、俺……」



 置かれた手が、存在を確認するように、強い力でわたしの肩をつかむ。



「い、イタい、よ、珪くん……」



 わたしの抗議にも関わらず、珪くんはその手を緩めない。
 それどころか、さらにわたしを引き寄せて肩口にとん、と顔を埋めると、くぐもった声でつぶやいた。




「……後悔する」
「え?」
「……おまえになにかあったら、俺、一生後悔する」
「珪、くん……?」



 どうして?
 無茶なこと、したのはわたし。
 ケガをして、脚がジンジンするのも、わたし。



 けどでもどうして、キミの方が痛そうな声、してるの? 傷ついた表情を浮かべているの?



「だから……頼れよ」




 珪くんのブレザーに顔を埋めるようなカタチになっていたわたしは、クロールの最中のようにふっと顔を上げて。
 やっとのことで返事を返すと、珪くんはようやく安心したように笑って回していた手の力を緩めた。
*...*...*  *...*...*
 病院の会計が済んで。



「よっ……っと……」



 わたしは初めて使う松葉杖を持て余していると、
 珪くんはわたしと松葉杖を交互に見比べて、なにか一瞬考え込んだ。



……。それ、貸してみ?」
「え? 松葉杖のこと?」


 わたしの通学カバンはもうすでに珪くんの手の中に収まっていて。
 わたしが今手にしているものといえば、この松葉杖しかなかった。




「……っな、なに……っ!?」



 わたしの思考よりも早く、珪くんは松葉杖を取り上げて。
 その代わりにわたしの背中に腕をまわすと、ひょい、と抱きかかえるように脇に手をくぐらせた。



(うわーー。うわーーーーんっ)




 こここれじゃ、ちょっとだけど、わたしの、ない胸が(って自分で言っててさみしいけど)、胸が、珪くんの指に当たっちゃうよう……っ!
 そんなわたしにお構いなく、珪くんは通りすがりの看護婦さんに松葉杖を渡して、ゆっくりとわたしを支えるように歩き出した。




「わ、わたし、自分で行くから、いいっ」
「さっき、頼れ、って言った」
「って、ね……。ほ、ほらっ、学校帰るときとか、やっぱりアレがないと……」
「ちゃんと送る」
「ん、でも……。朝、とか……」
「迎えに行くから、いい」
「……って、あの……」



 火照った頬がアツイ。
 きっとこれは珪くんの腕から伝わってくる熱のせい。




「でも、でもね、この頃珪くん、とっても眠そうなんだもん!」



 朝だけは頑張って自力で行きたいの、と、珪くんを見上げたら。





 珪くんは、わたしと変わらないくらい頬を赤らめて。
 ……知ってたのか、とかなんとかボソボソとつぶやくと、横を向いた。


 えええ? わたしまたなにかヘンなこと言っちゃったっけ?








 ―― 珪くんの夜更かしの理由を知ったのは、この日から1ヶ月先の、春の日のこと。
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