「……おまえ、もう知ってるだろ?」
「うん!……ね、本当に生野菜の苦いの、だけ?」
*...*...* Over and over *...*...*
街中が深い赤やら、こげ茶色、砂糖菓子のような淡い色、いろんな女の子の気持ちを詰めたようなさまざまな色に染まる頃、わたしは珪くんと一緒にショッピングモールに来ていた。付き合い始めてから、初めて一緒に過ごすバレンタイン。
去年もその前も、珪くんはわたしの目の赤いのを心配しながら(というか、からかいながら?)わたしが作ったバレンタインのチョコレートもらってくれたっけ……。
わたしはそのときのことを思い出すと思わず顔をほころばせながら、珪くんの手触りのいいラムスキンのジャケットのポケットに手をさし込んだ。
外の空気より、確実に温かい、場所。
珪くんの手の平とわたしの手の甲が同じ温度になる、場所。
片想いのときに渡すチョコも素敵だけど、こうやって両想いの彼に渡せるチョコって言うのは、特別で。
(う、嬉しいよう〜〜)
思わず眉間にシワを寄せたくなるほどの冷たい突風も、こうして隣りにいる珪くんと、今日のバレンタインのことを思えば、わたしは全くへっちゃらだった。
きっと。
受け取ってくれる。
美味い、って言って食べてくれる。
あまり無理すんなって笑ってくれる。
珪くんの仕事の都合がつけば、わたしたちは多分一緒に朝を迎えることになるだろう。
その時に返されるであろう、わたしが差し出した想い以上の珪くんの気持ちも……。
―― みんな、みんな、分かってる。
だからこそ、わたしは製菓コーナーや果物屋さん、洋酒コーナーをのぞき込むのに余念がなかった。
なに、を渡すかは、内緒で、珪くんのこと、びっくりさせたい。
プレゼント、は、チョコ。これは確定。だってバレンタインだし。
でも、高校時代3年間にあげたトリュフやケーキ、クッキーの類じゃなくて、もっとこう、ふたりで楽しめるもの。寒いから、あったかいもの。
どちらかと言えば、わたしの方が甘いもの好きだもん。できれば一緒に食べたい。
「あ、これ、いいなあ」
わたしは果物屋さんに並んでいる可愛らしいイチゴの名前を見て頬を緩めた。
「……ヘンなやつ」
ニヤニヤが止まらないわたしを珪くんはからかう。
「そんなこと言うと、珪くんの苦手なもの入れちゃうよー?」
「ん?」
嬉しいことや楽しいことは止まらない。わたしは付き合い始める前から珪くんに隠し事って苦手だった。それが、珪くんと一緒に過ごす計画ならなおさら、で。
わたしは、つい開きかけた口を慌てて閉じる。ダメダメ、内緒にしなきゃ。
「あ、っと……、えっと、珪くん、さっきの続き。なにか苦手な食べ物 あるかな?」
わたしはモゴモゴと口ごもりながら珪くんを見上げる。
ぴとっ、とショーウィンドウに張りついたわたしの背後から、ガラス面越しに視線が合う。
今日は天気がいいせいかまるで春のような日差しの中、珪くんも微笑んでるのがわかる。
それと吸応するようにわたしも微笑む。
ほわっと背中が温かい。これはきっと彼がわたしの背後からショーウィンドウを覗きこんでいるせい。
不思議だね。
―― 幸せって連鎖するんだ。
「った」
「またなにか企んでるだろ?」
わたしの耳を軽くひっぱりながら楽しそうな声が届く。
ううっ。言いたいけど、言いたいけどまだ言っちゃダメだもん。
わたしは目に止まった真っ赤なそれを見て尋ねた。
「えっと、珪くん。イチゴは、好き?」
「……キライじゃない」
「サクランボは?」
「しばらく食べてないな」
そう言って珪くんは小さくセキをする。
冬の間中、珪くんは、風邪を引いたり治ったりの繰り返しだ。でも体調不良をわたしに訴えることは一度もなくて。この前のデートでは、あんまり具合が悪そうだから、デートを早く切り上げて家に帰ろう、と提案したら、強い力で押しとどめられたんだ。
『おまえが帰ったら、もっとずっと悪くなる』
彼特有のわがままだってことはわかってた。けど抗えない自分もいて。
わたしたちはそのまま温かい場所を探すようにして、デートを続けたんだったっけ……。
顔色の悪い珪くんを見つめながらずっと思ってたこと。
ね、珪くん。
こんなに好き、で。大好きなのに。
……どうして、身体の苦しみは半分こ、ううん、全部を引き受けることができないんだろう?
きっと珪くんは嬉しいことは分け与えてくれても、そういったものは分け与えてはくれなくて、もしかしたらわたしの分まで持っていってしまいそう、だけど……。
もう、わたしは珪くんの苦しそうな顔は見たくなかった。
「?」
珪くんはわたしの変化にとても敏感だ。
実は人って、みんな発信しているメッセージの大きさは誰もが一緒で、その割り合いが人によってまちまちなだけなんじゃないかな、って思うときがある。
言葉で表す人。
音楽で表す人。
絵画で表す人。
そして珪くんは言葉の代わりに視線で表すんだ。
(どうした?)
って。
ね、珪くん。
珪くんは、わかってるのかな?
わたしはその透明な視線がイタくて嬉しくて、ときどき泣きたくなること。
もっともっとキミになにかしてあげたい、って思うこと。
わたしの変化に、わたしより敏感でいてくれる彼に、心の中でありがと、って呟くと、元気な声で珪くんに告げた。
「じゃあ、この2月の寒さと風邪を吹きとばせ〜、っていうことでビタミン盛りだくさんにしちゃおう?」
ま、おまえにまかせた、と穏やかに微笑む珪くんに微笑み返しながら、わたしは鮮度の良さそうなオレンジにも手を伸ばした。
*...*...*
「……また、たくさん買ってきたな……」珪くんちのキッチンで、珪くんは呆れたように買い物袋を見てる。
わたしはゴワゴワした手触りの紙袋をダイニングテーブルに置いて笑った。
「ん、あれもこれも、って。ビタミンだけじゃなくて、美味しそうなもの、いっぱい買い占めちゃった」
「……おまえの好きなものばっかり、だな」
かなりの品数を諦めてきたんだけど、自分の両手で囲わなくちゃ持ち切れない程の紙袋を見て確かに絶句。
……ううん。ふたり分だもん! それにお菓子ならわたしの得意分野だから、珪くんよりも食べちゃうんだから。
わたしは羽織っていたコートをソファの傍に置くとキッチンへ向かいながら話しかけた。
「えっと、じゃあ、手伝ってくれる? わたしは材料を準備するから、珪くんはソース係、ね?」
「ソース?」
珪くんはオウム返しのように尋ねる。
その目を見開いた表情がかわいくて、わたしはつい調子に乗る。
「ん、そう。……コホン。いいか、私の言うことを良く訊くように」
何でも知ってる珪くんでも、やっぱりお菓子を作ったことはないよね?
今日はバレンタインだもの。今日1日は、わたしが主導権をにぎっちゃおう。
「似てない。……迫力不足」
珪くんに教えてあげることがあるということが嬉しくて、思わず恩師のマネをしたら、あっさり交わされた。
でもでもっ。珪くんの肩が振るえてるの、わかってるんだからっ。
「まず、この小さなお鍋に生クリーム入れて、温めます」
「こう、か?」
いきなり点火レバーを最大にしてる。こ、こ、これじゃ、焦げちゃうよう。
「わ、わっ。えっと、弱火でねっ」
先週の土曜日、ソース作りだけは尽と一緒に予行練習をしておいただんだけど、どうして尽と珪くん、おんなじことするかなあ?
くすくす笑うわたしを珪くんはちょっとむっとしてニラんでくる。
そんな、目を見開いた時の表情も、今のちょっと拗ねたような口元も、いつもの日常じゃ見ることのできない珪くんで。
『か、かわいいかも……』
って思わず言いたくなるのをぐっとガマンしてそ知らぬフリをしながらわたしは木製のレードルを手渡した。
「そ、そしてね、刻みチョコをゆっくり溶かしていくの」
「……笑ってるだろ?」
「笑ってないよう!」
あとで覚えてろよ、と独得の笑みを浮かべながら言われたとおりに作業している珪くんに、きっと忘れちゃうもん、と軽く応戦しながら、わたしは黙々と果物をピックに刺す。
赤やオレンジ、グリーンのそれはまるで季節を先取りしたように鮮やかな色をして。甘い香りを放つと大皿にうず高く盛り上がる。
(喜んでくれるかな……)
珪くんちに来て。
珪くんと一緒にいて。
ここまで準備しておきながら、突然不安になる自分がいる。
喜んでくれるといい。楽しんでくれたらいい。
けどそれは口に出してしまえば、珪くんに強要することになる、から。
ヘンだよね。簡単なこと、どうでもいいようなことはなんのためらいもなく口に出せるのに。
これ以上、望むことなんてない。
付き合い出して。いくつかの季節を一緒に通りすぎて。
珪くんのことが以前よりずっとずっと大切になってから。
いつも、思うよ。
(大好き、を、越えちゃった、人)
わたしは全部の果物をピックに刺し終わると、特にすることもなくぼんやりと珪くんと珪くんのいる景色を眺めていた。
色とりどりの果物。
ふつふつと鍋を踊る焦げ茶色。
ほっと癒されるようなふわりと甘い香り。
「?」
これからどうするんだ? と訊く珪くんの表情にいつもと変わらないイロを見て、ふっと不安が溶けてく。
いいかな? わたし、このまま、で、いいのかな……?
えへへ、と小さく誤魔化し笑いを前置きに、わたしは説明を続けた。
「んとね、ソースの中にブランデーとオレンジの皮を少しだけ入れるんだ。珪くん、ブランデー、少な目がいいかな?」
「俺は多目がいい」
珍しくきっぱり言う。
そっか、ドイツじゃ、16歳からビールも飲酒OKだし、珪くんもアルコールに強いのかもしれない。
「ん。じゃあ、そうしよっか?」
「その方が、おまえ、扱いやすいから」
「ん?」
「いや、なんでもない、続きは?」
「んんん? ……ん、でね、くるくると馴染ませて……まろやかになってきたら、牛乳でソースを伸ばして、……できた! チョコレートフォンデュの完成だよ〜。美味しそうだね」
「……だな?」
こっくりとした色合いのチョコレートソースは、尽と一緒に作ったのと同じくらいの大成功で。
「先生がいいから」
「生徒が優秀だから、な」
なんて同時に言って吹き出す。
ねね、あつあつのうちに食べようよ、と、テーブルをセッティングして。
さあ、というその時に玄関のチャイムが鳴った。
*...*...*
ふっと入ってくる冷たい空気。ガサガサと包みを受け取る音。紙を引っ掻くような音。ああ、きっと伝票にサインしてるんだ。
「……どうも」
無機質な珪くんの声。
それは時間にしてみればほんの少しの間、だったんだと思う。だけど。
わたしはかすかに膜を作りだしたソースの表面を、まるで自分のことのように可哀相に見ていた。
わたし忘れてたんだ。今日っていう日は女の子全員にとって特別な日だってこと。
わたしの存在を知らない人からしたら、いや、知っていたとしても、珪くんに片想いしている人はたくさんいるわけで。
惹かれたら。
感情を自分の中に閉じ込めておくことが難しいくらい好きになっちゃたら、なんとかその気持ちを本人に伝えたいって思うの、当然だよね。
今年も、1年食べ続けても食べ切れない程のチョコが事務所に届いてるのかな、とは思ってた。
けど、こうして自宅にまで送られてくるチョコまでは想像してなくて。
(せ、切ないかも……)
玄関のドアがぱたりと閉まって、珪くんのスリッパの音が近づいて来る。ダイニングに続くドアが開く。
わ、この足音がわたしのそばに来るまでに、平気な顔しなきゃ!
「お帰りなさい」
「……ああ」
笑ってるかな? 笑えてるかな? わたし……。
笑顔を作って珪くんを見ると、そこには、ピンク色のオーガンジーで可愛くラッピングされた小箱、と。あれ? 全部で3つ、あるのかな? そのコたちはどれもこれも愛らしいラッピングを施されて、とても大切そうに珪くんの胸に収まっている。
きっと世間がバレンタインだ、って騒ぎ出す前から準備してあったんじゃないかな。
準備期間の長さはその人の思いの大きさと比例する。
ってことは、きっとこのプレゼントを準備した人もたくさんの思いを珪くんに込めてるわけで……。
わたしは目の前の果物に目をやる。
相変わらず鮮やかな色をした果物たちが、静かに佇んでいる。
きらりとイチゴの上を流れるヒカリも心なしか元気がない。
わたしなりに考えたつもりだったんだけど、な……。
オレンジの端が少し水分を失ったように反り返っているのを見て、わたしは目の縁がじわっと熱くなるのを感じた。
この瞳から出る水分がそっくりそのままオレンジへと伝わって、みずみずしさを取り戻せば、いいのに。
そしたら、わたしもほんの5分前のワクワクした気分に戻れるのかな?
「。ドイツじゃ、な……」
「……ん?」
珪くんはダイニングの席にゆっくりと腰かけると、少しだけ首をかしげてわたしを見つめる。
「バレンタインって、女から男に渡すという決まりはないんだ。好きなヤツに渡せばいいんだ。男からでも、女からでも」
「ん……」
「だから、これ、おまえにやる」
「え?」
「……考えてた。ずいぶん前から。きっと、おまえがバレンタインの計画立て始めた頃と同じくらい前から」
受け取ってくれ、という言葉とともに、目の前に差し出される3つの小箱。
わたしはくすくす笑いながら、泣きながら、受け取る。
勘違いしちゃった自分に笑いながら。
珪くんの思いに、気持ちに泣きながら。
ね、わたし、なんだか、おかしいよ?
さっきから、『ん』しか言えてない。相槌しか打てない。
それはきっと、言葉では表し切れない感情だから。
(ありがとう)
泣き笑いの表情で、珪くんみたいに思いきり視線で表現してみたけど、目ヂカラがないからちょっと断念。
その代わり。
……いいよね? 女の子の日だもん。
わたしはそっと珪くんの背後に立って背中越しに腕をまわと、その滑らかな頬にキスをした。
―― 大好きな、人。
大好き、以上の思いをこの腕に込めて、伝えよう。
「ありがと、ね?」