もう少しすれば桜が花咲く季節、俺は自分のココロが縁の方から少しずつ乾いていくのを感じる。
新しいクラス。新しい教科書。……そして新しい友だち。
周囲は春の温かさと同調するように浮き足立つ。
今までの俺はそんな空気に馴染むことが出来ない、一介の傍観者だった。
埋めたくても埋められないこの空間。埋め方も知らなかった場所。
なあ、。
そこに、おまえが、入り込んできたんだ。
教室に入り込んでくる冬とは違う日差しや、反射したように光る緑色の黒板。
普段は見過ごしてしまうささやかものたちが痛いほど大切に思えてくる、この季節に。
*...*...* 君を迎えに *...*...*
「楽しかったね〜」白い喉を鳴らして出されたグラスの水を飲みながら、はさっきまでの興奮が醒めやらぬ様子だ。
「……そうだな」
「珪くんも楽しかった? あのボーカルの声、素敵だよね。もしかしたらメジャーデビューするかも、だね!」
ライブハウスの帰り、のど乾いちゃった、と恥ずかしそうに言うといつも利用する喫茶店に行って。
は柔らかい日差しがすべり込む窓側の席にちょこんと座って、嬉しそうに話を続けている。はにかみながらも楽しそうに言葉を繋ぐたび、肩までの髪はほわりと赤い頬をかすめてさらさらと揺れる。俺はそれをまるで初めて見るかのような新鮮な気持ちで見つめる。そして頭の中では、さっきまでの真っ暗なライブハウスでのことを思い出していた。
人って不思議だ。
五感の中で一番鋭いと言われている視覚が失われると、他の器官が必死にそれを補おうとするんだな。
ライブの後半、ステージの熱気とともに盛り上がる観客に揉まれて、新しい曲のイントロが流れるたびに隣りにいた俺たちの身体は小さくぶつかり合った。その時感じる華奢な肩と、ぴくりと遠慮がちに身体をひそめる仕草。そこに微かに香るシャンプーの匂いと柔らかな石鹸の香りが交り合う。
『ん? どうしたの、珪くん』
『……どうした、って、なにが?』
『顔、真っ赤だよ? 暑いかな、ここ……』
天上をくるくると回るミラーボールがときどき観客の顔を照らす。そのとき俺の顔を見たのだろう、は気遣うような瞳をして俺を見上げた。
『……別に』
俺は視線を逸らすとそっけなく答えた。
おまえは平気なのだろうか?
こんな暗闇で、俺と……男と肩が触れ合っても。
は『赤い』から『暑い』んだ、と。それ以外の考えなんて微塵もなさそうなあどけない顔で俺の顔をのぞき込んでくる。
『……もうちょっとこっち来いよ』
『え?』
『隣りのヤツにぶつかる』
軽く袖を引っ張りながら、を自分の近くへ寄せる。は素直にされるがままに俺のそばにやってくる。
狭い会場でしかもみんな盛り上がってるから、他人の肩がぶつかったってそれで文句をつけてくるヤツはいないだろう。
でもイヤなんだ、俺は。
── おまえが他のオトコに触れられることが。
誰の目にも触れさせたくない。ずっと俺の腕の中にとどめておきたい。おまえが微笑む理由が、原因がすべて自分だったらいい。そんなわがままなことをこの3年、どんなにか思い、願っただろう。こうしてライブの真最中、ボーカルの顔をうっとりと見つめている。その視線の先にあるボーカルにまでやりきれない感情が浮かぶ俺がいる。
俺との関係は、なんなのだろう?
高校3年間と同じクラスだったから、クラスメイトだ、と今は言えるだろう。でもそれは来月に控えた卒業式までの数日の話で。
たまに……、いや、2年生になってからは週末のどちらかに時間を決めて頻繁に会った。学校の帰りはお互いの都合がつけば一緒に帰った。バイト先も隣りどうしだから、これも都合がつけばお互い誘い合って家路に着いた。この3年間を思い出せば、どんな記憶の中にもひょっこりとの顔が残っている。かなり親しい関係だった、と自分では思う。
関係、『だった』、か……。
自分で思いついた考えのくせに浮かび上がったその意味に苦笑する。
……と俺との関係は過去形なのだろうか?
おまえと親しくなるにつれ、おまえを通して姫条や鈴鹿、ときには藤井や有沢ともたまに話をするようになった。中学のときから口を利く守村まで、俺の姿を認めるとこんなことを言う。
『葉月くん、……なんだか最近、表情が明るくなりましたね』
自分ではわからない変化。それを他人が先に気付いてくれる、その驚き。
。おまえはどこまで俺の中に入り込んできているんだろう。
どれだけ一緒にいても飽きることがないリアクションを見せるヤツ。絶えず前向きで、人のことばかり一生懸命で、落ち込んだり盛りあがったり忙しいヤツ。俺から見ると意地っ張りなのか泣き虫なのかわからないようなほっとけないヤツ。
気がつけばおまえの後ろ姿を追ってる自分に気付く。そして俺の視線と同じような熱が複数、別の方向から投げかけれられていることにも。
俺の心に風通しのいい窓を作ってくれたおまえ。
そこからはいつも温かい空気と思ってもみなかった光が溢れている。
だから、いつも目が離せない。たまらなく惹かれる自分がここにいるんだ。
俺はさりげなく周囲を見回す。
もともと暗い室内でしかもこの狭さなら身体が触れ合うくらいは不自然なことじゃない。
(触れたい)
おまえが遠くへ行かないように。いつも俺のそばにいてくれるように。
腕をの小さな背中に回す。手の平が華奢な肩を覆うように納まろうとする、そのとき。
『あ! 珪くん!! わたしの大好きな曲、始まったよ〜』
絶妙のタイミングで、はくるりと身体の向きを変えた。
『この曲、珪くんも好きだって言ってたよね? 良かった〜、始まるよ!』
『そう、だな……』
嬉しい、絶対聴きたかったんだ、これ、と、期待を握りしめるかのように両手を胸の前できゅっと合わせての視線はステージにくぎ付けになっている。
そうだよな。ライブを見に来て、ライブを見ないなんて可笑しい。
……けど。
この手を。
今、空を彷徨って行き場を失っているこの手をおまえの肩に乗せたら、おまえ、なんて言うんだろう?
確実な意志を持ってに触れること。それは俺にとっては初めてのことで。だから怖いんだ。驚かれて、拒絶されて、今保持している友達のラインまで崩れてなくなってしまうことが。
は目を輝かせて、ライブの演奏に合わせて嬉しそうに曲を口ずさんでいる。
今、頬に浮かんでいる赤味は、俺といるからじゃなくて、このライブの熱気のせい、なんだろう。
『……おまえこそ』
『ん?』
『赤い……。顔』
勝手に焦って、おまえとの距離を縮めようとしているのは俺だけなのだろうか? ややぶっきらぼうに言葉をかけた俺に、
『そう、かな? ん……ちょっと暑いかもね』
はそう言って屈託なく笑った。
*...*...*
喫茶店を出てを自宅に送っていく帰り道、通りすがりの公園からハラハラと桜の花びらが弧を描いて舞い降りてきた。「もう、卒業だね」
は名残惜しそうに花びらを手にしてつぶやく。
「春っていつもは大好きな季節なのに、今年は複雑……」
「複雑?」
「ん……。卒業、して……。たくさんお別れしなきゃいけないもん。いつも会えてた友達や後輩に会えなくなるの、やっぱり淋しいよ」
会おうと思えばいつでも会えるのに、ね? センチになってるのかなあ、と照れくさそうに笑う。
幼い頃のおまえと出会ったのもこの季節なら、別れたのもこの春近い季節だった。ゆらゆらと自分の身を降らす早咲きの桜の樹と、濃い桃色に染まったステンドグラスが脳裡に浮かぶ。はらりと一瞬だけ強く吹く風がふたりの間に沈丁花の甘い匂いとともに新たな花びらを降らす。
泣くことしか方法がなかった幼い自分が、憐れむかのように俺を見つめる。
「……呼べよ、俺のこと」
「珪くん?」
「呼び出せばいい。いつでも。……付き合ってやる」
『付き合ってる』なんて言ってる自分のズルさを詰りたくなる。自分からなんのアクションも起こさずに、の言葉に乗るポーズを取って。
俺は、ん、と嬉しそうに肯くにゆっくりと頭から顔、肩と視線を這わせていった。
目の前にいるおまえはあの頃のまま。
── でも確実に変わったものがここにある。
甘みのある声。柔らかな髪。……細い細い首。
……おまえ、女、だったんだよな。
おまえがもし男だったら、俺たちは得ることも失うことも考える必要がない無二の親友になれただろう。たとえおまえが幼い頃の俺たちを共有していなかったとしても、この高校の3年間を経て、俺は今のこの気持ちに確信が持てる。その自信があるんだ。
いつまでも子どものままではいられない。
失うことを覚悟で飛びこまなくては、人はなにも得られない。
── そんなこと、痛いほどわかっているのに。
やや無口になった俺をはいつもの穏やかな視線でほわっと包みこんで。自宅に着くと門扉に手をかけて俺に礼を言った。
「じゃあ、珪くん。送ってくれてありがとうね。今度は卒業式に、ね?」
「ああ」
キィ、とやや掠れた音を立てて門扉が開く。小さな身体が吸い込まれていく。
と思ったら、は満面の笑みで振り返った。
「珪くん。ごめんね。わたし、さっき、ウソついた」
「ウソ?」
「ん。ライブハウスで……。顔、赤いのは、暑いから、ってウソついた」
の頬の赤味が見る間に耳まで届く。ふわふわと定まらなかった視線がじっと見つめる俺に観念したかのように絡まってくる。俺はさっき暗闇で感じた甘い香りを思い出して顔が上気するのを感じる。はちょっとふてくされたような、すねたような早口で言葉を繋いだ。
「わたし、珪くんが隣りにいたから、ドキドキして赤くなっちゃったんだよ」
「俺が?」
「珪くんの顔が赤い理由も、一緒だったらいいな、って思ってた」
「……」
「それだけ! じゃあお休みなさい」
イマ ココロ ニ カゼ ガ フイタ
この気持ちは俺だけじゃない。
も、きっと、感じていてくれる。
同じ感情を共有してる。
一番分かち合いたいと思っていたおまえと。
── そう、信じていいのだろうか?
俺は玄関のドアに吸い込まれていく背中に声をかける。
「! ……卒業式の日、迎えにくるから」