*...*...* +1、−1 *...*...*
 ふっ、と。
 頭上から振り注ぐように鳴いていたセミの音が止んだ。


「あっ、と……。夕立でもやってくるのか? こりゃ……」


 俺は自室の部屋の窓を開け、薄く雲が立ちこめてる空へと手を伸ばした。キンキンにエアコンで冷やした室内とは違って、一瞬むっとするほど湿度を帯びた空気が、俺の手にまとわりついてくる。

 ったくねえちゃん、俺があれほど傘持ってけって言ったのに、あっさり「いらない!」って言い捨ててガッコ行っちゃったからなあ……。


 ため息、が、漏れる。


 今、ねえちゃんは高校3年の夏休み。
 ……高校最後の夏休みだっていうのに、

 『遊ぶのは7月いっぱい、ね? 8月からはスパートかけるんだー』

 なんて言って必死な顔して毎日ガッコに通っている。


 ヘンだよな。

 普通高校最後の夏休み、だぜ? もっとこれでもかっていうくらい遊んで、思い出作るのが普通じゃないのか?
 でもねえちゃんは俺のそんな助言にも耳を貸さずに、8月に入ってからというもの結構マジメに勉強を始めた。

 大変だよな〜。受験っていうの?

 弟である俺から見てても、ねえちゃんはけっして要領の良い方じゃない。
 キャラクター的に見れば、その要領の悪いところも可愛らしいのかもしれないけど。

 ……受験はシビアだからな〜。

 別にキャラクターの愛らしさを持ち合わせてるかどうか、なんて情報は大学側には不必要なワケで。試験当日、大学側が求めるだけの学力を示せればそれでオッケイなワケだもんな〜。

 たまに帰ってくる父さんは、変わらない。ねえちゃんに対する態度は以前と同じで変化がない。
 けど。
 始終ねえちゃんと顔をつきあわせてる母さんは、ねえちゃんの前では素知らぬフリをしてるものの、やっぱり初めての受験生を持った親! って感じで、なにげなくねえちゃんには気を遣ってるみたいだ。


 『受験生は身体が資本よね!?』


 と言っては料理番組をメモする機会がチラホラ増えた気がする。


 『……って、受験は来年の2月。今はまだ8月だぜ?』


 軽い調子で言い返すと、母さんは上目遣いに俺の顔を見て笑った。


 『尽も親になればわかるわよ』


 母さんの、口癖。


 ……ちぇ。
 ってことは、今、誰の親でもない俺がわからないのは、当然なんだよな?
*...*...*
 空がどんどん低くなる。それと同調するように真っ青だった空の部分は欠け出して、薄暗い雲が広がる。
 しょうがない。姉思いの弟としてはここは散歩という言い訳を口実にねえちゃんを迎えに行ってやるか、と椅子から立ち上がったそのとき、玄関から物音がした。


「じゃあ、珪くん。ありがとう。また明日ね?」
「……ああ。おまえ、今日はよく頑張ったから、今夜はちゃんと寝ろよ?」
「あはは。それはどうかな〜?」
「ダメ。……約束しろよ」
「ん。了解、です」


 かすかに漏れ聞こえる会話。それはふたりの親密度が空気の流れになって2階にいる俺のところまで通り抜けて来たんじゃないか、ってくらい爽やかなモノで。


 ……あの葉月が、ねえ……。俺のファーストデータじゃ、確かかなりクチが重い、って話だったのに。いやそれは2年以上経った今でも変わらない、って確か守村のにいちゃん言ってたよな……。

 でも、たまに漏れ聞くねえちゃんとの会話を聞いてると、全然そんな感じがしない。むしろ、ねえちゃんの言葉を心待ちにしてて、それに対して応酬するのが楽しくてたまらない感じだ。


 ── ねえちゃんといるときだけ、心を開いてるのか?


 まあ、葉月は俺が知る限り、一番のイイオトコ、だし? 別にねえちゃんとそうなったってそれはそれで、イイオトコ・チェックがもっと間近で出来るっていうメリットもあるし……っと。いやいや、なにしろねえちゃんが幸せそうなら、それが一番だから、な?

 俺が階下の様子を聞くともなくぼんやりとしていると、パタパタと廊下を歩くスリッパの音が混じった。
 ……あ、この歩き方は母さんだな。


「まあ、葉月くん。いつもがお世話になって……。この暑いのに、勉強大変ね。、あなた葉月くんの足を引っ張ってばかりいるんじゃない? ごめんなさいね」
「……いえ」
「か、母さんっ。そんなミもフタもない言い方してっ!」
「ね。葉月くん。お礼と言うにはとってもささやかなんだけど、これからここでお夕食食べていって? なにしろ張り合いがないのよ〜。このコったらちっとも食べなくて……」
「母さんっ。珪くんの都合があるかもしれないでしょ? そんな急に……。ごめんね? 珪くん」


 必死な顔して、母さんのクチを封じ込めようとしてるねえちゃんの顔が目に浮かぶ。

 そうだよな。

 ねえちゃんも17歳だし。好意を持っているオトコを目の前にして、自分の子どもの頃の恥ずかしい話までもしかねない母さんの様子見てたら、冷や汗モンだろうな。

 それに対する葉月はYesかNoかくらいしか自己表現しない寡黙さだし。

 母さんはそれこそ客好きで話し始めたら最後、機関銃のように話し続けるし。
 そこがオバサンなんだよ、ってこの前、からかいの意味を込めて言ったら、今度は本当に子どもみたいにイジけちゃうし。


 ……ったくしょうがないよなあ。3人とも。


 『場を取り仕切る』

 っていう器量もイイオトコの条件の1つ、だよな?
 俺はゆっくりと首を回しながら、トントンと軽快に階段を踏みならして玄関へと向かった。


「……あ、尽。いたの?」


 俺の足音を聞きつけて、ねえちゃんはホッとほどけたような表情で俺を見上げてくる。

 ははっ。……心底、『助かった』って顔してる。
 俺はねえちゃんのそんなところが好きだ。なんか、ねえちゃんなのに、時々6つも歳が下の俺の方が、しっかりしなきゃって気分にさせられる。その瞬間が好きだ。純粋に『ねえちゃんって可愛いよな〜』なんてガラでもなく思えてくる。って別に年上スキーってワケじゃないからな、うん。

 俺は軽くねえちゃんに頷き返すと、葉月の方を見て言った。


「葉月〜。葉月さあ、今晩、なにか予定あるのか?」
「……別にない」
「外食の予定があるとか。お手伝いさんが夕食作ってくれてて、もう冷蔵庫にセット済み、とか?」
「……いや」
「じゃあ、今晩は、ここで夕食。決まりな? なあ、助けてくれよ。葉月〜」
「……ん?」
「うちの母さん、いつも夕食作りすぎるんだ。いつまで経っても3人家族の適量が分からない人なんだよ。そのしわ寄せが俺に来るんだ。『イイオトコの条件は、身長よ。食べないと大きくなれないわよ』なんて言ってオンナふたりでイジめるんだよ、俺を」


 おどけたようにして言うと、その時の状況を思い浮かべたのだろう、初めは戸惑うような眉を見せていた葉月が小さく笑って頷いた。


「……じゃあ、ご馳走になる」


 ねえちゃんは突然の事の成り行きがわかってないような、ぼんやりした顔で葉月のことを見上げてる。
 母さんは『もう一品増やさなきゃ!!』とスキップでも始めそうなくらい浮かれた後ろ姿でキッチンへ向かう。

 俺は、と言えば。


 すっとしなやかな黒猫みたいに、音もなく靴を脱いで玄関を上がる葉月に見とれていた。
 ……キレイだよな、葉月って。さりげない動作や身のこなしまでも。
*...*...*
 薄いベージュのテーブルクロス。その中心にはやや母さんの少女趣味が残る淡い色のトルコキキョウが控えめに差してある。


「……じゃあ、葉月くんのお母さんは、バイオリンの演奏のためずっと海外に?」
「……はい」


 もっぱら聞き役の母さん。まったく、ソンケーするよ。
 緊張からか、必要最低限の言葉しか語らない葉月から、こんなことまで聞き出しちゃうんだもんな。


 食事中。俺の横の父さんの席に葉月。その対面にねえちゃん、母さんがいつものように腰掛けた。
 それこそ月に1度帰ってくるか来ないかくらいの父さんが帰ってきたってこんなに皿は並ばないだろう、ってくらい目いっぱい並んだ料理を、俺と葉月ふたりでせっせと平らげる。その間、母さんはまさにちょっとおしゃべりが難の優秀なホステス、って感じで、次から次へと葉月のことを聞き出してる。

 スゴイよな。こんなに長いこと一緒にいるのに、オンナって終わりのない小説みたいに次から次へと新しい、そしてまだ見知らぬページが開かれるんだ。


 ねえちゃんは、というと。
 茶碗を持ち上げた。ご飯を臙脂色の箸でちょこんとつまんだ。さあ、クチに入れるぞ、と言うときに限って母さんがとんでもないことを葉月に聞き出すモンだから、正直全部は食べることできなかったんじゃないかな? 後半はもう諦めたように箸を置くと、麦茶ばっかり飲んでいた。


「じゃあ、葉月くん。これは提案なんだけど……」


 母さんの弾んだ声がする。ねえちゃんはその声に反応してぴくっと肩を振るわせた。
 ……あああ、もうっ。

 こういう場は楽しんだけどちょっと緊張するよな。多分、俺以外の人間の思惑が微妙に混ざり合ってるからだろうけど。


「……はい」
「これからも葉月くんの都合が良いときは、いつでもお夕食、食べにいらっしゃいな」
「母さん! そんなこと……っ」


 ガタン、と大きな音を立てて椅子から立ち上がったねえちゃんを、母さんは軽く目で制して、再び葉月の方を顧みる。


「親になるとわかるわ……。きっとね、葉月くんのお母さんも葉月くんの身体のこと、一番心配してると思うの。近くにいてあげたいけど、近くにいてあげれない。そのジレンマが母親には絶えずあると思う。それを世間は『母性本能』なんて安易な言葉でひとまとめにしちゃうけど」
「母さん……」


 ねえちゃんはこの先、この話題がどんな風に転ぶのか不安そうな顔をして再びトスンと椅子に座る。
 母さんは、目の前にあるフルーツを手に取って話し続けた。


「子どもの健康な身体を作ってあげる、というのは親として一番してあげたいことなの。人より秀でた才能がない母さんは、こうして主婦としてあなたたちのことだけ、かまけてればいいけど。……才能のある人は、『したくても、できない』……そんなツラいジレンマもあるのよね……」


 葉月は静かに箸を置く。目を伏せる。黄味がかったヒカリの中、ひときわ葉月の睫毛が頬に長く影を差す。


 睫毛が長いって言うのも皮肉なモノで。
 俺はその長さのゆえ、わかっちゃったんだ。


 ── 葉月の瞳がかすかに揺れていることを。



「へ、へえ〜〜。母さん。俺という息子がありながら、もう一人息子をゲットしちゃうワケだ〜!!」


 ここは一発はぐらかすしかないよなっ。っていうかもっと上手いセリフなんで思いつかないんだ? 俺……。途中で、自分のクチをひねりたくなるのをこらえながら俺は思い切りテンション高くしゃべり続けた。


「ふふふ。そうなるのかしら? 尽よりももっとずっと優秀な息子が我が家に一人増えるって感じよね?」
「ウェルカム、プラスワンって感じか〜? 夕飯をダシにしてなんか役得だよな、母さん」
「いいわよねえ。5人家族。 母さんね、本当は3人子どもが欲しかったから」
「って、まだ葉月の同意は全然取れてないと思うんだけど」


 葉月は目を見開いて、俺と母さんの会話を聞いている。
 でもその様子はかすかに睫毛が震えていた時とは違って、喜劇の続きを心待ちにして見つめてるような、楽しそうな色を浮かべていた。


 ……きっと。
 俺にとってはこんな夕食は、いつものありふれた日常。
 明日になっちゃえば記憶の片隅にも残らないような、なんでもない会話。


 だけど。
 葉月にとってはとっても新鮮で、温かい夕ご飯の時間だったんじゃないかな……?


 なんてことを思う。その途端、鼻の奥がツンと痛くなった。



 葉月は表情が乏しいと思う。
 けど、こうして近くで見ていると、『好意』だとか『愛情』とかをとても誠実に受け止めてくれてるような気がする。
 そしてその温もりがだんだん俺のところまで広がって、俺の方まで温かくなるような。
 ── そんな温かい瞳をして、俺たちのことを見てくれている。



 ねえちゃんは、家族だの、我が家だの、息子が増えるだの、そんな言葉に反応しまくってるみたいだ。俺たちがさっきたらふく食べたトマトみたいな顔をしている……と思ったら、今度こそはこの話題を阻止するぞ、という決意を顔ににじませて、すくっと立ち上った。


「も、ももう、この話はおしまい! け、珪くん。ごめんね。遅くまで。わたし、送ってくから……っ!」


 首筋まで赤くして自分以外の3人を取りなしてる。


「……どうもご馳走になりました」


 葉月は、というと、さっき俺が見たのはなんかの間違いじゃないか? ってくらいクールな顔をして立ち上がると母さんに礼を言った。


「い、行こっ? 珪くん……」
「……おまえ、どうしてそんなに顔赤いんだ?」
「あ、暑いからだよう! ほら、早く……っ」
「はいはい。後片付けは俺がやっておくからさあ。ねえちゃんは葉月とごゆっくり〜〜」


 ……俺はここでも助け船を出す。
*...*...*
 大量のお皿を食器洗浄機にセットして、俺はリビングのソファで一息ついた。やれやれ……。なんだかあの1時間足らずの夕食で、やけに疲れた気がする。


 母さんのパワーには参ったなあ。
 ……なにしろ俺やねえちゃんが何か言おうものなら、すぐ、

『親になればわかる』

 だもんな。

 全く経験がない人間に対して、経験したという事実だけを振りかざすってフェアじゃない。経験者はそれだけで免罪符。未経験のヤツはそれだけで太刀打ち不能になっちゃうだろ?

 俺は、『親になればわかるわよ』と得意げに鼻を動かして言う母さんの顔を思い出して、……思わず文句をつけたくなるのをぐっとガマンした。



 『親になればわかる』



 母さんはその強さを持って、ねえちゃんと俺、ふたりを育ててくれたんじゃないかな、って、ふとそう思えたから。


 そして葉月も。
 帰り際、来たときよりもどこかリラックスして。母さんの『夕食食べにおいで』提案にも、言葉少なながら肯定の返事をしていた、から。

 ── 葉月が少しでも楽しい時間が過ごせたなら、まあ、いっか。


 ダイニングの床掃除を終えたのか、母さんはリビングにやってくると暢気な声で告げた。


「葉月くんっていいコねえ〜。雑誌で見るより、ずっと素敵なコね」
「……どーするんだよ? 家族が増えたこと、父さんになんて言うんだよ?」


 俺は食い下がる。
 どうせもうしばらくしたらねえちゃんが帰ってきて、一通りこの話、グチられるんだ。何気に母さんの気持ちをリサーチしとくのもいいかな。そう思ってさ。



「うーん。そうねえ。……あ、そうだ! をヨメに出せばいいのよ。そしたら、プラスワン、マイナスワン、で、家族の数の帳尻はぴったり合うわねえ」
「はぁ!?」



 なにトンチみたいなこと言ってるんだ? この人は。
 ねえちゃんをヨメに出す? どこに出すんだ? いつ出すんだ!?


 とっさのことで返事が出来ないまま母さんの顔を見つめていると、母さんは、『はあ。緊張しちゃった。葉月くんの前だとドキドキしちゃうわ。母さん』なんて不自然なくらい大きな独り言を漏らしながらお風呂場へと向かった。



 俺はそのどっしりした後ろ姿を言葉もなく見送る。


 オンナってスゴイよな。
 歳を重ねると、図々しさまで備わるんだ。それも自分の娘をオモチャにして遊ぶほどの。
←Back