*...*...* sweet refrain *...*...*
 朝、目が覚めた時。

 なんかヘンだな、って感じたの。

 目を見開く。いつもの見馴れた天井が、淡いレースのカーテンの影を映している。
 そのくっきりとした影の濃さが、夏がもうすぐそこまで近付いて来てくれてることを教えてくれてる。


 なんだか自分の身体が自分のものじゃないみたいに心もとない。頭が重い。……ダルい。
 ベットの上、がばっと半身を起こして、わたしはようやく気付く。
 ……これって……?


 (……風邪?)


 だんだん覚醒してくるにつれ、わたしはこの状態が全然好ましくないことに焦り出した。


 風邪を引く、引いたのに気付くのっていつも起き抜けの朝だ。
 生理になるのもそう。前日張り切りすぎて筋肉痛になるのも。
 いつも全部、朝、なんだよね。

 休養を取る。身体をいたわる。その直後にそういうことになるってひどく不公平な気がする。
 ……まるで休養が風邪を呼び寄せたみたいだ。


 わたしは重い頭を動かさないように、おそるおそる床に脚を降ろした。
 枕元には、このまえソフィアで買ったばかりの白いキャミソールとプリーツスカート。
 それにちょっと季節外れのような薄いピンク色をした長袖のカーディガン。


 そう、今日は。
 初めて珪くんの運転する車から、はばたき山から半球いっぱいの星空を見ようね。って約束してた日なんだ。


 以前からプラネタリウムに行くたびに話はしていた。
 いつか本当の星空をふたりで見ようね、って。
 じゃあ、いつ行く? どうやって行く? はばたき山の一番の観測スポットはどこ? って、わくわくした気分で何度も打ち合せ、して。
 ……楽しかったなあ。打ち合せしてるとき。


 同じコトを何度言っても、嬉しそうに笑って聞いてくれる珪くん。
 そんな珪くんに感謝しながら、計画はどんどんと膨らんでいって。
 計画と比例するように、わたしも今まで感じたことのないような幸せな気持ちになったんだ。


 思い出を作っていくことは、かなり楽しい行為だ、と思う。
 珪くんと過ごした高校の3年間があるから、今があるのだと思うし。
 今こうして1つ思い出を重ねたら、また珪くんの新しい一面が発見できるような気がするんだ。


 (嬉しい、かも……)


 ふにゃりと緩む頬。
 日程も時間も大体の場所も決まった。あとは交通手段だけ、だもんね。

 …………。

 交通、手段……?
 わたしは我に返る。


「車! 珪くん! どうしよう? 夜遅くちゃバスも走ってないだろうし、自転車じゃ絶対無理だし!」


 この世にはとっても残念なことに、ドラえもんなんていなくて。当然『どこでもドア』なんて存在しないの、知ってるクセに、
 肝腎な、もしかしたらこの計画の一番の土台部分のこと、うっかり(全く?)考えてないわたしって……。

 おバカ、過ぎるよう〜〜!

 ついさっきまでわたしの頭の中にあったのは、うっとりと満天の星空を眺めてる珪くんとその隣りにいるわたしの姿。
 手荷物なんてなにも持ってなくて。真っ暗な中ふたりのシルエットが浮かんでるだけの、まるでネットの旅情報の写真みたいなモノだった。


 ……現実は? もっときっといっぱい荷物持って、服だって、これでもかっていうくらい厚着してるんじゃないのかな?
 そもそも当日、空いっぱいの星に会える程、良い天気になってくれるのかなあ!?


 わたわたと珪くんの顔を見上げると、彼は待ってましたと言わんばかりの笑顔でこっちを見つめ返してくる。

 ……ううん。
 これはきっと、わたしのこと、からかってるんだ。……それとも愉しんでるか、そのどちらかだもん。

 とにかくわたしを見る珪くんの瞳はいつも好奇に満ちている。
 そんな嬉しそうにされると、わたしももっと何かをしてみたくなる、でしょう?


 ……そうして延々とにらみ合いを続ける。
 けど負けるのもいつもわたしの方。

 珪くんの整った表情を見てるのがなんだか照れくさくなる。思わず目を逸らす。
 視界の端に、珪くんの口が笑顔を作ってるのがわかる。
 その『勝った』って表情が、ちょっとだけ口惜しい。


 付き合い出して。
 わたしは毎日、珪くんに関することで、発見がある。


 淋しそうな目をしなくなった、ってこと。
 思った以上にとてもよく笑ってくれる人だ、ってこと。


 そして。
 思った以上に負けず嫌いな人だ、ってこと。



 わたしが吹き出したって、珪くんが吹き出したって、結果はどちらにしたって同じこと。
 最後にはふたりで笑うんでしょう?

 そんなとても些細なことなのに、いつも珪くんは負けまい、とする。


 子どもっぽいよね、そういうところ。

 子どもっぽいといつも周囲に言われるわたしが、もし珪くんのこと子どもっぽいと告げたら、常に年よりも大人っぽく見られてる目の前のこの人はなんて答えてくれるだろう?


 珪くんはわたしの髪の毛をわしゃわしゃと撫ぜて笑った。



「……心配するな。車は準備しておいたから」



 
 今日のデートの計画。その一連の記憶を楽しく思い出しながら、わたしは現実に戻った。

 今日、なんだよ?
 ── 今日がそのデートの当日、なんだよ?
 ぐるぐると赤いサインペンでマルを付けた日。
 ずっと、この日になるのを待ってて。ようやくカウントゼロになった、日。


 普通のデートとは違う。
 新しい場所、新しいシチュエーション。
 大好きな人と行ける、特別なデートなのに!


 わたしは小さい頃から遠足も行く前のあの高揚感が好きだった。
 おやつのお菓子も買って、荷物の準備も完璧。なのに何度もリュックの紐を開け閉めして、翌日の遠足にあれこれ思いを馳せるんだ。


 それは、こんなに大人になってもちっとも変わらない、わたしのクセ。
 高校を卒業して、珪くんが運転免許を取った春からずっと約束していたデート。


 夜遅くなるということ、山の奥深くということで、先月の衣替えのときしまい込んだ厚手のパーカーや、薄いフリースの膝掛も用意した。
 多分、そんなことには全然無頓着であろう、珪くんの分も。


 普段のデートの時持って行くカバンとは全く違う、大きくふくれ上がったこげ茶色の旅行かばんをわたしはちらりと横目で見る。
 身体……。昨日まではなんともなかったのに。

 ううっ。情けないなあ……。

 こんなスペシャルな日に、どうしてわたし、風邪なんか引くんだろう。


 ……ううん。
 わたしは思い直す。

 出掛けるのは夕方。今はまだ朝。
 今日1日、安静にしていよう。
 そしたらこのダルさも、すぐどこかへ行っちゃうよね?
*...*...*
 夕方。
 もう7時を過ぎたというのに、まだオレンジ色の日差しが辺りいっぱいに残っている頃、珪くんは家まで迎えに来てくれた。


「珪くん!」


 玄関を飛び出して見ていると、珪くんは軽く手を挙げてわたしに合図し、するするとバックで門のところに車を寄せた。


 (う、上手いかも……。運転するの)


 高校時代。
 珪くんは勉強も運動も、何でも一通りのことを器用にこなす人だったっけ。
 だから車の運転だって、わたしがスゴいね、と言おうものなら、


『俺、一度見たものは忘れないから』


 って照れたように笑うんだろう。


 けど、わたしは。
 珪くんのその容姿や能力のせいで、人と隔りを置くことしかできなかった無器用さを知ってしまってからは、彼の器用さを切なく思う。


 きっと神様は誰にでも同じ能力を分け隔てなく与えてくれていて。
 わたしのような普通の人間には、その能力を全ての面において、思い切り突出したところもない代わりに、著しくへこんだところもない、『普通のタイプ』に割り振ってくれたのだろう。


 でも、珪くんは。
 人より抜きん出た能力を与えられた代わりに、人よりずっと苦労する一面を与えられたのではないかな……?


 助手席のヘッドレストに手を当てて、車の後ろを確認している珪くんを見てて、きゅっと胸が熱くなる。


 (いつも、傍にいたい)


 彼が『淋しい』という感情に気付くことができた今、これ以上『淋しい』という感情を育てないように。



「楽しんでいらっしゃいね」
「……はい」


 見送りに出た母さんに会釈をして助手席のドアを開ける珪くん。


「ねえちゃん、出掛けるのか?」


 玄関があわただしくなって来たのに気付いたのか、尽がリビングから飛び出してきた。
 そして珪くんにあいさつした後、わたしの顔色を心配そうに見つめてくる。
 その何かを確かめるような視線を避けるようにわたしはあわてて目を逸らす。

 ……マズい、かも。

 今日はなんだかんだと理由を付けて自室に閉じ篭もってたんだけど、一度だけ、体温計を取り出しにリビングに行って、尽と鉢合わせちゃったんだ。
 その時は何も言わなかったのに、やっぱり尽、気付いてたのかな?


「ねえちゃん、あまりムリするなよ? 今日だって、本当は……」
「わ、言っちゃダメ〜!」


 思わず尽の口をふさぐ。
 その手を尽はあっけなく掴むと、珪くんの顔を見て何か切り出そうとしている。


「本当は……? どうした、尽」
「何でもない! じゃ、い、行こう? 珪くん」


 大丈夫。鼻声でもない。顔も赤くない。見た感じからじゃわからない。
 今日のデートは運転する珪くんは大変だけど、わたしは隣りにいるだけ、だもの。
 大人しくしてれば、きっと大丈夫。気付かれない。

 わたしは助手席にすべり込むと、母さんと尽に手を振った。
*...*...*
  の様子が、おかしい。

 出発したときや、はばたき山に向かう間はいつもどおりだったんだ。
 手にした、まるでどこか泊りで旅行に行くのかと思うほど大きな旅行かばんを大切そうに抱えて『晴れて良かった』だの『やっと本当の星空が見えるね!』だの嬉しそうに言ってた。

 けど、目的地に近付くにつれ、だんだん無口になって来た気がする。

 今、車は西の方向に向かって移動している。
 そのせいなのか夕陽がの顔に反射して、頬が赤くなっている。


「暑い、か?」
「ううん。平気だよ?」


 日が暮れかけて、やや山の奥に入り込んできたからか、俺はあまり暑さを感じないけど……。
 俺は温度設定を少しだけ下げるために、エアコンのパネルに手を伸ばした。


「ん、このままでいい」


 はあわてて俺の手を止める。
 ── 手と手が重なる。


、おまえ……」


 いつも俺の手は冷たい。
 紅葉を見に行ったときも、寒い冬、公園を歩いたときも。
 は小さい手で、俺の冷たい手を遠慮がちに握っていた。
 その幼い子どものような仕草に、どうしようもなく胸が痛くなったっけな。


 『手の冷たい人は心があったかいんだよ? だから珪くんもあったかいんだよ』


 今、振り返ればあれが俺が初めて味わった『切ない』という感情なのかもしれない。

 子どもの頃、何度も握って、手を離さなくてはいけなかった苦しみ。
 その思いをもう一度味わうのかもしれないという不安。
 そんなものが混ざり合って、俺は の顔を見て、ため息ばかりついていた気がする。

 触れているだけでとても安心できた、の手。
 願わくば、もう離したくない、……離せない、と思って。


 俺は卒業式の日、想いを告げた。


 けど、この熱さは、いつも俺が『温かい』と感じているものとは程遠いもので。

 出掛けになにか言いかけた尽の顔が思い浮かぶ。
 は重なった手をぴくっと震わせて振りほどいた。


「えーっと、もうすぐ、だよね? だんだん暗くなってきたし」
?」
「いっぱい、星、見れるかな?」


 は俺の視線を困ったように受け止めると、悪戯が見つかった猫のように顔を助手席の窓の方に向けてしまった。


 ── そういうことか。


 俺はの肩を引き寄せようとして、自分が運転していることに気付いた。
 目的地まではもうすぐ。
 俺は、車のライトを付けるとアクセルを深く踏み込んだ。
*...*...*
 車を止めて。


 俺は黙りこくってるの手を掴んだ。
 その指は初めから逃げることを諦めていたのか簡単に捕まって。
 俺の手の中には今まで感じたことのないほどの熱を帯びた細い指が納まっている。


「……どうして俺に言わない? 具合が悪いって」
「えっと、バレない、って思ったの。声もなんともなかったし、顔も赤くなかったし」
「触ればわかるだろ?」


 俺の口調がぶっきらぼうだったからだろう。
 または密室の中、手を捕えられて逃げ場がないと思ったのか、は怯えたように肩を震わせたまま何も言わない。


「……帰ろう?」


 このままでいてもの具合は悪くなるばかり。
 星はまたいつでも見ることができる、から。

 の沈黙を了承と取って、俺はギアに手を掛ける。


「ん?」


 ふと。


 ギアの上にある俺の手に白い手が重なる。



「お願い。……一緒に見たいの。珪くんと」



 必死な表情をした赤い顔も一緒に。



「熱あるのわかったら、怒られるって知ってた。けど、高校のときから行けたらいいね、って話をしてたでしょ? ずっと前からこの日の計画もしてたでしょ? わたし、とても楽しみにしてたの。どうしても今日、一緒に見たかったの」
……」
「ごめんなさい。……足手まといになっちゃった」



 の潤んだ瞳から涙が溢れる。
 その表情を見ていると、自分へのやり切れない思いが浮かんでくる。


 ── 病人を泣かすなんて、最低だな、俺。


 わかってないんだ。こいつ。

 おまえが俺にとってどれだけ必要な人間か、ってこと。
 おまえがいることに慣れて、俺のモノの見方、考え方におまえのそれが交じって、少しずつ依存していく俺がいる、ってこと。


 独りでいることに慣れてた。独りの方が楽だ、とさえ思ってた。
 けど、もう昔の俺には戻れない。戻りたくない。


 おまえに、傍に、いて欲しい。


 がケガをするのもイヤだ。こうして辛そうに熱を出しているのも見たくない。


「バカ……。おまえ、ムリするな」



 そのままの手を引き寄せ、身体ごと抱き締めると、いつもより熱を持った身体が、たわいなく俺の胸に倒れかかった。
*...*...*
「ひゃっ……っ!」


 俺が額につけた唇が冷たかったのか、は目をきゅっと閉じて、そのままじっとしている。


「やっぱり、熱あるな」
「そそそんなことしたら、熱、なくたって、勝手に出てくるよう!」
「……全然足りないけど」


 ただ、愛しくて。


 俺と一緒にいたい、と言ってくれるヤツ。
 自分の体調より、この日の経緯と俺との約束を大事にしてくれるヤツ。


 ……こんなヤツだから。
 いつでもおまえの周りには、いいヤツが集まって来てたのかもな。


 今、俺がにできること。それはなんだろう?
 の身体を労って、このまま自宅にUターンすることか? ……いや、違う。


……。少しだけ辛抱できるか?」
「ん。何を?」
「……降りるぞ」


 俺は車外に出ると、助手側のドアに向かう。
 やはりここ、はばたき山は、かなり高度が高いせいか、7月だというのにひんやりとした空気に包まれている。

 俺はTシャツの上に羽織っていたシャツを脱ぐ。


 車内にいるはワケがわからないみたいだ。ドアごしに不安そうに俺のすることを見ている。
 俺は助手席のドアを開けての手を引くと外の世界に引っ張り出した。


 ── 俺のシャツで、小さなこいつ、包んで。


「10分だけ、な?」


 包んだ手はもう用を成したというのに、なおもの肩を彷徨う。
 まるで手が俺の気持ちを代弁してるみたいだ。


を離したくない)



「うわあ……っ。星、星だよ? 珪くん!!」
「……ああ」
「やっと会えたね。やっと!」


 あんぐりと口を開けて、満天の空に魅入ってる
 俺は背中越しにの肩を抱きしめながら、彼女と一緒に空に臨む。


 『やっと会えたね』


 俺の腕の中で、そう言葉を紡ぐ


 俺はの熱を抱きしめて、天を仰いだ。


 無数の数え切れない星を見つめながら。
 唯一を見つけた自分に感謝しながら。


 抑えきれない想いが、満天の空から甘いヒカリの粒子となって俺に降り注ぐ。


……」



 俺はの髪に唇を落とすと、また最愛の名前を呼んだ。
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