*...*...* 陽だまり *...*...*
ここに1通の手紙がある。手紙という言い方には語弊があるかもしれない。
その一片の紙は時間の経過とともに端がやや捲れ上がり、微かに黄ばんでいる。
何度も繰り返し広げたり折ったりしたところはしっかりと折れ跡がついていて、少し力を入れただけで簡単に破れてしまうに違いない。
……開いて。また閉じて。
なんてことない、走り書きの、文字のない手紙。
いつまで俺は、この紙切れに拘りつづけるのだろう?
思い出して欲しい。忘れてて欲しい。
いや、違う。
もっと本当のことを言えば、思い出して、そして、失望しないで欲しい。
昔以上の思いで、俺のことを見つめて欲しい。
そんな身勝手なことを願っている自分がいる。
(……そんなこと、あるわけないのにな)
俺はその紙切を挟みこむと、わざと音を立ててあるものを閉じた。
── 記憶も一緒に封じ込めるみたいに。
*...*...*
ヘンだな、とは思っていた。「……俺の家、来いよ」
週末も近い放課後、いつもはそうやって俺が誘うと、あいつ、身体全体で飛び跳ねるようにして、
「ん、行く!!」
って笑うクセに、このときに限ってはすごく複雑そうな表情をしていた、から。
「なんか用があるのか?」
「う、ううん!」
口では否定しながらも、は元々大きな目をさらに大きくして俺の顔を見つめている。
一体どうしたんだろう。
行き先が気に入らないのか、それとも単純にこの週末に別の予定が入っているのか。
それとも……。
俺といるのがイヤなのか。
の唇がなにか言いたげに開く。けどその先は言葉にならないまままた元あるべき場所に収まる。
懸命に言葉を捜して、言いあぐねてる様子が、まるで自分を見ているかのような感覚に陥る。
確か……。
確かこの前、俺の家に来たときは、いつも通りだった。
はじめは小さな身体をさらに縮ませるようにして緊張してた。
俺の部屋に行っても、心許なげにベットの端にちょこんと座って。
でも時間が経つウチにやがていつもの元気なになって。
クラッシックを聞いたり、学校のことを話したり。
俺の中では、……これもいつものことだけど、あいつと楽しい時間を過ごした、という感覚だけが残っていたから、今日みたいな反応は正直予想外のモノだった。
「……イヤなら……」
やめとくか、と言いかけた俺には必死になって首を振る。
「ややめない! えっと……、じゃあ、何時頃お邪魔したらいいかな?」
見ると、さっきの困ったような表情はどこかへ消え去って、いつも俺に見せるそのものになっている。
(気のせい、か……)
放課後の、学校の廊下。
ひんやりとした廊下には人影もない。
窓から差し込む夕日が、舞い上がるチリをとてもきれいなものに見せる。
の色素の薄い髪にも艶やかなヒカリを落としている。
修学旅行で触れたことのある髪。
柔らかさや匂いまで知ってる髪が、さらりと風に靡いている。エンジ色のスカーフも一緒に。
俺は思わず目を細める。
(きれい、だよな)
もともと可愛いヤツだとは思っていたけど。
ふと自宅にあるアルバムを思い出す。
(あんなに小さかったのに)
俺も変わった。昔のころの俺じゃない。外見も、そして中身も。
でも、目の前のおまえは、中身だけはそのままに、外見はめまぐるしく変化していくんだ。
──より、美しく。……追いつけない場所に。
「珪くん?」
「……ああ、悪い。じゃあ、10時に、俺の家の前で」
「うん!」
は、じゃあ手芸部、頑張ってくるね、と忙しそうに俺の前を走っていった。
*...*...*
当日。「珪くん!」
は俺の姿を見つけると、軽く片手を上げて小走りで寄ってくる。
(どうしたんだ? あいつ)
いつもと様子が違う。
いつもは小さなショルダーバックを1つ下げてくるだけなのに、その日のは背中に隠すようにして、小さな四角い箱と大きな白い箱、2つも手にしている。
隠しているつもりでも、俺の方が背が高いんだから、すぐわかってしまうのに。
……そうやって隠してるつもりなのがなんだか笑えて……。
そしてその笑いはいつも俺の心の一端を暖かくしていく。
「何持って来たんだ?」
「ん? ああ、これ? ……ケーキ、と……、あとは開けてみてのお楽しみ!」
「ケーキ?」
こういう日はやっぱりケーキでしょう? って顔してちょっぴり自慢げな顔をしているを見ても、俺はまだ気がつかなかった。
珪くんちに誘われた時、すっごくびっくりしたんだよ? 誕生日なのに、いいのかな? って……、とにこにこと言葉を紡いでいたは俺のぼんやりした顔を見て、真面目な顔になった。
……真面目な顔、と言っても、こいつの場合、やや下がり気味の眉毛がちょっとだけ困っているように見えるのも事実だけど。
「ね、珪くん。もしかして、本当に本当にわからない? 10月16日、だよ? 今日」
「10月16日?」
……なにかあったか? 俺との間に。
「三択にしろ、なんて言っちゃダメだよ? ── 珪くんが生まれた特別な日、でしょ? ほら、この前のわたしの誕生日、珪くんわたしの家に来て、そう言ってくれたでしょう?」
だから、わたしも同じことが言いたくて来たの。
おめでとう。
と。
言葉と一緒に満面の笑みが落ちてくる。
誕生日なんて来なければいいと思っていた、幼い頃。
いつしかその日の存在を自分の中から追い出してしまった、中学の頃。
でも、こうしておまえと会えて、おめでとうと言ってもらえるなら、誕生日もまだ捨てたものじゃない。
「……サンキュ」
「えへへ、お邪魔しますー」
はきれいな仕草で焦げ茶色のブーツを脱ぐと、玄関に上がった。
*...*...*
日暮れが早くなって、周囲の空気がオレンジ色になる。空だけでなく、今俺たちが歩いている道も、空気も風もすべてが金色に染まって、まるで異次元の空間を歩いているかのような錯覚にとらわれる。
── 自分の身体が自分のモノでないような不思議な感覚。
そんな夕焼けの中、俺は自宅を出てを家まで送っていった。
俺の部屋で、いつものようにいろんなことを話すと、一緒の時間を過ごして……。
過ごして、と言っても、あいつ、のんきだから俺の気持ちにもやっぱり気づくことがなくて。
……気がついたら、俺はベットで熟睡。あいつは俺の誕生日プレゼント用に持ってきてたジグソーパズルを楽しそうにやってた。
軽い足取りで歩き続けていたは、ふと思い出したように言う。
「ね、珪くん……。珪くん、今日、本当に自分の誕生日、忘れてたの?」
「ああ。……ヘンか?」
「あはは。んー。ちょっとヘン」
くすくす笑い続けるに、少しだけむっとする俺。
「けど、いいんだ」
ふと、立ち止まる。俺の左下にはのつむじが見える。
それはすとんとまっすぐな流れを作り、艶やかなヒカリも一緒に肩まで落ちている。
この季節のような、乾いた、日なたの匂いがする髪。
偶然、修学旅行でその匂いに包まれた時は、以前に嗅いだ太陽の香りとまざって、優しい花の香りも漂わせていて。
……おまえ、こんなにもオンナだったんだよな。
手を伸ばす。
薄い暗闇に紛れて、自分の手の甲にも影が差す。
── 今、触れたら。……触れることを許してくれるなら、俺は……。
と、そのとき。
俺の手をカワすかのようには俺を見上げて笑った。
……その屈託のない笑顔を見て、俺はまたため息をつく。
こいつに悪気はないんだろうけど……。いつも直前で逃げられてる気がする。
「……なにがいいんだ?」
やや、俺の声には諦めに似通った雰囲気が漂っていたとは思う。
けど、あいつは全くそんなことには無頓着だ。……ニブいよな、そういうところ。
『葉月も大変だね〜。その苦労はよくわかるよ、うんうん』
……あいつの親友、誰だったかな、……うるさいくらいよくしゃべるヤツ……。
そいつがしたり顔で俺に同情らしきものを寄せてた、ような気がする。
仕方ないよな?
そんなところもひっくるめた全部に惹かれてしまった、から。
はそんな俺の気持ちに気づくはずもなく無邪気に話し続けてる。
「あのね、珪くんの誕生日のこと。……珪くんが忘れちゃってても、わたしがずっと覚えていればいいんだよね」
すっごく簡単なことだよね? って笑っている。
「そしたら、ちゃんと珪くんに教えてあげられるでしょう? 今日は珪くんの誕生日だって」
「……」
「特別な日だよ? って伝えること、できるもんね!」
だから忘れててもいいよ? となんでもないことのように言って。
言ってから恥ずかしくなったのか、俺の少し前を歩き出した。
……。
どうしてこいつはいつも俺が欲しいと思ってる気持ちをくれるのだろう。
欲しいと願って。いつも手を出す前に諦めていたモノを。
明日や、来週、来年。未来に続く安心感を。
「俺……」
今、俺は何を言おうとしているんだ?
受け止めてくれるかわからない言葉。……そしてちっとも面白くないであろう話を。
こめかみだけが熱い。自分がひどく混乱しているのがわかる。
いいのか? 言って……。伝えたことを後悔しないか? 俺……。
「……日本に来てから、誕生祝いなんてしたことなかったんだ」
理性はこれ以上何も言うな、と言っているのに、感情だけが口に出てくる。
「珪くん?」
「父さんも母さんも忙しくて……。小さい頃はじいさんが覚えてておめでとう、と言ってくれたけど。……じいさんが死んでから……。それ以来誰にも誕生日におめでとう、って言われたことなかった」
は首をかしげて真剣に聞き入っている。まるで叱られてるかのように真剣な面持ちで。
「1年目はさびしかったけど、……そのうちそういうものか、と思うようになって……。いつからか誕生日のこと忘れてしまったんだ」
「珪くん……」
「けど、気持ちいいな、『おめでとう』って言ってもらうの」
サンキュ、……と、おまえの顔を見て。
おまえも笑ってくれると思ったんだ。『そうだね』とか『どういたしまして』って笑いながら。
けど、出くわしたのは、淋しそうな笑顔と唐突な言葉。
「……やっぱり、アルバム見せて欲しかったな」
その声が、オレンジ色のヒカリの中、ひどく現実感を損なわせて聞こえてくる。
そうだったな。
、確か俺が寝る前、アルバムが見たい、って。すごく興味があるから、って。
子どもの頃の写真、見たがるのっておかしいかな? って珍しく何度も言ってたよな……。
あのとき俺は、 が言う『アルバム』という言葉を耳にした瞬間、幼い頃の記憶とともに その中に挟まれている小さな紙片のことで頭がいっぱいになって、うまく話すことができなくなっていた。
『はい、けいくん、おてがみ、だよ?』
『……てがみ?』
『うん! え、かいたの。『びじょ、と、やじゅう』のおうじさま、と、おひめさま、なの』
『『びじょ、と、やじゅう』?』
『うん。おうじさまとね、おひめさまはね、こころがつうじあっていれば、すがた、かたちが、ちがっても、かならずね、いっしょになれるんだって!』
きのう、おかあさんがよんでくれたの、と嬉しそうに絵本を持ってきた。
それが日頃弟が生まれたばかりでかまってもらえなかったとしては特別な時間だったのだろう。
本の挿絵をまねて描いたらしい、小さな紙切れを持ってきていた。
『いつもは けいくんが、ごほん、よんでくれるから、きょうは、わたしがよむの』
ってにこにこしながら、覚えたてのひらがなを指でたどって一生懸命、俺に絵本を読んでくれたのだ。
記憶力の良さを人に褒められることはよくある。そしてそれを便利だな、と思うときもある。
けれど、それがこんなに不自由な二面性を持つなんて、一体どれだけの人間が知っているんだろう。
幼い頃のアルバムを開くたびに、……いや、アルバムの背表紙を見るだけで、幼い頃のの声まで思い出せる俺は、そんな自分を恨めしく思うことさえある、ことを。
「どうしてそんなにアルバムが見たいんだ?」
「……だって! 小さい頃の珪くんにも、写真越しにおめでとうって言える、いいチャンスだったよ〜」
そう言って、小さな子みたいに地団太踏んでクヤしがってる。
過去の俺が可哀想だ、と言って泣きそうな顔をする。
もう取り返せない過去の誕生日を祝おう? と言ってくれる。
俺の中の感情が押し流される。
辺りは真っ暗。日が暮れると同時に寒さが忍び寄ってくるのに。
俺のまわりは春の芝生に寝ころんでいる時のような暖かい風に包まれる。
── 本当に飽きないヤツ。
……こいつなら。
幼い頃の俺が今の俺だと知っても。
迎えに来た王子が、王子になりそこなった不完全な俺でも。
笑って受け止めてくれるだろうか?
そしておまえがその事実を思い出したとき。
俺はおまえを守れる強さを持っているだろうか?
もう少しおまえにふさわしい人間になっているだろうか?
「ね、いつか……。いつかね、アルバム、見せてね? お願いだよ?」
珍しくきっぱり言い切るに、俺は笑いながらとっておきの言葉を返す。
「……ああ。約束」