*...*...* Eternally *...*...*
 遠くでパッヘルベルのカノンのコードがかすかに聞こえる。
 俺は聞き覚えのある穏やかな旋律に思わず目を細めた。

 そうだ。
 ── これ、母さんの練習曲だ。

 気持ちが落ち着くのよ、と笑いながら何度も指の位置を確かめるように弾いていた曲。

『自分のために音を奏でるって素敵ね。ねえ、珪もそう思うでしょう?』

 母さんは微笑むと、かすかな音の違いを聞き分けるような真剣な表情でバイオリンに向かっていたっけ……。

 その凛とした母さんの表情はいつもと違ってどこか近寄りがたかったけど、意外なことに幼い頃の俺に寂しいという感情はなかった。

 唇の端をきゅっと噛んで。
 少女のように頬を染めて。

(この人は心の底からバイオリンと音楽が好きなんだ)

 その事実を、言葉よりも雄弁な雰囲気が俺に伝えてきてくれたからかもしれない。

 そんなときの母さんは親であるのに親ではなく、小さな女の子のようでもあり、限りなく崇高な芸術家のようでもあって。
 そして、いつしか俺は母さんの中にある少女の面影を、へと投射するようになっていた。

(……どこか、似てる。あいつに)

 あいつ……。
 も何に対しても一生懸命だったよな。

 その邪気のない視線や、赤く高揚した頬が幼い頃のそっくりで、俺は母さんがカノンを演奏すると、自然にあいつがすぐそばにいてくれているような気持ちになっていたのだろう。

 なんでもない言い回しや音楽は、時間を越える。
 いつもは思い出しもしなかったことを突然思い出させてくれたりもする。

 ……そうか。
 だから俺は、この曲を聴いている間は寂しくなかったんだ。

 俺にとって懐かしい調べが、今、俺と、ふたりを包み込むように教会内に流れていた。

 卒業式。
 教会の中では、柔らかい日差しがステンドグラスの天使を通して注ぎ込んでいる。

 思いを伝えて。
 わたしも、と頬を染めて伝えられて。

 俺は不安が少しずつ溶け出すのを感じながら薄茶色の髪に手を伸ばした。

……」

 この3年間、何度この音を口にのせただろう?
 俺は手にの髪を感じながら記憶の糸をたどる。

 ……いつだろう?
 おまえのことを『』という名字から『』という名前を呼ぶようになったのは。

ーー!』
ちゃん』

 おまえ、人なつこい性格だから、編入して1ヶ月も経たないうちに、みんな気安くおまえの名前を口にしていたよな。そのたびに俺は幼い頃、なんの迷いもなくお互いの名前を呼んでいたことを思い出して、やるせない思いにとらわれたりもしていた。
 体育館裏の子猫に『』と名付けたのも、おまえのことをそう呼びたくて呼べない、自分の思いがあったのも事実だった。

 だからといって名前を呼び合えるようになってからも、安心したワケじゃなかった。

『珪くん!』

 ── 呼ばれるたび、嬉しさが高まるほど不安も深くなっていったのも事実、で。
 俺の顔を見て、俺の名前を呼んで。
 甘い声で笑うおまえを、何度引き寄せたいと願っただろう。

 いつか、本当の意味で。
 本当の愛しさや切なさを込めて、おまえの名前を呼ぶヤツが現れたら……?
 そしておまえも、そいつに惹かれたとしたら……?

 おまえは幼い頃の記憶を封印したまま、俺のことは『ちょっと仲の良かった同級生』としてだけの存在になるのだろうか?

 高校時代の話だから、幼い頃と違って忘れられるという心配はないだろう。
 けれどまた俺は、おまえにとって記憶の中だけの人間になるんじゃないか、とやりきれない気持ちが押し寄せた夜もあった。

 ── そんな夜も、おまえとこうなった今日からは。
 遠い思い出として苦笑しながら振り返ることができるのだろうか?

……」

 俺はの手を取ると、すんなりと柔らかく細い指を撫でた。

「……これ、わたしに……?」

 何度もポケットの中で握り続けていたリングは、俺の熱を帯びてかすかなぬくもりさえある。

 今年に入ってからまもなく完成したリング。
 造っては壊して。あいつが身に着けたときの様子をイメージして、また作り直して。
 自分でも思い出せないほどの回数を作り直して、ようやく完成したリング。

 渡そうと思えばいつでも渡せた、と思う。

 けど不思議なことに俺の中には、完成したリングをいつまでも自分の手元に置いておきたいとゴネる、もう一人の自分もいた。

 おまえに『受け取れない』と拒絶されるのが怖かったのもある。
 受験のことで一生懸命のおまえのジャマをしたくなかった、というのも。

 受験が終わってからもさんざん迷った。

 渡すべきか、止めるべきか。

 渡して。
 受け取れないと拒絶されるのか。
 渡すことも諦めて。
 失ってから気づく気持ちの大きさに、また後悔するのか。

 そんな冬の日。
 ── 俺におまえがしてくれた何気ない話が、俺の背を押した。
*...*...*
 受験が終わって、あとは卒業式を待つだけになった日の学校の帰り道。

「制服着るのももう少しだね」

 はそう言って、残念そうに風で歪んだ胸の上のスカーフを元の位置に戻していた。

 作り物のように綺麗な白い手がふわふわと赤いスカーフの上を辿る。やはり指先が冷えるのか、爪がいつもより赤い。自身も寒かったのか、そのまま指に唇を寄せると息を吹きかけている。

 白い手の甲。
 赤い指先。
 はためく赤いスカーフ。
 ふわりと形を変えて立ち上る白い息。

(一枚の絵みたいだ)

 見られてるとはまるで気付いてない、いつものの何気ない仕草は、ただ愛らしいばかりで。
 俺が目を離せないでいると、視線に気付いたのかは不思議そうに俺を見上げてきて笑った。

「えっと、珪くん……。まだわたし、目の下、クマできてるかな!?」

 俺は小さくため息をつく。
 どんなに思いを込めて見つめていても、おまえの反応はいつもこんな風だ。
 俺は頭の片隅で考える。
 ……いつかこいつに『ムード』とか『雰囲気』とかが分かるときが来るのだろうか?

 だいたいは妙なところでは鋭いくせに、自分の投げかけられる視線には無頓着だ。
 可愛くって鈍感で、お人好しで、おっちょこちょいで……。
 こうしておまえの特徴を並べ立ててみると、長所も短所もごちゃまぜなのに気付く。
 けどそのひとつひとつ、すべてがを造っていて、どれが欠けてもじゃなくて。

 おまえ、だから。
 惹かれて。離せなくて。

 ── 俺が俺自身を持てあましている、ってことを。


「ん……。受験がすんでね、わたし、ちょっと気が抜けちゃったみたい。この頃また夢を見るの」
「……夢?」
「ん、あのね……」

 は断片的な夢の話をぽつりぽつりと話し出す。

 金色の髪。小さな少年。古ぼけた絵本。きらきらしたステンドグラス。
『── 約束』という言葉。

 俺は息を呑んで聞き入った。
 幸いなことに、は俺の様子に気付いてないみたいだ。
 俺は心の中で深く息を吐く。
 ……こういうとき、おまえのニブいのには、救われるよな。

「ヘンなの。この夢を見るとね、必ずわたし、泣いてるの。……どうしてかな?」
「……泣く?」

 は訝しげに首を傾ける。
 ……ちょっと考え事をするときによくやるおまえの、クセ。

「ん。……小さな男の子がね、『泣くなよ』って優しく言ってくれてるの。なのに、どうしてかな……」
……」
「……泣くの、止まらないの」

 もう完全に忘れてしまっていると思っていた事実を、手品のようにさらりと口に乗せられて、そのとき俺は完全に動揺していた、と思う。

 忘れているどころじゃない。
 俺だけが覚えていると思っていた思い出は、確実にの深層にまで入り込んでいて。
 断片的ではあるにしろ、こうして夢の中にまで現れていて。
 夢の中であるにせよ、は泣いていて。

『……王子は必ず迎えにくるから。だから……泣くなよ』
『……ん。でもね、なみだ、とまらないの。けーくん、どうしたら、なくの、とめることができるの?』

 オトコの子は泣かないものだ、って周りは言うし、自分自身も泣いちゃダメだ、と一生懸命押さえていた、幼い頃。

(俺はオトコ、だから)

 自分が辛いことは、まだ辛抱できる。
 それよりも、目の前で泣いている小さな女の子を見てる方が切なくて。
 ── 泣きやませる方法を知らない自分がもどかしくて。
 俺はただ小さな手をぎゅっと握り返して、途方に暮れる自分を責めていた気がする。

「わっ、夢を見て泣くなんて、『……バカ』って呆れてるでしょ? このお話はもう、おしまい、ね?」

 は俺のその表情をやっぱりいつも通り取り違えて、慌てて話を逸らしてしまった、けど。

 俺は自宅に帰ってからもそれ以降も、ずっとこの話に囚われていた。

(もう、を泣かせたくない)

 5歳の時から思っていたことだった。

 俺が日本から離れることで、これだけの涙を流させたのなら、その分だけでもこれから先、こいつが流す涙が減るといい。
 少なくとも自分が原因の涙は流させたくない、と。

 そして、もし、どうしてもが泣きたい時があるのなら。

 どうか が安心して泣ける場所があるように、と。
 ── 願わくばその場所は、俺、で、ありたい、と。

(ちゃんと、言おう)

 作ったリングを持って、伝えよう。

 幼い頃の少年が俺であること。
 泣かないで、と願ったこと。
 もうこれからは、泣くことを辛抱させない。夢の中であったとしても泣かせない。

 そして、もし、どうしても泣きたい時は。

 ── 俺がおまえの安心して泣ける場所になってやる、と。
*...*...*
 今が、そのとき、なのだろう。
 の目からは透明な糸のような滴が零れ続けている。

「……やっと、こうすることができた」

 の左手の薬指に自分の作った印をつけると、俺はその手をそのまま引き寄せた。

「け、珪くん……。制服、汚れちゃう」

 は身をよじるようにして顔を背ける。
 俺はの言葉をふさぐように腕にチカラを込める。

 初めて腕の中に抱いたは、想像以上に華奢で柔らかくて。
 こいつがまとっている空気がいつも暖かくてふわふわしたものだったから、俺、おまえのこと、勘違いしていたのかもしれないな。
 もっと大きなヤツだって。

 俺の腕が軽く交差する小さな背中。
 屈んでもなお、持ち上げなくてはつかまえることのできない唇。

 はじめは、軽く触れ合えればいい、と思っていた。
 でも のふっくらと開いた唇やかすかに震えている瞼を目にした途端、俺を押さえていた何かが外れてしまって。

 俺はすべての想いを注ぎ込むかのように の唇を追いかけ続けた。

「んっ……」

 の身体が震えているのがわかる。

 頭の奥で警笛が鳴る。
 もっと優しくしなくてはダメだ、と伝えてくる。
 理性でわかっている。けど、感情が追いつかない。

 それに。
 なら、話せばあとからでもわかってくれるという甘えもあった。


 何度も重ねて、触れて。


 やがて俺との唇が同じ温度になっても、その気持ちはとどまることを知らなくて。

「……もう、……苦しいよ」

 数え切れない口づけのあと、さらに唇をつかまえようとすると、は呼吸が辛いのか、首を振って俺の胸の中にもたれかかってきた。

「おまえとこうしたかった。ずっと前から……」

 荒くなった息を整えながら、俺は回している腕をそっと緩める。

 ステンドグラスの光の中、 の存在が愛し過ぎて泣きたくなる。
 今日からの俺は、この小さな身体を守っていくことができるだろうか?

(やっと、つかまえた)

 10年? いや、それ以上、か?

 高校の入学式の日。
 奇跡のような偶然で巡り会った。
 3年間の間に、会って、話して、親しくなった。

 そして今日からは、幼なじみ、以上の新しい関係が始まる。

 すっぽりと胸の中に抱え込めるほどの頼りなさに、俺の心ははまた愛しさで溢れそうになる。

「……大丈夫か?」

 全身の力が抜けてしまったのか、は俺に身体を預けたままだ。
 湿った息づかいとともに、熱い雫が止まることなくシャツを伝ってくるのがわかる。

「……泣き虫だな、おまえ」
「ん……」

 は幼い頃の面影そのままに涙を流している。

 そんなに俺の心が懇願する。
 たとえ、今おまえが流している涙に悲しみのイロがなくても。
 おまえ、笑った顔が一番綺麗だから。

 だから。
 ── 笑って?

 自分の思いのままにならない、もう一人の自分のような存在。
 その存在がこんなにも愛しくて、もどかしくて。……暖かくて。

 俺はの髪をかき上げて更に言葉を繋げる。

「……笑ってほしい」
「……む、無理だよう」

 呼吸がまだ整わないのか、肩を大きく上下させながらもは小声で反論する。

 眦に涙を浮かべたままの
 見つめてる、俺。

 でも10年前とは確実に違うものがある。

(俺の身体がそばにある)

 なだめても泣きやまなかった女の子を置いたまま、日本を去るのとは違う。

 背も伸びた。
 おまえのこと、抱きしめて抱きかかえられるほど身体も大きくなった。
 そして。

「……け、珪くん、くすぐったい……」

 こうしておまえが笑い出すまで、頬を流れる涙を受け止めてやれるようになった。

「珪くん。ごめんね。……あの、これは嬉し泣き、だから……」
「……わかってる」

 再び唇をふさごうとする俺に、は確実に伝える意志を持って小さな声を上げる。

「珪くんが教えてくれたんだよ? 嬉しくても涙が出る、って……」

 華奢な白い手が俺の胸を押し返す。必死に俺と目を合わせようとしてくれているのがわかる。

「わたし、ほかにもね、この3年間で珪くんに教えてもらったこといっぱいあるの。夏の芝生の深い匂いとかね、眠りこけた仔猫の温かさとかね。……それと、それとね?」

 は嬉しそうに指を折って数える。
 指を折るたび、銀のクローバーがキラリと春の光を反射して新たな光を放つ。

 七色のステンドグラスの中、俺はの指を追いかけて口付けた。


 今ここで起きた奇跡を、これからの新しい軌跡にするために。
 願いを、込めて。



。……俺たちの永遠をここから始めよう』
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