思い浮かべるだけで、胸の奥の裏側をそっとノックされたような気分になることがある。

(とんとん。珪くん。聞こえてる?)
(わたし、いるよ? ここに。── ずっと)

 俺の3年間の毎日に風穴を開けたヤツ。
 それは少しずつの浸食で、目には見えないほどの大きさ。
 だけど今では風穴の方が大きくなって、毎日温かい風が通る場所になった。
*...*...* Just by thinking of you *...*...*
「でも、不思議だよね。どうして珪くんが間違えちゃったんだろう?」

 高3の文化祭が終わった帰り道。
 教室内でジュースとお菓子の打ち上げをした後、俺とは二人で校門を出た。

「珪くんって一度聞いたこと、忘れないんだよね?」

 は振り仰いで俺の顔を覗き込む。夕焼けの赤が彼女の顔の輪郭を白く浮き立たせている。
 俺は彼女の屈託のない視線を避けるように、肩の向こうにある雲を眺めるフリをした。

「それに本番前、珪くん、全然緊張してなかったし……」

 どうしてかな? わたしの間の取り方が悪かったかなあ。
 はのんきにそう結論付けるとこの話題を打ち切った。

 シンデレラ。灰かぶり姫。
 片方のガラスの靴を置いたまま、行方をくらました姫。
 王子は、まだぬくもりの残った靴を手にすると、町中にお触れを出す。

『この靴の持ち主を捜せ。私はその姫と結婚しよう』

 ……俺が違和感を覚えるのはこのシーンだ。

「もし俺が王子だったら……」
「ん? なあに?」
「姫のこと、離さないし、忘れない。靴なんかたよりにしないで、必ず自分で見つけ出す」

 人は自分の唯一を見つけたとき、どうするのだろう?
 手を伸ばせばすぐそこに唯一のヤツの身体がある。けどそいつの心はわからない。
 ── そんな、とき。

 はきょとんとした表情で立ち止まる。引かれるようにして俺も立ち止まる。
 歩みにして約2歩分、離れてしまった俺たちの中に疲れた身体を癒すような心地よい風が流れ込む。

「あはは、意外。珪くんって行動力あるんだ〜!」

 ……やっぱり、な。
 おまえ、全然わかってないんだ。
 ── どうして俺が間違えたか、ということ。

 俺にとって、姫は、おまえそのもので。
 劇の中でも外でも。俺の過去の中でも、そして現在、多分未来の中でも。
 俺の唯一だ、ということ。

 まあ、そういうところも、おまえらしい、と言えるかもしれない。
 軽い脱力感を感じながらも、が肩を並べるのを待って、俺はまた歩き始めた。

「……文化祭、無事に済んで良かったな」
「うんうん! 大成功だったよね!? みんなでいっぱい頑張ったよね? わたし、最後にね、みんなで舞台挨拶したとき、泣けてきちゃったよ〜」

 そうなんだ。
 実際、俺がセリフを忘れるという大失態をしたにも関わらず、それ以外はリハーサル以上の出来映えで。
 鳴りやまないアンコールの拍手の後、クラス全員で、オンナは手前、オトコは後ろにそれぞれ1列になり手を繋いで観客に挨拶をした。

 クラスメイトと手を繋ぐ。しかもオトコのヤツと。

 『葉月〜。おまえホントそういうカッコ、良く似合うのな〜』

 いつもだったら決して嬉しくない評価。それが、今日だけは気持ちが良かった。

 肌が触れる。指に力がこもる。両脇には笑顔がある。
 痛いほどのスポットライト。観客の拍手。

 は泣き笑いの顔でこちらを振り向いた。

 クラブ活動をしていない俺には、みんなでなにかを作り上げるというのは初めての体験で。
 それが思いのほか、気持ち良かったことが不思議だった。
 それと同時に、が手芸部に夢中になる気持ちも少しだけ分かった気がした。

 モデルのバイトの時とは違う。
 与えられたモノをただこなすだけじゃない。

 一緒に一緒の時間を作り上げていく、という充足感だったのだ。

 『葉月、おまえって声質はいいんだけど、ちょっと小さいよな。マイク、ボリュームチェック、頼む』
 『葉月、ライト、熱くないか? この角度、大丈夫か?』

 練習中、いろんな声が俺を呼んだ。
 中等部から数えたら6年も一緒にいたヤツから、名前を呼ばれることは初めてで。
 話しかけられて、目を見つめられて。
 ようやく発せられた言葉が、俺に向いているのがわかって。

 容姿が、とか、勉強が、とかで判断されない世界。
 俺、そのままを受け入れてくれる世界。
 同じ目線に立ってくれているクラスメイトって、こんなに温かいのか……?

 戸惑いを隠せないまま、を見る。すると彼女はいつものとおり微笑んでうなずく。

(そのまま、で、いいんだよ? 珪くんのままで)

 誘われるまま、俺は『虚勢』という殻を破った。

 『大丈夫だって。おまえの声が小さい分、音声係がカバーするからさ』
 『そっか? オッケィ。じゃ、ライト、この位置で行ってみるかあ』

 俺が小さい頃からずっと悩んでいたことは、実はとてもシンプルなことだったんだ。

 言えば、伝わる。
 伝えようとする意志があれば、人は耳を傾ける。
 昔、祖父さんに言われてもなかなか自分で飛び出せなかった、殻。

 それが、おまえが近くにいてくれることでこんなに簡単に突き破ることができたんだ。

「おまえに、助けられた。……いろいろ」
「え? えっと……。助けられなかったから、珪くん、セリフ、間違えちゃったんだよね?」

 とんちんかんな返事を返す彼女を見つめながら、考えた。

 いつか。
 クラスメイトに対してだけじゃなく、こいつに対しても、
 俺は俺の殻を破って。



 ── ちゃんと気持ちを伝えたい、と。
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