*...*...* Because of him *...*...*

「珪くん、お疲れさま」

 わたしはぼんやり見ていた雑誌から顔を上げると、ドアの向うから顔を出したやや顔色の悪い珪くんに声をかけた。
 作業用のジーンズはところどころ穴が開き、その身体からは、シルバーを溶かすのに 使用したであろう薬品の匂いがまとわりついている。

「どう? 仕上がりそう?」

 高校時代はフリマなどで売りさばいていた珪くんのアクセサリーは、 本人が付けていることも相乗効果なのか、この頃では、個別に注文が入るようになった。
 もともと珪くんは人目にさらされるモデルの仕事をずっと続けていきたい意志はなく、 その注文をむしろ喜んでいるみたいで。

 でも、だからと言って、今までこなしてきたモデルの仕事量が減るわけでもなく、 皺寄せを喰うのは、珪くんの睡眠時間と、それと……。


 ―― わたしとの時間。


 今日も午前中から、あれこれと出かける計画を立てて、珪くんの家まで迎えにきたわたしは、そこで真っ赤な目をしてシルバーを型に溶かし込んでる珪くんの姿に出くわした。


(珪くんってイヤって言えない人なのかも)

 わたしは思い出す。
 目立つことを特別好むわけではない珪くんが、モデルのバイトを始めたのも、断われなくて仕方なく、だったことを。
 ずっと頼まれ続けている間に、有名になって、そのままやり続けていたって話も。
 でも今度は自分のやりたかったこと、モノを作るという仕事なんだもん。

『頑張って!』

 って心から応援したい。


 でもこういったデート当日の朝が2回3回と続くと、切ない、というのも偽らざる気持ちで。
 べ、べつにっ、仕事とわたしとどっちが、なんてバカな質問をする気はさらさらないんだよ、うん。
 ―― けど。


(ジ、ジレンマ、だあ……)


 この淋しい、と思う気持ち。頑張って、って労いたい思い。
 これがわたしの中で、日毎に、いや、分刻みで変化するんだ。

 珪くんはわたしの姿を認めると、ふっと小さく笑みを浮かべて。

、悪い、ちょっと寝かせてくれ……」


 いつもみたいにつつーっとわたしの髪をすくい上げたあと、倒れこむように寝室へ入っていった。
*...*...*
 冬の陽が、空のてっぺんを越えて少しずつ傾いてくるころ。
 わたしは少しだけ風が出てきたのか、ばさりと大きく揺れる木々を窓の外に見て、 今日1日が、自分1人で過ごすのと変わらない1日になっていたことに気付いた。

 朝イチで封切りの映画を観て、それから、あったかい昼間の間に 公園でテイクアウトのランチ食べて、それからオープンしたてのカフェでお茶して、って考えてたのに。

 珪くんて、わりとてくてくと歩くの平気だから、って、今日のデートは珪くんとふたりで冬の公園を闊歩するんだ〜なんて 歩きやすいブーツも新調してエンジ色のダッフルコートも準備してきたのに、な。


 こんなに肌寒くなってから、出掛けるなんてもうムリかも……。


 自分の吐息が窓に小さな曇を作る。
 これが窓いっぱいに広がる頃、珪くんは目覚めるのかな。

 昔のどんなお話の中でも、眠り姫が目覚めるのを待っているのは、王子サマ。
 でも、わたしたちの場合は、いつも姫がずっと待ち続けてるんだ。眠り王子を。

 待って、待って。待ち続けることが終わったとき。

 ね、珪くん。
 そのときには、今日という時間は取り戻せないよ。


 珪くんを責めるような考え方にわたしは首を振る。


 ……ん。
 頭じゃ分かってるんだ。珪くんが忙しいこと。
 でもね。
 今日のためにいろいろ計画してきた時間だとか、楽しみだとか、期待とか。 自分の中でぱんぱんに膨らんでたものが全部きゅって萎んじゃったみたいな感じが、する。
 珪くんを責めたいけど、責めちゃダメって心の中がぐるぐるしてる。


「……バカみたい、こんなことで……」


 じわっと瞼の端に浮かんだものが、頬を伝う。
 それををごしごしと子どもみたいに手の甲で拭く。
 息を整えるように深く息を吐く。
 頑張れ、なんて小声で自分にエール。

 ……わたし、これ以上。


 キミになにを望むことがあるんだろう?


 キミ、だから。
 こんなにも切なくなったり、悲しくなったりする。
 キミの視線の色に、戸惑ったり、有頂天になったりする。
 わたしの心のすべての変化はキミが起因してるから。
 だから、平気になる、強くなれるってこともいっぱいある。だって、そうなんだもの。


「ん! 美味しいコーヒー、淹れておこうかな」


 豪華な服や美味しい食事、
 特別な場所より、なにより。


 わたしに今必要なのは、キミとゆっくり時間を過ごすこと。
 きっとそのとき、珪くんの好きなコーヒーはわたしたちの名脇役になるだろう。
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