僕は自宅を出ると、ふと、空を見上げました。
昨日までと全然変化のない空だと思うのに、見る人の気持ちが違うと、こんなにも柔らかい色になるのでしょうか?
心の通じ合った美菜子に会えると思うだけで。
── もう、ココロの中で口ずさむのではなく。またメールの中の『minako』でもない。
堂々と彼女の名前を口に出して呼べる、と思うだけで。
*...*...* Happy Together *...*...*
卒業式翌日。目の端っこに捉える桜は、微かなピンク色を空気全体にまき散らして。
それは僕の心の一端までもゆっくりと淡い色に染めていきます。
これが日本の春、なのでしょうか?
今まで3回もこの心躍る季節を僕は通り過ぎてきたというのに、今年の春はなんだか僕にとってSpecialな気がします。
……美菜子の存在そのもの、のような。
そうなのです。
僕は日本に来てからの数年間、ずっとずっと、本当の母国語である日本語と僕を育ててくれた英語との間で、とても戸惑っていたのだ、と思います。
……そう。
まるでメールの中での『minako』にはなんでもありのままの自分を話せるのに。
(もしかして時折り街で会う女の子が実はメールフレンドの『minako』じゃないか?)
と微かな予感が本物になろうとしたとき、今までの僕はエイゴリアンから英語をもぎ取られたちっぽけな男の子になっていたのでしょうね。
言葉が通じないというもどかしさは、経験した人でないと分からない、と僕は思っています。
日本は良い国です。僕は日本や、その佇まいや文化を愛しています。
なによりも僕の身体の中には日本の血が流れていますしね。
けれど、日本人の容姿をしていて日本語を話せない、というのはきらめき高校の生徒から見ればちょっと不思議だったようです。
僕の、……僕には良く分からないんですが、アメリカっぽい仕草が単純な誤解を生むこともしばしばあって。
そんなときの、美菜子からのメール。それがどんなに僕を励ましてくれていたか、美菜子はきっと気づくことはないでしょうね。
(美菜子のメールが僕の毎日に風穴を開けてくれていたんですよ?)
僕のうっかり出した間違いメールが、今こうして、何年も時間を越えて、大好きな美菜子へと繋がっている。
今こうして振り返ると、美菜子と僕の関係はなんだかとても不思議な気がしますね。
「千晴くん?」
僕がぼんやりと手にしているモバイルに視線を落としていると、えへへ、待った? と約束の時間よりも15分も早く、彼女は待ち合わせ場所に着きました。
とびっきりの笑顔で僕の顔を覗き込みます。
「いえ。僕も先ほど来ました。……行きましょうか?」
僕たちは、昨日の帰り道に突然決めたデート先へと向かって歩き始めます。
「……あ」
一歩先を歩き始めた僕に、彼女は小さな、……本当に僕でなければ聞こえないほどの小さな声を上げました。
「どうしました?」
見ると、昨日の教会での表情そのままに、頬を染めて僕を見ています。手は美菜子の胸の位置に小さな飾りのように置かれています。
彼女が彼女だと分かって、たくさん言葉を紡いだのは昨日が最初。
けれど、僕たちはもっともっと長い間ずっと、本当のことを言い合ってきた仲だから。
僕は美菜子の微かな動作にも、納得するものを感じるのです。
これは……。
僕の好きな『ひかえめ』な美菜子なのですね。
「美菜子。……はい」
僕は彼女の前へ彼女のためだけの手を差し出します。……離すことなど想像するだけで泣きそうになる臆病な自分を励ましながら。
「……え? いいの?」
昨日は僕の腕の中で想いを告げて。艶やかに輝く唇の温もりも伝えあったというのに、美菜子はなおも恥ずかしそうにしています。
やっぱりここ、日本ではキスさえも、特別なものなのでしょうか?
僕は今までの美菜子とのメールのやりとりを思い出しました。
「はい。美菜子は僕の『彼女』ですから」
『彼女』
これもダイレクトな表現の『steady』よりも大好きな僕の、日本語。
『彼女』という言葉を少しだけ強調して、僕は告げます。美菜子の目をしっかり見つめて。
「……うん」
美菜子はそんな僕を受け入れて、そして受け止めてくれたようです。
桜の蕾が綻ぶように笑うと僕の手をぎゅっと握ってくれました。
*...*...*
卒業式の日、はばたき学園の教会の中でお互いの気持ちを伝え合った後、僕はどうしても自分の学園の伝説の樹を美菜子に見せたくなりました。だから卒業式の翌日に、今度は僕が美菜子を僕の母校に案内することにしたのです。
電車に乗って。しばらく続くジンチョウゲの香りのもと、ふたり、肩を並べて歩いて。
「ん〜、気持ちいいね」
僕の左横にいる美菜子は僕を見上げて屈託なく笑います。
「そうですね」
美菜子の暖かそうな表情を見ていると、突然、ほわり、と連鎖するような感覚が僕を襲います。
ああ。きっと『連鎖』という言葉は的確ではなくて、もっと良い言葉が日本語の中にはあるのでしょうね。美菜子と一緒にいると、僕の周りの空気3インチくらいが急に暖かくなるのを感じるのです。
「ここが千晴くんの学校……」
昨日は在校生だったのに、今日は卒業生として、母校の門をくぐる、という行為は、なんだかくすぐったいような不思議な感じです。
美菜子は僕を見上げていたずらっ子のように微笑みました。
でもその笑顔は一瞬で消えて。
「あのね、わたしね。以前、ここに来たことがあるの」
今度は少し淋しげな表情を浮かべて周囲を見回しています。
「いつ、ですか?」
「んー。去年の春、くらいかな? ……1年前だね」
「どうして、……ですか?」
その頃はまだお互いがお互いだと知らなかった時期で。
僕は首をかしげました。きらめき高校に美菜子の知り合いがいた、ということでしょうか?
「メールで千晴くんに教えてもらったでしょう? この学校の伝説の樹のこと」
美菜子はぽつりぽつりと話し出しました。
メールフレンドの『chiharu』が僕ではないか、と思い始めたこと。
僕だったらいいな、と考え始めたこと。
きっかけがつかめなくて、街を歩くたび、僕の姿を探そうとしてくれてたこと。
「千晴くん用にバレンタインのチョコまで作っちゃったんだよ?」
おどけたように美菜子は笑って。
「不思議だね。きっと去年と同じ景色のはずなのに、去年よりも木漏れ日が暖かいよ」
そう言うと、大きな伝説の樹を労るように撫でています。
ずっと僕のことを想ってくれていた美菜子。
一度会おう、とメールで話して。
何度も読み返したメールの文面が、木漏れ日のように僕の中に降ってきます。
……会おう、と約束したにも関わらず、僕は僕の顔が知られていないことをいいことに、逃げ出したことがありましたね。
(臆病すぎた僕がどれほど、美菜子を辛くさせたのだろう── )
僕が謝ると、
「ううん? 初めて会うときって緊張するもんね? だから、もう気にしないで?」
美菜子はそう言って笑います。
僕はそのいつも変わらない笑顔を見て思うのです。
僕こそ。
返信をするときのわくわくした気持ち。いつも美菜子のメールを心待ちにしていたこと。
街でよく会う色素の薄い女の子が、メールの『minako』だったらどんなにいいか、と思ったこと。
この笑顔が見たくて、用もないのにはばたき市を歩き回ったこと。
この声が聞きたくて、駅に行く道順なんて知っているのに、何度も尋ねたこと。
……美菜子に会いたくて。
そうすることで自分が救われたくて、いつも同じことをしていた、ということ。
「美菜子……」
ふと、僕の手が僕の意志を離れて、美菜子の髪を触れています。
こんなことは初めてで。
僕は最近覚えた難しい日本語の意味を一瞬で理解することができました。
『凌駕する』
僕の今の行動を、感情が理性を凌駕する、というのでしょうね。
「千晴くん?」
「好きです。あなたが」
どれだけ『好き』と言う言葉をあなたに言えば、今の僕の気持ちが伝わるのか、今の僕からは想像がつきません。
でも。
今、言うべき言葉はこれしかないのです。
言っていて、僕の中に新しいチカラがわき上がるのが分かるのです。
これからの僕は、この人を守れる強さを自分のチカラに変えていきたい、と。
── そう。まるで祈るような気持ちが僕を包んでいる、から。
「……えっと、……言わせて? わたしからも」
美菜子は僕の手を大切なモノのようにそっと両手で降ろすと、そのまま美菜子の胸の前へ抱きかかえました。
美菜子の暖かな息が手の甲に当たるのがわかります。
うつむいた頬が、暑い季節でもないのに、真っ赤に色づいていることも。
美菜子の視線が僕の後ろにある伝説の樹をさまよって。
そして、ある決意を持って僕の視線と重なりました。
「わたしも、千晴くんが好きです」
「美菜子……」
「大好きです」
泣き笑いのような顔。
美菜子のその表情は限りなく綺麗で。そして愛しくて。
みるみるうちに美菜子の瞳が盛り上がった、と思ったらその刹那、熱い雫が僕の手を伝っていくのがわかりました。
はばたき学園の教会ときらめき高校の伝説の樹。
「美菜子。僕たちふたつの伝説の中で誓い合ったのです。……だから」
きっと僕たちも。
「永遠、です」
僕は美菜子の目を覗き込みます。
透明な瞳の中には僕がそのまま映し出されています。
理性を凌駕した感情が僕のもう一つの片手にチカラを入れて、僕は美菜子を胸の中に抱きかかえました。
美菜子。
これからも僕とあなたが、ふたりで。
ともにあるように。
同じ季節の中、ふたり、肩を並べて歩いていけるように。