*...*...* Many seasons, many scenes *...*...*
わたしはリーダーの先生の声をBGM代りに聞きながら、うっとりと窓の外を眺める。5月の、空。
その空を何倍にも濃くしたような海の色。
その間を波がかき乱して、淡く白い一本の線を作る。
ここ、はば学はちょっと高台の上にあるから空と海の境界線が交ざりあって、窓の下に特別な景色を作る。
初めてこれを見た高1の時は、きれい過ぎて言葉が出てこなかったんだ。
今は授業中だ、ってことは十分に理解しながらも目を離すことができなかった。
その揚句、氷室先生から2回も名前を呼ばれたことに気がつかなくて。
『私の教師生活、特記すべき出来事だ』
なんてお叱言をもらったっけ。
それはひどく恥ずかしい思い出。……にも関らずわたしは3年生になった今でも、窓の外の碧いものを見つめ続ける。
それは全然変化のないように見えて、実は同じ景色は2度となくて。
今から教室を飛び出して、校門を突き抜けてあの下りの坂道を駆け降りて行けたら、こうしてあれこれ悩んでること、もやもやした思い、そんなものを脱ぎ去って碧い流れに染めてしまうのにな。
── なんて、授業とは全然関係ないことに思いを馳せてみたりしていた。
うん。大体、ご飯を食べたすぐ後の睡魔に襲われる5限目が、一番退屈なリーダーっていうのが、いけないんだもん。
ふと、後ろから視線を感じる。
慌てて首だけを後に向けると、そこには珍しく目を開けている珪くんがいる。
起きてるんだ、という思いを込めてからかうように珪くんを見たら、珪くんはむっとした顔して、顎をしゃくる。
ちゃ、ちゃんと前向けよ、って言ってるんでしょ。
わたしは口を尖らせながらいったん前を向く。
そしてちらりと珪くんの様子を伺うように目だけ珪くんに預けると、珪くんはわたしのその行動もお見通しだったみたいで、我が意を得たり、って顔して笑ってる。
ううっ。席が前後、それも、気になる人が後ろって困るよね。
絶えず気が抜けなくて、なんとなく背中や肩のへんが熱い気が、する。
わたしは気を紛らすように教科書に目を落す。ぱらりと教科書を埋めつくすアルファベットは元気な曲の音符のようにも見える。
わたしは、先生の言ってることに耳を傾けて、赤鉛筆でアンダーラインを引いた。
【prejudice】
先生の発音が、わたしの耳を通り過ぎる。
ねえ。
この単語を一つ覚えたら、わたしは何かに近づくことができるのかな?
── 自分の求めているものに。
もう一度だけちらりと後ろを振り返ると、珪くんは穏やかな顔で気持ち良さそうに目を閉じていた。
*...*...*
高3になってから、周囲の友達は明らかに『変化』していった。自分の夢を追う子、希望校と自分との実力のギャップに焦る子、諦める子。
周囲に流されるようにしてわたしもようやく自分の位置を確認して、……そして迷っていた。
(どうしたいんだろう、わたし)
将来の夢、というのはまだ曖昧すぎて。
わたしは具体的なビジョンもないまま、勉強だけを強いられてる気がしていた。
じゃあ勉強なんて止めて就職する? って考えたとき、それもイヤだと駄々をこねる自分がいる。
授業が終わった後、わたしは揺らめく薔薇の香りと日差しに誘われて教室の外に出た。
そしてそのまま中庭を通り抜けて、その右傍の細いレンガ道に進む。
そこは本当に人一人が通るくらいの幅しかない道で、ちょっと薄暗くて。
中学から持ちあがりの子でも、守村くんくらいしか知らないんじゃないかな、って思うくらいの小さな小さな花壇があるんだ。
── わたしの、とっておきの場所。
年中枯れることなく、なにかしらの薔薇が咲いている。
たえず品種改良を繰り返してるのか、この3年間同じ花が咲くことはなかった。
くん、と鼻先にあった、淡いオレンジ色の薔薇の匂いを嗅いでみる。
八重の花びらから香る芳香は思いのほか強くて、ぼんやりとしていた自分の頭が澄み渡っていくのを感じる。
「……いかがかな? お嬢さん」
「ひゃっ!」
「いや、失礼。そんなに驚かせるつもりはなかったんだ。ただ君は良くこの場所に来るね」
「えっと、あなたは……?」
品の良いこげ茶のスーツを着た男性が微笑んでる。
わ、なんだか、薔薇とは違う良い香りがする。
見上げるような格好をして彼を見つめと、逆光なのにその人が困ったような表情を浮かべているのが分かった。
その人はわたしの質問には答えずに、さわり、と薔薇を撫ぜた。
「今年は良い出来だ」
午後になって風が出てきたのか、スカーフが胸の上ではたはたと風を含む。わたしは宥めるように先っぽを抑える。
そんなわたしを名も知らない人は優しく包みこむように見つめている。
……どうしてそんな目でわたしのこと、見るんだろう。
「……3年でこんなにも変わるものなんだね」
「はい?」
変わる?
わたし、薔薇の成育ってよくわからないんだけど、そういうものなのかな?
わたしは初めてこの庭に来たときのことを思い出す。
でもその記憶は、教室の窓から眺める海ほどの印象をわたしに与えてなかったのか、今目の前に広がっている景色とあまり変わりないようにも思えた。
今のように、暖かくて。ほっとして、気品がある、感じ……?
あれ?
なにか引っかかる。
わたしは目の前の人を見つめる。
丁度その人の頭の上を掠めるようにして太陽が居座ってる。
目を細めても首をかしげても、虹色に耀く光がその人の幅広い肩を照らしているばかりで、その人の本当の表情と言うものが掴めない。
でも。
初めてじゃない。
確かにそう感じる何かがあった。
この人はわたしのことをきっと良く知っていて、わたしが、この人の存在に気付かないでいるだけ、なのかもしれない。
「いや、何でもない。もう行きたまえ。6時限目が始まるよ」
「……あ、はい。わたし、そう言えばっ!」
今日の午後の授業は苦手な科目オンパレードで。
しかも教科書をウッカリ忘れて、たまちゃんに借りなきゃいけないんだった!
「あ、あのっ」
どうも、でもない。ありがとう、と言うのもなんだかおかしい。
わたしはすれ違いざま、その男の人に会釈をすると、くるりと向きを変えて走り出した。
*...*...*
息を切らして教室に戻ると、教科書はすでに机の上に置かれてあった。「おまえ、落ちつきないな」
こんな少しの休み時間にどこ行ってたんだ?と心配そうに珪くんは訊いてくる。
「ん、あの……」
とっさに返事につまる。どこからどう話したら伝わるんだろう?
あの秘密の庭のこと? さっき会った男の人? むせ返るような5月の薔薇の匂い?
あ、ダメ。多分わたし、単語でしか今の状況、伝えられない。伝わらない。
どうしよう。
今まであの庭は、わたししか知らない秘密の場所だった。
だけど珪くんが、体育館裏のネコを紹介してくれたように、わたしもわたしの特別な場所、珪くんに教えてあげようかな?
喜んでくれるかな?
わたしが珪くんの特別を知ってとても嬉しかったように、彼も少しでもいいな、って思ってくれるといいな。
この思い、共有してくれると、いい。
話の途中で、古典の先生が教室に入ってきたから、話はそのまま中断。
わたしは、後でね、と口の動きだけで珪くんに返事を返して、教科書に目を落とした。
綺麗な薔薇を見たせいか、わたしはこの前珪くんと一緒に行った植物園での会話を思い出す。
珪くんは、ポーカーフェースとは裏腹な迫真の演技、茶目っ気たっぷりの会話で、真顔で迫ってくる。
わたしも負けないぞとばかりに対抗したんだけど、最後は抑えきれなくなってふたりで大笑いしたんだっけ。
── あの朝焼け色の薔薇を見て、珪くんはなんて言ってくれるだろう?
……ううん。
5月の空や海。
胸を撫でていく風。
小さな小さな花壇を彩る鮮やかな花びら。
わたしから見えるいくつもの景色は、珪くんにはどんな風に映ってるんだろう。
「……った」
つんつん、と背中にシャープペンのさきっぽの感触がする。
先生が黒板に向かったのを見計らって、わたしは珪くんの方を振り返った。
「なあに?」
「おまえ、集中力なさすぎ」
「うっ。そ、そうかも……」
マズいよね。後ろの人にも見破られちゃうなんて。
「今日は……」
珪くんはやれやれとでも言いたげに目を細める。
「奢ってやる。ケーキ」
「え?」
「美味しい店、教えてもらったから」
だから、もう少しだけ辛抱しろよ?
くしゃりと髪を撫でながら、甘い声で告げられる。
「う、うん!」
一緒に帰る、通学路。
またふたりで一緒に見た景色の数が増えていくね。