「そう……。良い感じよ」
嬉しそうに問題を解き出すさん。
目の前にいるこの女の子と、葉月くん。
考えてみればちょっと不思議な組み合わせかも……と、私が指差した参考書の問題をちょっと顔をしかめながら解いているさんのストンと下りたクセのない前髪を眺めながら、私はいろいろなことを考える。
不思議、という私の気持ちは、『葉月くんと一緒にいるさん』ではなくて、『さんと一緒にいる葉月くん』の、その変貌ぶり、なのかもしれない。
高校からの編入組の彼女。
── 当然中学の頃の葉月くんのことは知るはずもなくて。
*...*...* Reason to love *...*...*
中学の、あれは3年の時。偶然、私と守村くん、そして葉月くんが同じクラスになったことがあった。
簡単な自己紹介の後、新しく担任になった先生はどうしても抜け出さなくてはいけない用事があったのだろう、適当に見知っていたのであろう名前を呼び上げた。
『じゃ、男子のクラス委員長は、葉月。女子は、有沢。あとの役員は適当にこの後のLHRで決めてくれ。お二人さん、頼んだよ』
先生はノンキにそう言い捨てて、教室を出て行く。
ドアが閉まるやいなや、騒ぎ出す、新しい級友。
その活気ある雰囲気は、いかにも4月らしくて。
またそういう雰囲気にイチ早く馴染むことの出来ない自分も、何となく歯がゆくて。
けれど、名指しで指名された以上やらなくてはいけないし。
私は席を立つと黒板の方に向かって歩いて行った。
一方葉月くんは、と言えば……。
選任されたことを喜ぶわけでもなく、かといって拒否してるわけでもない。
なにを考えているのか全く読めない表情。
でも何かをしなくてはいけないと思ったのか、音も立てずに椅子から立ち上がると私から遅れること数秒、黒板正面に立った。
「……じゃ、葉月くん、始めましょうか」
私は何の思惑もなく彼の背向かいに立つと、まっさらな白いチョークを手に取る。
別に私は男の人が偉くて女の人がその後を、と考えるタイプの人間じゃない。
けれど、まあ、セオリーっていうのかしら?
葉月くんがこれからの司会進行を、私はそれを書き写す係を、と考えて、左端にわざと少しだけ音を立てて『役員選出』と書いた。
ガヤガヤと騒がしいままの教室。
女子なんかは早く帰りたくて、帰り支度に余念がない。
小さな鏡の中を覗き込むようにして前髪を直していたり、今日帰り道に寄る喫茶店の話なんかをしている。
男子は、というと、運動部の人は素早く体操服に着替え出したり、見知った人とおしゃべりを始めたり。
大切なクラスの役員をくじ引きなんかで決めるのは、どうかと思うけど、こんなに緊張感が切れた教室じゃそれも仕方ないかも、とそのときの私は考えていたの。
……でも。
葉月くんは何も言わない。
話し合いをするためクラス全体をまとめようとしているわけでもなく、要領良くくじ引きで、という提案をするわけでもなく。
肩越しに見る彼の背中は、ただ戸惑ってるばかりのようで。
男の子と青年の間のような清潔な肩のラインは、途方に暮れているようにも見えて。
いつも成績が一番の人。
私は読んでいないけど、よく雑誌に出ている人。
モデルのバイトをやっている人。
『テングになってるのよ、アイツ』
藤井さんが言ってた言葉。
いろいろ思いめぐらせてみたけれど、私はどれも本当の、生身の葉月くんについて何も知らないことが分かる。
……そう。
この人の声さえも、私、知らない。
「葉月くん?」
「……俺、パス。おまえ、やってくれ」
彼は私の背に手を添え、そっと押し出すかのように力を加える。
突然の役割変更。
彼は私が手にしていたチョークを持つと、目も合わせないで黒板に向き直った。
私は、目の前に広がった雑然とした教室を見回してため息をつく。
こんな周囲の状態で、どうやってやりたくもない役員を選出することができるだろう。
「あ、僕、副委員長に立候補します。みんなで協力し合って、早く決めてしまいましょう」
一番前の席にいた小柄な眼鏡の人が立ち上がる。
「あ、あの? ……守、村、くん?」
初めて見る人。
素早く左胸の名札をチェックする。……ああ、よく期末テストの結果で上位に食い込んでいる人かしら?
そう考えて、心の中で苦笑する。
── 私の人間関係の地図、テスト結果の順位でまとめられてる。
「新しいクラスで、女の人が取りまとめするの、大変ですよね? 僕がやります」
ほわりと女の子のような微笑みを浮かべて笑う人。
こうして立ち並ぶと私よりも背が低いみたい。
(……こういう女の子らしい男の人もいるのよね……)
って自分の身体を卑下してみても仕方ないけど。
「葉月くん、板書、お願いしますね? じゃあ、みなさん。全部で決める役は5つあります。立候補から受け付けます。どなたかいらっしゃいますか?」
容姿に似合わないきりりと引き締まった様子で守村くんはクラスをまとめていく。
彼が黒板の前に立ったことで、帰り支度で浮き足立っていた男子も女子も席に着き、効率良く係が決まっていく。
こういう人って、男性受けも女性受けもいいのかしら?
それともこの人本人の性格なのかしら?
なんというか、この人のためなら仕方ないから協力してあげようかな、と思わせるものが守村くんにあるのかもしれない。
── それはいわば『人望』という言葉に置き換えたらしっくりくるような。
係が決まる頃には、なぜかさっきまで小さく見えていた彼の肩がとても頼もしく思えてくるのが不思議だった。
「ね、守村くん。どうしてさっき副委員長に立候補したの? あれは本当は葉月くんがやる仕事だったでしょう?」
選出した役員リストをなぜか守村くんと私の二人で職員室に持って行くとき、私は問いただした。
子どもでもあるまいし。
不本意な役でも決められたことはちゃんとしなくでは、と私は思うから。
「うーん。手厳しいですね。葉月くん、ですか」
「そうよ。守村くんが代役つとめたら、葉月くんが委員長の意味、ないわ」
詰るように言い放つ。きっとその根底には少なくない悪意が込められていたと思う。
だいたい、こうしている今だって、葉月くんは『……帰る』の一言を残して、さっさとカバンを持って教室を出てしまったのだから。
「……いい人ですよ。彼」
守村くんは眼鏡のフレームに指をやりながらつぶやいた。
……もしかしてこの人、完全善人説の人なのかしら?
「有沢さんは、今年初めて葉月くんと一緒のクラスになったから、まだ見えてないだけなんですよ」
「そういうものかしら?」
「あ、有沢さんって、花、好きですよね?」
「はい?」
いや、僕が手入れしている花壇の花、たまに面倒見てくれてるでしょう? と守村くんは弁解じみた早口で言った後、ふとレンズの奥の目を細めた。
窓の外、桜のピンクと遠くに見える海岸線がいかにも春めいている。
「……植物と一緒じゃないかな、って思うんですよ。葉月くんは。今は種のまま眠っていて、そのうち太陽や水が彼の中で飽和したら、芽が出てくるんです」
「……まだ私はそこまで彼のこと、理解してないし、精通してないわ」
「あはは、そうかもしれませんね」
守村くんがそう相槌を打ったとき、私たちは職員室の前に来ていた。
*...*...*
「……太陽、ねえ」「え? 今、わたし、微積の問題、解いてるんだけど……」
戸惑いがちの視線を避けるようにして、私はさんの肩の向こうの景色を見る。
そこには春一番の風が吹いた後の日差しの強さだけが残っている。
結局。
あれ以来、私は葉月くんの太陽にはなれなかった(別になりたいわけじゃなかったけど)
この目の前の女の子が、太陽になり、水になり。
冬眠中の種は、芽を出した。
3年前の葉月くんから、今の葉月くんは想像が付かない。