*...*...* To be with you *...*...*
 殺風景な俺の部屋の窓から、かすかに光が滑り込んだ。
 そのいつもとは違う風光に戸惑う。
 閑静な住宅街。街灯も夜11時頃には消える。

 俺は眠っている思考回路を解くようにゆっくりとかぶりを振った。


(月、のせいか……?)


 今日は中秋の名月だ、ってあいつ言ってたよな。


 大学の新学期が始まる頃、


『珪くん、月を見るのも好きって言ってたよね? 今年は一緒に見よう?』


 って言ってとびきりの笑顔で約束をして。
 昨日は、


『月見団子、尽と一緒に作ったの。ちゃんと毒味もしたから、大丈夫だよ」


 えへへ、と小さな舌を出して。高校時代の弁当そのままに、小さな包みを持って俺の家にやってきたおまえ。


 ── そのおまえがいない。

 真っ白なシーツが月光の中、蒼味を増して光って見える。
 昨日、確かにここに来て。今日は家に何も言わずに来たから、というおまえにムリを言って。
 ちょっとだけ、だからね? と困ったように笑うおまえを抱いて。……それから……。


(やっぱり帰ったのだろうか?)


 体温を失った自分の横の空間を撫でて、俺は浅い眠りからようやく覚醒する。


 ……ヘンな気分だな。

 月光の中。
 かさり、と、糊の効いたシーツの上。
 こうしていると自分は何億年も前からここに住み着いている深海魚みたいだ。

 まるでこの世の生物は俺独りしか存在しないのではないか、自分がまるで満月に吸い込まれるのではないか、という気分に陥ってくる。


 ベットの中でも独り。街を歩いても独り。明日もこれからも、誰とも話さない。
 ── 全くの、独り。


 俺はつい1年前の俺の習性を思い出していた。
 高校時代、寂しさに気が狂いそうになると独りでふらりとプラネタリウムに行った。真っ暗な海にも出掛けた。
 ……どちらも思い出せないくらいたくさんの回数を。


 そうしてみても結局、月や星を見ている間は切なさを忘れたつもりでも、見終わって独りで帰路につくときのやりきれなさは、自分でも持ちこたえられないほどだと悟った。


 怖いんだろうな、きっと。
 最愛のモノを手に入れて。それを失うことの痛みを10年感じ続けてきた俺。


 ようやく願いが叶った。


 ……それを『幸せ』と感じて、『幸せ』を信じて半年が過ぎて。


 今度は再び手にしたという喜びの代償として、失うことの痛みに怯え続けている。


 女々しいよな、俺。

 あいつはこんな俺を知っているんだろうか?
 うっかりしているようで、こういうところには鋭いあいつだから、本当は知ってたとしても素知らぬふりをしてくれてるのかもしれない。

 ……いや、こんな俺に気づいていないでくれたら、今の俺はどんなにか救われるだろう?


 白い、太陽とは違うやや寂しげな光を放つ今夜の月は、今日の俺にいろんな感情を沸き立たせて。


(……ん?)


 ふと、床の軋む音がする。思考が中断する。
 遠慮しているのか音の主は俺に近づくにつれゆっくりとした歩みになる。


?」


 自分の声が、人の口から発せられたような違和感。
 でもその音は確実に届いたようだ。ドアの前で微かに身じろぎの気配がする。



「わ、ごめんね。……起こしちゃった?」


 誰に遠慮することもないはずなのに、は薄くドアを開けると、ひそやかな声で俺に囁きかけた。


「どこに行ってた?」
「ん。家に電話……。珪くん、起こしちゃうと悪いかな、って思って、1階でしてたの」


 尽にお小遣いあげなきゃ、と笑うの頬に、月光が小さな影を作る。


 それはこんな薄青い光の中。はかないまでに美しくて。


 細かい光の粒子がの髪の上を滑る。潤んだ目が、どうしたの? と言いたげに微かに揺れる。



「……どこにも行かないでくれ」



 ベットの上の俺。
 ベットの脇で立ちつくしている


 そのの腰を引き寄せて、俺は言葉にならない思いを告げていた。


 月のせいなのか?
 不安になる要因なんて何一つない現状で、こんなことを口走ってる俺に、俺が一番驚く。


「珪くんったら、どうしたの? 何かあった……?」


 おろおろと心配そうに言葉を紡ぐに、終わりまで言わせないで俺は言い切った。


「もう、戻るのはイヤだ」


 の肩がびくっと震える。抱きすくめられたまま、行き場を失った両手が空を舞う。


「……イヤ、だ」


 薄く、透明なバリアの中も。
 発した言葉が、歪曲されて相手に届くのも。
 もうそんな冷たい世界には戻れない。戻りたくない。


 おまえと、一緒にいたい。


 ぽたりと熱い滴が俺の首筋を伝う。
 同時に細い腕がゆっくりと確実に俺の頭を抱きすくめた。


「一緒に、いる……」


 熱い身体から掠れた声がする。
 まるでの魂が吸応したようなまばゆい、感覚。
 


 俺は微かに、抱き寄せてる華奢な腰から俺の匂いを感じた。
*...*...*  *...*...*
 親鳥みたいに俺のことを抱きながら、はうっとりとカーテン越しの満月を眺めている。
 いつもは俺がの頭を抱きかかえるようにして眠るから、今日はちょっと勝手が違う。

 目の前にある、S字を描く細い鎖骨とそれに続くなめらかな隆起をなぞりながら、俺は言った。


「月、きれいだな」
「ん……。こんなに神々しいと、なにか祈りたくなっちゃうね」
「……おまえなら、なに祈る?」


 叶えてやりたい。
 俺が今、どれだけおまえのこと想ってるか、大切か。
 月に神がいるのなら、おまえの長所洗いざらい全部話して、だからこいつの願い叶えてやってくれ、って頼み込むのにな。


 でもの願いは俺の予想範囲外のモノで。


「『強くなりたい』って祈るかな?」
「……強く?」


 思わず見上げる。
 いつもは上から覗き込むようにしていた顔。今日は真っ先に形の良い口元から目に入る。


「ん。そう」


 心地よい柔らかさで俺の髪を梳きながら、は頷いた。
 そしてとっておきの話をするときみたいに微笑んで言う。


「そう。……今抱いてるこの人を、守れる強さを下さい、って」



 ── また、少し。
 俺の月に関する辛い思い出が小さくなる。
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