*...*...* Innocence *...*...*
 7月に入ったばかりだというのに、今日も季節外れの猛暑。
 ここはばたきの街も夏がやって来る前に、何度も真夏の体験学習を繰り返しているみたいだ。

 森林公園の噴水前。
 わたしはベンチに座っている彼の横顔を盗み見る。

 涼やかな彼の白い肌にも、うっすらと汗の膜が張ってるのがわかる。手には飲みかけのペットボトル。まだ半分くらいミネラルウォーターが入っている。まるで中味が湧き出てきたようなきれいな水滴がそのまわりについている。彼の指が濡れる。

 そのきれいな爪を見てたら、不思議とわたしの頬も熱くなる。

「……で。模試の出来、どうだった?」
「うっ。イマイチ、かも……」

 今年、高校3年の夏は、わたしたち受験生の正念場。
 と言っても、実際の正念場を迎えているのは、『わたしたち』ではなくて『わたし』だったり、する。
 高校に入学したときにはなにも考えていなかった、自分の進路。
 今だって、具体的に◯◯になりたい、という決意みたいなのは見つからない。

 2年の終わりの期末試験の結果が発表されたとき、ほぼ満点の成績でトップになった珪くんになにげない振りを装って訊いたことがあった。

『──珪くんの進路って、もう決まってるの?』

 震える声はそのとき偶然吹いた風がごまかしてくれた。
 そしてそのとき返って来た答えは、

『……一流大学のつもり』

 だったんだ。

 そうだよね? 当たり前だよね? ── こういうときはぴったりと当る、わたしの勘。
 珪くんの成績なら、その進路も当然だよね。


 聞いて良かった。聞かない方が良かった。


 わたしの気持ちはシーソーみたいに揺れる。
 中心の支点の位置は、猫の目よりも目まぐるしく変わっていくわたしの気分次第だ。

 授業でやる簡単な小テストが満点の日は、上機嫌。

(わたしだってやるときはやるんだから〜)

 って気分で奈津実ちゃんばりのポジティブ思考人間になる。
 やっぱり志穂さんが言う、『あなたって本当に単純ね』の言葉は的確にわたしの性格を表現してて。 そんな日はどこまでも気分が舞い上がる。背中に羽根が2、3枚装着完了、準備オッケーって勢いになる。

 けど、その反対となると、自分でも収拾がつかなくなるくらいの堂々巡りの迷路に入る。
 自分の目の前には日本の真裏、ブラジルまで続くクレバスがあるんじゃないかと目を疑ってしまうほど。ぬかるみに半歩でも足を踏み入れたら、もう、抜け出せない。暗闇の中で一人、ジタバタしていたり、する。

 『……ブラジル、ね。辿り着く前にマグマで溶けそうだわ』

 『日本の真裏はブラジル。サンパウロなんだぜ? ねえちゃん、知ってたか?』と、昨日尽から聞きかじった知識と自分の状況をリンクさせて、身振りを交えて懸命に説明したのに、彼女からはいつものクールな声であっさりカワされたんだった。

「んー……」

 わたしは顔をしかめる。
 今日は、珪くんの進路を聞いてから初めての大がかりな模試の日だった。
 結果は、……まあ2年の時よりはマシだけど、一流大学には程遠い代物、で。
 模試の後の自己採点で大体の点数を把握したわたしは、すっかり滅入っていた。

「……間に合うかなあ?」
「ん?」
「2月の受験までに」

 ため息の方が先に出る。
 気遣わしげな視線が頭の上から降りかかるのを感じてはいたけど、それが却って切ない気持ちを膨張させていた。


 ── 珪くんとの、距離。


 この人、って本当はスゴイ人なんだよね。

 大体、あだ名が『王子』っていうのがスゴい。あだ名に遜色ない容姿も。

 勉強も出来るでしょ? スポーツ万能でしょ?
 ちょっと無口だけど、それは決して欠点ではない。
 ……というかむしろその無口なところが『クールビューティ』という新しいあだ名をも産み出しているワケで。

 わたしは、◯や×がいっぱいの参考書を興味深そうに覗き込んでいる隣りの人に視線を移す。

「……なんだ?」
「ん……。どうして珪くんは……」

(わたしと一緒にいてくれるのかなあ)

 言いかけて言いあぐねる。湧き出た疑問に自分自身、答えることができない。
 わたしはせわしげにぱらぱらと参考書をめくりながら考える。

 優しい人だから? ノーと言えない人だから?
 あれ? ううん。1年生のときは何度もわたし、誘っては断わられたよね?
 だから珪くんは完璧なイエスマンというわけではない、はず。

 (多分……)

 わたしは思いを馳せる。

(わたしのトロさ加減を多分一番良く知っている人だから……?)

 きっと珪くんは、あちこちとまとわりつくわたしを今更放り出すのに抵抗があるんだろう。
 だから、体育館裏の一番トロくさい仔猫にわたしの名前つけたんだろうし。

 わたしは再び陽の光りの下にある参考書を見つめる。

 勉強って、今のわたしとこれからのわたしの、何の役に立つのかな?
 今一番欲しいと思っている答え、

『どうして珪くんはわたしのそばにいてくれるの?』

 という質問の正解がこの教科書に書いてあるならわたし丸一日、ううん、半日のうちに全てを暗記しちゃうのに。

 わたしはため息をつきながら、ちょっと前から抱いていた疑問をぶつけてみることにした。

「ねえ、数学の微分と積分って、珪くんの毎日の生活の中で何か役に立ってる?」
「……どうしたんだ、突然」
「わたしね、生活していく中でね、数学ってあまり必要じゃない気がするの。たとえば、ソフィアで服を買うのに微分が必要なら、覚えよう、って気になるけど」
「……おまえらしいな、そういうの」

 頭上から吹き出す声がする。
 うう、こういうところがからかわれる原因になるんだろうなあ……。
 笑われたままじゃクヤしいから、さらにわたしは説明した。

「でもね。ほら、ニンジン2本、キュウリ3本、合わせていくら? っていうレベルの算数なら毎日でも必要だろうけど、dy = f'(x)dx とかはね、料理とかショッピングでは使わないでしょ?」

 珪くんはときどき相づちを打って、わたしのまとまりのない話を聞いてくれる。
 ……わたしが安心するのはこういうときだ。
 『話すの、苦手なんだ』って彼はよく口にするけど、それはわたしからしてみると、『聞き上手』っていう素敵な長所になっていて。
 ── こんなにもわたしの気持ちを柔らかくしてくれるんだもん。

 珪くんは最後までわたしの話を聞いた後、小さな子を言い含めるような優しい口調で言う。

……。数学的思考っていうのは、いろんな事象を体系的に見るのに役に立つんだ、って俺は思ってる」
「……タイケイ的?」

 咄嗟に漢字が浮かばなくて焦る。えっと……、これは『体系的』ってことだよね?

「そう。体系的に物事が見えるようになると、次の予想が立てやすくなるだろ? 予想が立てやすくなる、ってことは生きやすくなるってことなんだ」
「そっか……」

 生きやすく、かぁ。

 今までわたしにそんな風に説明してくれた人は誰もいなかった。
 氷室先生にも尋ねたことはなかった。
 そんな訊くのもはばかられるような当たり前のこと、訊いちゃいけないって思いもあった。

 勉強っていうのは、みんな『楽しんでする』というよりは『受験に必要だから』という必要性に迫られているからするのだ、と信じて疑ってなかったし、自発的ではない勉強には苦痛がつきものだった、から。

 ころんと『見方』がひっくり返る。
 陰から陽。ネガティブからポジティブ。
 ん、生きやすくなれるんだったら、わたしも微積なんてどんどんやっつけちゃうもんね。

「珪くん、ありがとう! なんかわたし、やる気が出てきた!!」

 単純、って笑われてもかまわない。単純な自分と今日は握手したいもん。
 チンプンカンプンな微積が生きやすさに繋がるなら、どんと来い、だよね?

「じゃあ、えっと、成績アップおめでとう、ということでケーキ食べて帰ろう?」

 すっかり自画自賛モードになって、勢いよくベンチから立ち上がるわたし。
 そんな様子を見て、珪くんは悪戯っぽく微笑む。

「……でも、どれだけ勉強しても予想がつかない事象、も、ある……」
「へ? 珪くんでもそんなことがあるんだ」
「……だから、目が離せない」
「えっと……。何から目が離せないの?」

 真面目に尋ねたのに、その後珪くんはだんまりを決め込んだ。


 ── 分からないこと、っていうのは、教科書の中だけの話ではないみたいだ。
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