*...*...* 優しい雨 *...*...*
 まだ、肌にまとわりつく空気は少し冷たいのに、
 まるで夏のような日差しが窓から覗き込んでいる。




 珪くん、今日は1限目あるって言ってたけど、
 ちゃんと起きて大学行ったかな……?
 昨日は遅くまでお仕事あったみたいだし、
 なんてぼんやり考えていると、頭の上から大きな声が聞こえた。



「ねーちゃん、朝からぼーーっとしてると、大学遅れるぞ!
 時間ぎりぎりになっていつも『うわーん、間に合わないよー』って
 大騒ぎするんだから……。まったくどっちが年上だか、わかんないよな!」

「もう! 尽のいばりんぼ! 何エラそうなこと言ってるのよ」


 そうやって、いつものように尽の頭を小突こうとして……、あれ? あれ!?



「尽、いつの間にそんなに大きくなったの!?」
「へへーん、ねーちゃん、今ごろ気付いたのかよ?
 イイ男の条件にはやっぱ身長も含まれるもんな。
 毎日飲んでた牛乳に感謝、感謝だぜ。
 ねえちゃんも今から牛乳飲めば、って、もう間に合わないかー」



 そう言ってわたしの頭を抱え込み、ゲンコツでグリグリする。


「ちょ、ちょっとやめてよ。何するのよ!」
「へへ、ねーちゃん、ほら」


 尽は少し赤い顔をして、わたしのマグカップに冷たい牛乳を注いでくれた。
*...*...*
 その日の夕方、わたしはたくさんの食材を買い込み、珪くんのお家に向かっていた。

 今まで何度もお邪魔していて、
 お茶を飲んだりお菓子を食べたりしたことはあったけど
 ご飯を作るのは初めてで、……ちょっと緊張、してる、かな?

 うう、上手くできるかな?おいしいって言ってもらえるといいんだけど…。


「ねえ、珪くん、……今まで夕食ってどうしてたの?」

 この前、大学の帰り道、思い切って聞いてみた。
 今まで一緒に遊んだ日なんかは、夕食を食べてから、じゃあまたね、ってことが
 多かったけど……、それは毎日じゃないから。


「夕食……? まあ、適当」
「適当? ……適当なんてダメだよう…。身体が弱っちゃうよ」


「……一人で食べても、つまらないし、な」
「……って、珪くん…・」



「おまえ、そんなこと気にするな」


 珪くんはそう言って、寂しいような、困ったような笑顔を見せるから、
 つい言ってしまったんだ。



「こ、今度、夕食デートしよ!」
「……ん?」
「わたし、今度、珪くんちで、夕食作ってあげる! ……えへへ、味は保証しないけど……」


「……サンキュ」

 珪くんは、嬉しそうに言った。




 で、今日に至るわけなんだけど……。
 自宅のキッチンとは多少勝手が違って、いつも以上に時間がかかってしまう。
 ……よし、出来た! これでいいかな?

 わたしはエプロンを取り、珪くんに声をかけた。



「えっと、お待たせしました!
 春キャベツのスープとトマトのサラダ、それとカルボナーラパスタです。
 ……どうかな?口に合うといいんだけど」


 ドキドキしながら珪くんの顔を窺う。


「ああ、うまいよ」

「あ、良かった! ……このスープはちょっと難しくて、尽に一度試食してもらったの。
 ……あの子ったら、まあまあじゃないか、なんて生意気なこと言うから少し心配だったんだ。
 ……ん、と、じゃあわたしもいただこうかな…」



「きれい、だな」



 珪くんは、テーブルに載っているお皿を見ながら嬉しそうに言う。

「そうだねー。とっても春らしい色合いだね……。
 ねえ、珪くん、知ってる?旬のモノを食べると、元気が湧いてくるんだよ?」
「……元気?」

「……そう。旬のモノには一杯生命力が宿ってるから。
 彼らが命を投げ出す代わりに、わたしたちに新しい命をくれるんだよ。
 ……だから感謝して食べなきゃ、ね?」
「おまえ、すごいな。
 俺、食べモノについてそんな風に考えたことなかった…」

「えへへ、ちょっとエラそうだったかな……。あ、冷めないうちにいただいちゃおう!」


 ちょっと恥ずかしくなって、慌ててフォークを動かす。


「……うん! おいしい!」
「おまえ、本当においしそうに食べるな。  見てるこっちまで幸せな気分になる……」
「……んん……?」

 口いっぱいスパゲティを頬張ってるから、上手く話せないよ…。
 仕方ないから目で訴えてみる。『幸せ……? そうかな?』


「そう」


 珪くんは笑いながら、わたしの横に来る。

「ほら……付いてるぞ」

 そう言って何でもないことのように、わたしの口の端についていた
 スパゲティのソースを、指ですくって口に入れた。



「け、け、け、珪くん!」
「……なんだ?」

「……えと、いきなり、は困る、よ」
「……困るのか?」
「困る、って言うか、困らない、って言うか、うう、…何て言ったらいいんだろう……?」


 珪くんは小さく溜息をついて、わたしの頭をそっと抱きかかえた。

「……いい加減、慣れろよ」

「うん……、そうなんだけど、そうなんだけど、ね!
 他の人に触れられても、全然ドキドキしないんだけど、
……珪くんに触れられると、ダメ、なの!」

「……ダメ?」
「う、うん…。恥ずかしいような、嬉しいような、……熱いような……」

 思わず口ごもっていると、


「……ふーん、俺だけ、なんだ……」


 ちょっと笑いを含んだ声が聞こえる。


「……わたし、今までこんなに人を好きになったことなんてなくて。
 ……もう、引き返せなくなりそうで……」

……」


「えへへ、……こんな自分がコワくて、ちょっと持て余し気味、なの」

 思わず涙がこぼれる。……泣くなんて卑怯だ、わたし。



、……おまえ、バカ。……本当にバカだ」



珪くんの腕に力がこもる。



「そんな繰り返し言わなくても……」
「コワがることなんて、ない」
「珪くん…?」
、……今すぐおまえを抱いてもいいか……?
 そんな不安がなくなるように…。もう、おまえが引き返さないように」







 ……どうしてこんなに珪くんのことが好きなんだろう?


 いつもいつも珪くんについて考えている。
 珪くんの腕の中で祈ってること、珪くんに伝わるかな?


 ……お願い、ずっと、この恋が続きますように……。
 会えない夜も、こうやってそばにいる日も。



 外は雨。

 珪くんの手は、優しい雨のようにわたしの身体を通り過ぎていく。

 春の雨が、大地の木々を芽吹かせるように、
 珪くんに抱かれて、わたしも少しずつ何かが変わっていくような気が、する。
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