*...*...* ソツギョウ *...*...*
 朝、眠い目をこすって、ダイニングに降りていくと、
 そこには窓からこぼれる朝日を見ながら、ぼんやりしてるねーちゃんがいた。

 ……ったく、しょうがないなあ。
 こんなんだから、出かける直前になると、

「うわあ、時間がないよう……。間に合うかな?」

 ってことになるんだぜ。


 俺がそうやって言うと、ねーちゃんは俺の頭を小突こうとして、
 ……いつの間にかねーちゃんの背を追い越した俺に驚いている。


 お返しにねーちゃんの頭をグリグリ〜、とゲンコツでイジめて、俺ははっとした。
 今まで俺より大きかったねーちゃんが、
 すっぽりと俺の腕の中に入っちゃったから。

 ねーちゃん、いつの間にこんなに小さくなったんだ?
 ……って言うか、ねーちゃんが小さくなるわけないから、俺がデカくなったのか。

 小さい、というか、その身体は華奢で、柔らかくて、暖かくて…。


「……尽?」
「な、なんでもねーよー」


 不思議そうに俺を見るねーちゃんの視線を避けるように、俺は牛乳を注いだ。





 で、いつものように、大学に行く時間になって。
 俺が出かけようとすると、後ろからパタパタ足音が聞こえる。
 そして、いつもの声。


「ごめん、尽!! やっぱり駅まで送ってって!!」


「え? またかよ? ……しょうがねーなー。ほら」

「……ん。ありがとう」

 俺の目を見て、まぶしそうに笑うねーちゃん。



 あ。……まただ。
 俺、ねーちゃんの表情一つ一つにはっとさせられる。
 おかしいよな。本当のねーちゃんなのに……。



 ちょこんと俺の自転車に横乗りになるねーちゃん。
 今までまるでおかっぱだった髪を今は前髪の部分だけ、
 小さなピンクのピンで留めて、真っ白な額を覗かせている。


「よし、行くぞ!」
「わわ、尽、ちょっとスピード出しすぎ!! ……これじゃ、コワイよ」


 俺の腰に回されたねーちゃんの細くてしなやかな腕。
 きちんと丁寧に塗られた薄い色のマニキュア。


 もっともっと俺に頼って欲しくて、俺はスピードを上げる。


「もう、尽ったら、スピード出しすぎ! 危ないよ、そんなんじゃあ危ないよ?」

 駅に着くなり、俺をたしなめるように口をとがらせて文句いうから、
 俺もムキになって言い返す。

「なにー、ねーちゃん、送ってもらっておいて、そんなこというのか?」
「う、ううん! ありがとう。尽くん! ……じゃあ、行ってくるね?
尽もちゃんと勉強するんだよ?」

 トンと自転車から降りると、ねーちゃんの白いフレアースカートが
 夕顔の花のように開いた。


 男二人連れが、そんなねーちゃんを見ながらボソボソ話しているのが耳に入る。


「あ、あのオンナ、いーじゃん、かわいーじゃん!」
「オ、朝からラッキってとこ?」


 今まで、あのコかわいい、って言うのは良く聞いてたんだ。

 なんてったって俺のねーちゃんだし。そういうの聞くの、鼻が高いって言うか、
 嬉しかったんだけど……。

 いつからか『あのコ』から『あのオンナ』になっちゃったんだな。
 俺は汚いものを見るような目で、その男たちを威嚇した……つもりだったけど、
 アイツらは俺に気づくことなく、駅の改札に飲み込まれていった。




####




 学校が終わって家に帰ると、部屋一帯にはプーンと良い匂いと
 かーちゃんとねーちゃんのにぎやかな声が聞こえてきた。



「ほら、、そこで、火を止めるのよ!」
「え、えと、……はい! ……こう?」
「そうそう」

「……ったく騒々しいなあ、何やってんだよ?」

「あ、尽、お帰りー。……今ね、春の新作に挑戦してるんだー。
 また尽に味見して欲しいな……。
 あ、その前にお部屋行って制服着替えておいでよ」


 明るい返事が返ってくる。……また、か。


 この頃のねーちゃんは、料理に凝ってるんだ。……理由は明らか。



 俺はゆっくりとトレーナーに着替えて、再びダイニングに戻ると
 ねーちゃんはとびっきりの笑顔で、いそいそと料理をテーブルに並べてる。



「じゃーん!! 今日は鶏肉の竜田揚げと、キャロットサラダ、だよ?
 このサラダ、ちょっとセロリが入ってるんだけど……、どうかな?
 このドレッシングならあまり苦味は感じないよね……?」



「…………」
「ね、どうかな?」
「……まあまあ、じゃないか?」
「んもう! 『まあまあ』なんて、生意気なんだから!」

「……で、また?」
「ん?」
「……また葉月に持っていくんだろ?」

「……ん。珪くん、一人暮らしでしょ……? 外食が多くて心配なんだ……。
 だから少しでもバランス良くなればって……」

 少し涙ぐみながら言う。
 そうなんだ。ねーちゃんは一人でゴハンを食べるのが大嫌いで、
 一人の時には何も食べないのを思い出した。

 きっと葉月が一人でゴハンを食べてる姿を想像して
 ウルウルきてるに違いない。



 なんかクヤしい。
 俺はいつも、ただの味見役、で。
 俺のことを心配してくれたねーちゃんは、もうどこにもいなくて。


「ふん、……ねーちゃん、おっちょこちょいだから、
 いつも葉月にメーワクかけてんじゃないか?」
「尽! ……そ、そんな」

 さっと目のふちに赤味が走る。


「じゃ、もう俺行くから」
「尽!」



 俺が部屋に入ってからまもなく、トントンと階段を上がる音、
 それに続き、ねーちゃんの部屋のドアの閉まる音が聞こえ、ダイニングは静まり返ってしまった。


 なに、イライラしてるんだろう。俺。

 ねえちゃんが葉月と付き合ってるのは知ってる。
 そして葉月がねーちゃんのことすごく大切に思ってることも。
 …デートの帰り、よく家まで送ってくるのを見かけるけど、
 男の俺ですら、こんなに大事にされるなら、オンナも悪くないな、って思うほどで。


 クヤしかったんだ、俺。

 毎日見てても、さなぎが羽化したみたいに綺麗になっていくねーちゃん。
 もう、俺のねーちゃんではなくて違うオンナの人になっちゃったようで。


 ふと小さかった頃の記憶が蘇る。
 一面クローバーの草っぱらにいる、俺とねーちゃん。

 黄色いチョウチョが珍しくてどんどん追いかけていくねーちゃん。
 全然追いつけない俺。
 俺が泣き出すと、一瞬残念そうにチョウチョを見送り、
 俺のところまで飛ぶように戻ってきて、俺が泣き止むまで
 頭をなぜつづけてくれたねーちゃん。

 あの時はチョウチョよりも俺を選んでくれたけど、
 ……今度は?
 今度こそ、チョウチョを選んで行ってしまいそうな気がする……。



「トンッ」

 と遠慮がちなノックの音。



「……誰?」
「あ、わたし……。


「えと、尽……。ごめんね?」
 遠慮がちに部屋に入るなり、ぼそぼそと言いはじめる。

「なに謝ってんだよ?」
「……ん、朝のこと、とか。
 ……これからはちゃんと早く起きて大学行くね!」

 ちょっとズレている気もするが……。

「そんなこと怒ってんじゃねーよ」
「じゃあ、どうして……? この頃の尽、おかしいんだもん。
 急に真っ赤になったかと思ったら怒り出しちゃったり」

 うつむきながら一生懸命話すねーちゃん。

 俺はなんて言っていいかわからずに、黙り込んでいると、

「あ、じゃあじゃあ、サラダがとっても苦かった、とか!?」

 って見当違いのことを言うから更に呆れてしまう。


 こんなにキレイになって、ズンズン大人になっていくのに、
 ……鈍いところは相変わらずなんだな。

 俺はいきなり、うつむいているねえちゃんのおでこをツン、と小突いてやる。


「……イったーい! 何するの?」
「へへーーんだ。ぼっとしてるからだよ。
 俺、怒ってなんかいないから、安心しろよな?」

「……うん、……あはは。いつもの尽だー。
 じゃ、わたし、行くね? ……勉強わかんないところあったら、言うんだよ? また教えてあげるから」
「なに言ってんだよ。この前数学の問題間違えたくせに!」
「あ、あれは! ちょっと計算ミスしただけ、だよ!」

「相変わらずのおっちょこちょいだなー。中学の問題を間違えるなんてよ」
「でも! ちゃんと一流大学入れたんだもん」

「はい、はいっとー。……じゃ、俺宿題あるからさ、
 ねーちゃんも自分の部屋行った行ったーーっと」



 ツッパリー、と、言いながらねーちゃんの背中を押しつづけ、
 俺は部屋に一人になり、溜息をついて天井を仰ぐ。




 ねーちゃんが高校を卒業したように、
 ……俺もねーちゃんを卒業する日がきたのかもしれない。





####





 次の朝。

 廊下越しのねーちゃんの部屋から、
 いつもより1時間も早く目覚まし時計の音が聞こえた。

 俺はベットから起き上がると思い切り伸びをして窓の外を見る。

 うん、今日もいい天気だぜ!


 俺はベットから降りるとねーちゃんを大学に送るため、
 いつものようにダイニングに向かった。
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