背中がひりりとするような暑い日差し。
 砂浜に落ちる濃い色の影。
 あれから何日が経ったのだろう。
 覚えてるんだよ、ちゃんと。
 ちょっと遠くから見る海岸線の高さも。境界が曖昧になっている地平線と海のラインも。
 おどけたように、空間を取り持つ尽の笑い声も。
 けど、どうしてかな。
 
 ね、珪くん……。
 わたし、珪くんの顔だけが思い出せないよ。
*...*...* Far away〜After the "Departure"〜 #1 シンジルコト *...*...*
「ねえちゃん。おい、ねえちゃんったら起きろよな? おい、ねえちゃんっ。明日だろ、葉月がニューヨークに行っちゃう日。なんのために俺がこーーんなに看病したと思ってるんだよ。ちゃんと葉月のこと、見送ってやれるようにって気回してたのに。俺の努力、無駄にするのか?」
 
 口調は乱暴なものの、ベットの上で上体を起こしたわたしの体調を伺うように、尽はあちこちに視線を這わす。
 
「ん……」
「べっつに、葉月はニューヨークに行ったら勉強に集中したいから連絡しない、って言っただけだろ?なにも今、日本にいる間も会わないって言ってるわけじゃないだろ? あと1日しかないんだぜ。葉月がこっちにいる間に会っておけよ、な、ねえちゃん」
 
 わたしが寝ているベットの脇に来て、行ったり来たりしながらさっきから同じことばっかり繰り返してる。
 優しい言葉なんてちっとも言ってないのに、心配が口数の多さになってあらわれてる。
 
 ……尽、優しいね。
 
 そっか。尽、おかあさんにも内緒で、病院にも付き添ってくれて、それからずっとなにくれとなくわたしの面倒を見てくれてたっけ。
 
 この前、海で見たときはビックリした。尽、珪くんと殆ど身長が変わらないんだもん。
 声は男の子らしく声変わりしたけど、軽快な口調は昔と変わらない。優しいところも変わらない。
 
 でもわたし、知ってるんだよ。
 いつも、
 
 『ねえちゃんがイチバンだからよ』
 
 なんて照れた顔で笑うけど、クラスメイトの女の子からしょっちゅう電話がかかってくること。
 どの子に対しても持ち前の優しさで、親切にしてあげてること。
 
 ……大好きだよ、尽。わたし、尽と姉弟になれて良かった。兄弟がいて、良かった。本当にそう思ってるよ。

「……尽、いいオトコになったね。もう『いいオトコチェック』は必要ないかも」

 真顔でぽつんと漏らすと、尽はわたしの顔を嬉しそうに見つめて笑った。

「今更、気付くなんてさっすが俺のねえちゃん。遅すぎだよ」
*...*...*
 あれから毎日のように、日によっては1日に数回も珪くんから連絡があった。

 どうしてるのか、元気なのか、一度どうしても会いたい、と。会って話がしたいのだ、と。
 でもわたしはそのたびに、煮え切らない返事で直接会うのを引き延ばしていた。

 ── まるで別れを切り出されたときみたい。

 そんな風に思う自分がとてもキライで、泣きたくなる。

 約束をして、家を出る。お気に入りの服を着て、目的の場所に行く。
 そんな心躍るハッピーな手順をもう、数え切れないほど珪くんと一緒にしてきた。
 晴れ着の日も、浴衣の日も。この前はお気に入りのプリーツのミニスカートを着て行って、ちょっとだけ怒られたっけ。あまり他のヤツに見せるなって。

 けど。

 会ったら泣いちゃうってわかってる約束を、どうして取り交わすことができるだろう。


 ねえ、わたし、バカだよ。自分がこんな弱いなんて知らなかったの。
 珪くんのこと、信じてる、って言ってた少し前のわたしがひどくうすっぺらく見えるの。
 どうして、信じてる、って言えないのかって。 私。待ってる、って言い切れないのって、自分をなじりたくなる。


 メールや電話。一番大事な、珪くんの存在。それがわたしの生活から消えても、日本になくても、ずっと待ってるって。
 信じることを疑ったコトなんて、今までなかった。
 どんなものも、努力すれば報われる! というのか、脳天気なわたしはそう信じて疑ってなかった。ずっとそうだと思ってた。

 けどね、それは愛することの大きさを知らなかったから。
 一人の人を、珪くんっていう人をこんなにも愛したことがなかったからなんだ、って気づかされた。

 いつもいつも一緒にいた。高校1年から考えてたった6年。わたしの人生の約4分の1。少しの時間って思うかもしれない。
 けどそうじゃないんだもの。考えること、思うこと、話したいと思うこと。それはすべて目的語が同じなんだよ、全部『珪くん』なんだもの。連絡もずっとずっとなし、で。いつ帰れるかわからない、って……。


 わたし、今のままのわたしで待っていること、できるかな。
 疑り深い、イヤな女の子になってないかな。
 珪くんが帰ってきたとき、今のわたしより、素敵な女の子になれてるかなあっ。


 どうしたらいいのか自分でもわからないの。
 珪くんのこと、おめでとう、行ってきてね、って笑顔で祝福する気持ちより、
 淋しくって泣いちゃう気持ちの方が大きいの。不安の方がたくさんなの。

 きっとね。
 珪くんの家はいつもにましてすっきり整頓されているはず。そしてね、必要な荷物はもう配送済みで。珪くんは、いろんな手続きで忙しいはず。

 この前、海で会って、夜も、朝も、その日の夕方まで一緒に過ごして、家に帰ってくるまで。ピンと張り詰めて、張り詰め過ぎて。家に帰って倒れてから、なかなか元に戻れない。
 ……こんなわたしじゃ、とても珪くんにガンバレエールなんて送れない。

 なかなか、会えない。

 (……自分じゃないみたい……)

 わたしはパジャマの袖から出ている細くなった手首をさすった。
*...*...*
 明日は出発、という日。

 (俺の決心は間違ってたのか)

 荷物の整理をしながら、ニューヨークで世話になるゴルド先生にも電話で連絡を取りながらも、俺は落ち着かなかった。ふと気づけば、やることはたくさんあるのに、ぼんやりと航空チケットを眺めてばかりいる俺がいる。

 あの日以来、は電話をすれば、元気な声で返事をくれる。でも何度誘っても決して俺に会おうとは言わなかった。

『忙しいだろうから、身体大事にして? ニューヨークで体調崩したら大変だもの!』
『会えないのか?』
『ん、ちょっと……』

 いつもは会えないなら会えないで具体的な理由を言うのに煮え切らない返事が返ってくる。

 『会いたい。おまえ、この前、再来週は一緒に映画観に行こうって言ってたよな。空いてないのか?明日』

 たたみ込むように尋ねる。あの日を家に送って以来、話をしてても突然のようにぱたぱたと理由をつけて電話を切るんだ、あいつ。

 『あ、ごめんっ、ちょっとおかあさんが準備があるってキッチンで呼んでる、から……っ』
 『夜の11時過ぎて、か? ……ウソつくな』


 電話口で息を飲む声がする。


 イライラ、する。


 こんな状態にを追いやったのも自分なら、そんな状態のにさらに拍車をかけて酷いことを言う自分に。

 全部、わかってる。思い上がりでも何でもなくて、きっと、おまえ、俺に会いたくないんじゃなくて、俺に顔、見せたくないんだろう。

 泣き疲れた顔、を。

 しっかりしてるくせにおっちょこちょいで。
 人前で俺が触れると思い切り恥ずかしがるくせに、ふたりきりになるとふにゃっと俺に身体を預けてくるヤツ。抱くたびに愛しさが募るヤツ。そのうち抱いているのか抱かれているのかわからなくなるほど、安心できる、ヤツ。

 (ここまでして何になる?)

 手元にあるニューヨーク行きのチケットを眺める。

 おまえとの未来の前に、おまえとの今の方が大事なんじゃないか。

高校時代、おまえがゲームセンターで言ってた、赤い糸の話を思い出す。

 『切れないように努力するもん! 珪くんとずっと一緒にいられるように』

 とびきりの笑顔で俺を見上げるおまえ。
 ふうん、としか返事ができなかった俺におまえは、わ、珪くん、余裕なんだ〜、なんて悔しそうに言ってたな。
 違うんだ、
 おまえに関することで俺が余裕を持ってたことなんて何一つなかった。
 あのときなにも言えなかったのは、繋がっている、と思ってくれているおまえの気持ちが嬉しかったから。
 今も、そしてこれからも継続していくんだ、と、自分の目の前の真っ白な道がどこまでも続いていくんだ、と信じることができたからなんだ。


 でも、今はどうなのだろう。

 このまま、俺がニューヨークに行ってしまったら、もう……。
 今ようやく繋がっているこの糸まで、やがてクモの糸のように透明になって、細くなってやがて風に流されて、空に消えてしまうのだろうか?


 (埒があかない)


 一度、会っておきたい。目に頭に、記憶させたい。あいつの顔も、身体も。纏ってる空気も、髪の毛一本の匂いまでも。そのことでこれから先、ずっとあいつに責められるとしても。


 見ておきたい、感じておきたいんだ。おまえを。


 グシュ、と鼻をすする音が耳元でする。今、電波を通して、繋がってる。
 ……今、確かに繋がっているんだ、おまえと。
 
 ケータイを肩に挟んで家の鍵を探す。
 このまま家を飛び出して、チケットなんて放りだして、真っ赤な目をしたおまえを連れ出してしまおうか。


「……泣くな」


 もう、待てない。
*...*...*
 結局との電話を切ったあと、見透かしているかのように鳴り響いた事務所からの電話の対応で、家を出たのはあれから20分後だった。
 カギとケータイだけ持って、門を出る。

 暗闇の中、あいつの顔を思い出す。でも何度リセットしても、の笑ってる顔だけが俺を元気づけるかのように思い浮かぶ。

(どうして言ってくれない?)

 ツラいのだ、ということ。悲しいのだ、ということ。
 叩いてくれていい、なじってくれてもいい。それを受け止めるだけのチカラもないと思われているのか、俺は。

 はいつだってそうだ。
 なんでも楽しそうに話す。ときどき、俺が眠りに誘われるくらいのゆったりとした心地よい速度で話す。笑いながらいろんなことを俺に教えてくれる。それを聞くたびに彼女の考え方を面白い、と思う。ヒカリが入り込んだような気分になる。

 けど。

 自分の痛みは背負い込む。絶対言わない。笑い飛ばす。
 でもふっと緩んだ表情を見ると、目が泳ぐからすぐわかるんだ。

「バカだ、おまえは……」

 いつだってそう。俺に心配かけまい、とするその頑固なまでの姿勢。

 (痛い)

 胸の奥が締め付けられるような気がする。それはこの2週間、いや、3ヶ月以上もずっとずっと感じていたこと。こうなることはわかってた。予想、していた。


 好きなヤツを傷つける。それも自分が原因で。
 泣かせる。……俺が。


 ── いっそ俺の身体を傷つけてもらった方がどんなにかラクだろう。


 身体を傷つけるのは簡単だ。そこのナイフなりなんなり皮膚を切り裂く道具があればそれでいい。あとは勝手に汚れた血が噴き出すだけの話。
 ……でも、心は?
 切り裂く道具もなければ、汚れを流す方法もない。

 ましてやそれが自分の思いのままにならない、の心だったら。



 許してくれとは言えないけど、会えば、一目見れば……。抱きしめれば。
 は納得してくれるのだろうか?


「ん?」


 ふと遠くでかすかに『キィ』と金属がこすれるような音がする。

 それはだんだんゆっくりと規則的にこちらに近付いてくる。
 真夏とはいえ、こんな時間に、と道の向こうに目を遣る。目をこらす。
 ……自転車? 男……? 薄暗い街灯を通り抜けて、すっと影が足元まで伸びてくる。


「……尽!?」
「……っとっ〜〜、お届け物です〜。ちぇ、もっとカッコよく車かバイクで登場したかったぜ」
「おまえ……」
「あっ、これ、ナマモノだけど全然オッケイ! 2週間近くネカせておいたけど、まだ賞味期限内なのでご安心を、ダンナv」
「も、もうっ、尽、なに言ってるの〜〜っ」


 尽の大きな背の後ろから、恥ずかしそうな声がする。白い腕がそっと尽の腰を外れて荷台から降りる。
 暗がりでもはっきりとわかる、赤い頬。


!」


 腕を掴んで抱き寄せる。
 そのたとえようもなく軽い感触。薄い肩。手を乗せた時、コツっと当たる背骨に驚く。
 ……おまえ。


「珪くん、ごめんなさい。こんな時間に……。明日出発だっていうのに……」


 どんな思いでこの2週間、過ごしてきたんだ?


「……心配、させるな」

 必死に額を擦り付けてくるを腕に囲う。
 尽はいつになく真剣な顔で俺との表情を見つめている。

「な、葉月。この前、海行った時、葉月、俺に言ったよな。『ねえちゃんのこと、頼む』って」
「あ、ああ……」
「だから俺も葉月に同じこと言うぞ。……ねえちゃんのこと、頼んだからなっ」

 とよく似た瞳が暗闇の中チカリと光る。
 大きく膨らんだ、と思ったら、それは頬をさらさら伝っていく。

「あのな、どんな思いでこの2週間、ねえちゃんが過ごしてきたと思ってる? 知らないだろ。葉月、おまえ、電話しか寄こさなかっただろっ」
「ダメ、言っちゃ、ダメなの、尽っ」

 必死に顔を尽に向けては言い返す。
 でも、身体は頼りなく俺の腕の中に入ったままだ。

「ねえちゃんはな、ねえちゃんはっ……っ」

 ぐっと握った手にチカラが入る。震えているのが見える。その大きくなった拳を見ながら思う。
 いっそ殴ってほしい。
 そしたらそこから流れる血がほんの少しでも俺の心を軽くしてくれるかもしれない。

 が必死な顔して俺をフォローしている。

「尽……。わたしね、自分の意志で、珪くんに会わなかったの。だから、珪くんが電話しか寄こさなかったっていうのは間違いなの」
「ねえちゃん……」
「ごめんね、尽……」

 は今にも泣き出さんばかりに必死な表情で尽を見上げている。
 尽はなにかを感じ取ったのだろう、握り締めていた手をゆっくりと解いた。
 そして言うことを諦めたようにがっくりと肩を落として、ハンドルを握り自転車の向きを変える。

「尽……」

 こんなとき、どう言えばいいんだろう。

 今、腕の中に恋い焦がれていたものがある。確かに息づいている。

 『ありがとう』の言葉では足りない、と思うとき、それ以上の言葉を俺は今まで知らなかったことに気づく。知らなくても、今まではそれで良かった。伝える事象も、伝える相手も、以外に俺にはなかったから。
 そしては言わなくてもいつも敏感に察してくれてたから。
 でも、今は?

「感謝、してる……」

 それでも、思いついた一番最初にある言葉を投げかけると、尽はピクっと肩を振るわせた。
 無言の言葉がじんわりとした風に乗って尽の思いを伝えてくる。それはやがて小さな音とともに暗闇に紛れて見えなくなる。

 俺はゆっくりと腕を解いて、尽の届けてくれた最愛のものを見つめる。


「や、見ないで……」
「ちゃんと見せろ」


 俺はの両頬を手のひらで包んで顔を上に向けると、噛みつくようなキスをした。


 ── それが、始まり。
 俺の中で引き金が引かれた。
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