*...*...* Beginning *...*...*
 夏休みが終って、10日程たった日の放課後。

 暑いなあ。

 わたしは自分の周りの熱気だけでも拡散するように、とぱたぱたと下敷きで顔を扇いだ。  なんだか1日中クーラーの中で涼んでいた夏休みよりも、 やたらと残暑が厳しいような気がする。
 暑い、ん、だけど。

(…………)

 わたしは、ちらりと斜め後ろの席を振り返る。

 ――まだ寝てる。

 この教室は窓のすぐ横にすずかけの木があって、それが午後には心地好い日蔭 と風を作るんだけど、その分セミの鳴き声は凄まじい。
 こんな喧騒の中、なんて気持良さそうに寝てるんだろ? 葉月くんは。
 全然汗もかかないで。そりゃもう幸せそうに。

 (もう少し、待ってみようかな?)

 夏休みが終って、日焼けしたクラスメイトの顔はどれもみんな誇らしげで。
 この夏の思い出がいっぱい詰まっているような朗らかな笑みで溢れているのに。

 ――葉月くんだけは、夏休み前と変わりがなくて。
 室内では青白く見えるほど、白い肌。
 まるで成長することを拒否しているような、ほっそりとした脚。


 あ、そんなにじっと見てたら、ダメ。

 なにか理由があって、教室に残ってるようなカンジにしたいんだもん。
 絶対、に、葉月くんが起きるのを待ってたなんて、葉月くんに気づかれたくない!


 わたしはくるりと自分の机に向き直ると、今日出された数学の宿題を始めた。


 しばらくして、西の窓から、オレンジ色の空気が入り込んできたころ。
 ふいに、かたんと机が床を滑べる音がして、かすかに身じろぎの気配がした。
 あ、葉月くん、起きたのかな?

 わたしは数学の宿題の以外にもリ−ダ−の予習までできていて、妙に弾んでた んだと思う。
 開いていたノートを勢いよくぱたんと閉じると、わたしは葉月くんの方に身体を向けた。

「おはよう。……起きた?」
「あ、俺、……寝てたのか? 今何時だ?」
「えっと、んー。4時半を少し過ぎた、かな?」

 よく寝たな、と、葉月くんは眠そうに目の縁をこすると、

「おまえはなにやってるんだ?」

 と訊いてきた。
 な、なに、やってる、って……どう言えば、いいんだろ。

「あ、あの……!」


『待ってたの。一緒に帰ろう?』


 そんなこと、言えるわけもない。言える関係でもないんだもの。

 でもこの夏休み、ぎこちないながらも何度か一緒に遊びに出かけたりして、た まに見せてくれた葉月くんの優しい表情に、すっかり舞い上がっていたんだ。

 ――この時までは。


「ね、葉月くん、……今度の週末、ね、映画、観にいかない?」

 なんて。
 いつものわたしならとても言えないようなこと、さらりと言ってた。

「映画?」
「そ、そう! まだ、暑いからねー。涼しいところがいいかなって」

 わたしは椅子から立ち上がると葉月くんの机の前に立った。
 うう、わたしチビだから、座ってる葉月くんと視線の高さが同じ、なのね。

 彼は長い脚を面倒くさそうに組み直しながら、わたしを見つめた。
 その視線はわたしを通り抜けて、もっと遠くを見ているようで。

「なあに?」

 うしろになにかあったっけ?
 葉月くんの視線を追ってわたしもうしろを振り返ると。

 ……そこにあるのは黒板だけ。
 よく見ると、右端に『数1P68』ってぶっきらぼうな文字が踊っているけど。
 まさか、これを見てるんじゃないよね?

「んと……?」

 首をかしげながらまた葉月くんの方を振り返る。
 すると。

 彼は眉をひそめてこう言ったんだ。


「……悪い」



(あ、あれ?)


 一瞬、ピンポン玉ぐらいの大きさの、熱いカタマリを飲み込んだかと思った。
 それは当然ながらうまく嚥下出来ずに、わたしの胸のあたりで止まる。


(――痛い)


 ……なに、これ……。

 葉月くんに断わられるだけで、こんなにも胸が……痛い?
 わたしはこんな感覚を今まで経験したことがなかったから、この痛みがなんな のかを確かめる前に、わたしの口は勝手に『逃げ』の体勢を作っていた。

「そ、そっかー」

 わたし、ちゃんと笑えてるかな?
 いつもどおりの、よく奈津実ちゃんに言われる、幼い(奈津実ちゃんたら、『幼 い、っていうか、……ガキ?』なんて失礼なこと言うんだよ?)なにも傷ついて いないような表情(かお)で。

 ヘンなの。
 この前、校門でばったり姫条くんに会って、一緒に帰ろうか? って話になって、

ちゃん、悪ぃ。これからバイトがあんねん』

 って言われたときは、……あれ? どうだったけ?
 ……なんにも憶えてない。
 確か、

『ふ−ん、じゃあ、また今度ね』

 って、にこにこ笑ってたような気がするのに。


「……ん、じゃあ、また明日ね? 葉月くん」


 わたしはバタバタと自分の席に戻ると、通学カバンを手に取った。

「あ、おい、待てよ、
「ごめんね、急ぎの用事、思い出しちゃったの! 尽絡みの。あの子、約束破る とうるさいから」


 なんか、ヘタ、な言い訳。

 なにしろ『映画、観にいこう?』なんて言いだしたのもいきなり、だったから、 断わられたときの返事、なんて、全く準備してなくて。

「じゃあね! 葉月くんももうそろそろ帰らないと、お母さんに叱られるよ?」

 なんて、これまた余計なことを言いながら、わたしはガタガタと机をかき分け て教 室を出た。
 その時、目の端でとらえた葉月くんは。

 ――ひどく不機嫌そうな表情(かお)をしてわたしのことを見ていた。


(そんなに、イヤだったのかな)

 映画、が、イヤなのかな。
 突然誘った、その誘い方がイヤだったのかな。

 それとも。
 わたし、のことが、イヤなのかな。


(――痛い)


 どうして?
 どうしてわたし、姫条くんの時のように笑い飛ばせないんだろう。

『じゃ、また今度ね?』

 って、屈託なく言葉がつなげないんだろう……。
*...*...*
「ただいま〜」

 キッチンにいるお母さんに声だけの帰ったコ−ルをして、わたしは自分の部屋 に閉じこもる。

 さっきまで。
 ふくらんでふくらんで、自分の中には納まり切らないと思っていたうきうきし た感情は今はどこにもなくて。
 思うのは、

『わたしなにか嫌われることしたっけ?』

 そればっかり。


 ――わかんない。
 夏休み、何度か会ってたときに、
 わたし、自分でも気付かないうちに彼の気に障ることをしたのかな?
 やっぱり、さっき、突然誘ったのがいけなかったのかな?

「わかんないよーー!」

 制服がしわくちゃになることも気にしないで、わたしはベットにころんと横になった。


 一体、なんなの? あの人。

 ちょっと親しくなれた、と思ったらすぐ一線を引くような態度に戻る。
 たまに出る褒め言葉(……なのか?)は、

『ヘンなヤツ』

 だったりする。
 せっかくお気に入りの服を着て行っても、

『いいな、それ』

 だし。
 ……あの、どこが、どんな風にいいのか、わからないんですけど。


(じゃあ、やめれば、いいのに)

 もう1人の自分がつぶやく。

『モデルなんかやってて、テングになってるんだよ。お前たちとは人種が違うっ て、調子ついてるの!』

 以前、奈津実ちゃんがしかめっ面でぶうぶう言ってたっけ。


「そうだよっ。葉月珪!! テングになってるんじゃないわよーー!」

 わたしは、すくっとベットから起き上がると、思いきり悪態をついて……。
 はっとする。


 葉月くん、そんな人じゃない。

 一緒に歩くとき。
 カバンを外側に持ち直してくれるのも。
 なにげなく、車道側に移動してくれるのも。
 少しだけ前を歩いて、日差しを避けようとしてくれるのも。

 歩くときだけじゃないんだよ?
 ほかにもね。いっぱいあるんだから。(なんかわたし、誰に対していばってるんだろ?)

 いつも、葉月くんは。

 言葉なんか使わなくても、
 わたしの中にじわりとくるなにかを伝えてくれる。
 言葉じゃ、なくて。
 なんだろう?

 態度、かな? 空気、かな? ……温度、かな?

 ……んー。どんな言葉、もしっくりこないけど。
 とにかくね。

 そのなにかが、わたしにとって、全部、すごく、嬉しかったことも。

 わたし、分ってるんだ。



 ね、葉月くん、……知りたいよ。

 葉月くんに拒否されて、こんなにも痛い自分のキモチが。
 葉月くんの悪口を言うと、即座にそんなことない!! って懸命に否定してる 自分のキモチも。


(ったく、面倒だね。止めちゃえば?)

 もう1人のわたしが、やたら強気になって言い募る。

「やだ!」

 わたしも泣きながら、言い返す。

 わたし、もう。
 止めることなんて、できないよ。


 好き、ってキモチが。
 ――動き出しちゃったから。



「?」

 突然、通学カバンからふるふると音楽が聞こえる。

「あれ? 鳴ってる?」

 奈津実ちゃんかな?
 こんな気分の時に、明るい話題の電話はツラいなあ。
 一生懸命話題についていっても、

『あ〜? 、なにかあったでしょ? ほら、奈津実ね−さまに話してごらん』

 ってすぐツっこまれちゃうんだもん。
 自分でも上手く説明ができないものを、いくら仲良しな友だちとはいえ伝える 自信なんて全然ないよ。

「はい〜、っと」

 ケ−タイを取り出し、液晶画面を見て更に驚く。

『葉月珪』

 って。

 あ、あの、葉月くん、だよね?
 葉月くんが、電話?

 わたし、なにか教室に忘れ物したんだっけ?
 それとも『もう誘うな』って言われちゃうのかな。
 考え出したら、イヤなシチュばかり想像できてわたしはさらに落ち込んだ。

 けど、早くしないと電話、留守電になっちゃうし。
 エイっと、わたしは息をつめて通話ボタンを押す。

「は、はっ、はいっ!」
「……おまえ、ずいぶん勢いよく電話出るんだな」

 おもしろくてたまらない、とでも言いたげな声音。

「そうなの! この元気を先着1名サマにプレゼント中だよ〜! 葉月くん、どうかな?」

 そう言うと。
 俺は遠慮しとく、って、かるーく流しながら、葉月くんはぼそっと小声で言った。


「……さっきの、悪い」

 さっき、の、か。

 その言葉で、わたしは教室での葉月くんの表情を思い出す。
 ちくっと胸を刺激する痛みを無視して、わたしはわざと元気な声を出した。


「ん? あ、いいよ! わたしが突然誘ったのが悪かったんだし……」
「悪くない」
「へ?」

「おまえ、悪く、ないから」

 一言一言、区切るように言ってくれる。


 これ、なんだ。

 口数は少ないけれど。
 たまに出て来る言葉は、???な時もある(多い?)けど。

 暖かいんだ。カレの言葉は。


「その代わり、……来週は空いてるか?」
「どうして、誘ってくれるの?」


 意を決して訊いてみた。

 多分。
 返ってくる答えは、理解不能。

 けどね、きっと、暖かいんだよ。


「……誘いたかったから」


 ほら、ね?

 そんなの、誘ってくれたときに、分ってる。
 誘いたくなかったら、誘わないでしょ?

 でも。
 ―-こんなにも、暖かい。


「えへへ……。ありがとう」

 そう言うと。
 鼻をズズっとすすった音が聞こえたのか、

「ヘンなヤツ。どうして泣いてるんだ?」

 と呆れた声が聞こえた。
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