*...*...* Dear place *...*...*
校舎から見る空は、あっという間に真っ黒な帳(とばり)が落ちてきて。こう、陽の差す時間が短いと、なんだか人生まで短くなっちゃうようなそんな気がする、冬の日。
放課後、わたしは誰もいない教室の中をくるりと見渡しながら、ふと、隣りの机に目をやる。
(珪くん……)
ガタガタと歪んでいる机が多い中、珪くんの机はそこにいるのが申し訳なさそうに、
きちんと、そしてひっそりとしているように見える。
そして他の子と違って、部活用の着替えだとか、小さなカバンとかは何一つぶら下がってなくて、
とても清潔そうなカオをしてそこにたたずんでいる。
まるで珪くんみたい、と、そう思って、わたしはいつもみたいに笑えないのに、気づく。
この頃、こんなことがよくある。
笑うという行為が口の微笑だけで止まってしまうような、そんな感じ。
おかあさんも、
『……。受験が近いから、カリカリしてるのかしら?』
なんて眉をひそめてるの、知ってる。とても不機嫌な小動物みたいだ、って。
そんなこと自分でもよくわかってる。そして、その原因は、この机の主だってことも。
出会って、彼の無口さが、とてもとても気になった、1年。
目が離せなくなって、断られてもメげずに誘いつづけた、2年。
普通のクラスメイトより、少しだけ、少しだけ、近づけたかな、と思えた、3年。
そして、今、3年の冬。
……気が付いたらそばにいてくれるのが、当たり前になってて。
そばにいてくれると嬉しい。
でもそばにいてくれるとこんなにも、苦しい。
これが、『恋』って感情なんだ、って、
わたしは情けないことに、奈津実ちゃんにびしっと指を突きつけられて、ようやく気づいた。
『まったく、は鈍いからねえ〜。こりゃ葉月も大変だっちゅーの』
『に、鈍くないようっ! わたし、こんなにっ……っふがっ』
『シッカリ者だ、って言いたいんでしょ? ったくもう』
奈津実ちゃんは、笑いながら突きつけた指を手の平に変えてわたしの口を覆った。
そして、ちょっと声のトーンを落としてわたしの目を覗き込む。
『それが、『恋』、なんだよ』
不思議なもので。
自分の中で曖昧になっていた感情、それは自分では収拾つかないくせに、
人に言われると、そのコトバはまるで意思を持つ魔法みたいに、わたしの思考を理路整然としていく。
好き、なんだ……。きっと。
わたしは珪くんが好きなんだ。
もっともっと近い存在になれたらいい、もっと珪くんのこと、知りたい、って。
―― そう、思って、る。
んだけど、な……。
そこでわたしはため息をつく。
(泣けたら、いいな)
わたしは今日立ち寄ったコンビニで見た、なんでもない場面を思い出す。
お菓子が欲しいと、全身の力で泣く男の子。
その子のママは困った顔して。
しょうがないわね、とくりっと頭を撫ぜると、目的のモノを彼の手に持たす。
そのとたん、キラリと笑ったその子は、スキップしながらレジへと向かう。
……そんな後姿を見ただけで、またわたしの瞳はCMで見かける仔犬みたいに濡れるんだ。
あんな風に泣けたら。
あんな風に、自分の感情のまま、行動できたら。
欲しいものを欲しいと言える、叫び続ける強さがわたしにあったら。
……いいのになあっ。もう!
「……った」
ううっ。
見ると力を入れすぎたのか、手にしてたシャーペンの芯が折れている。
それはどうやら、わたしの頬を掠めていったみたいで。
わたしは机の中にあった小さな鏡を取り出して、少し赤くなったそこを擦った。
ふと見ると、眉間にも小さなシワがあって。
そこも、労わるようにそっと撫ぜてみる。
ココロの中にあるモヤモヤも、
こうやって直接触れてほぐしてあげることができたら、少しはラクになるのかな。
きっと、ね。
きっと、誰もが思ってる。
自分の存在の意味。
―― 誰かの一番になれたら、いいな、って。
わたしは、いつもわたしの周りにいてくれる友達を思い浮かべる。
奈津実ちゃんは、……姫条くん、でしょ?
お似合いなんだよね〜。奈津実ちゃんと姫条くん。2人で話してると、すぐに人の輪ができるから、一目でわかるんだ。
たまちゃんは、あの、バスケ少年の鈴鹿くんだし。その一生懸命さがオンナのわたしから見てもまぶしいぐらいで。
ミズキさんは、『あなたにだけはミズキの秘密、教えてあげる』なんて、カミングアウトしてくれるし(笑)。
(って、教えてくれなくても、バレバレだったんだけど、ね)
わたしはそのときのことを思い出して、くすくす笑う。
みんな頑張ってるんだよね。
(誰かの唯一になるために)
頑張って。
切なくなって泣いて。嬉しくなって笑って。
昨日より今日、今日より、明日。女の子はみんな恋をしてキレイになってく。
でも、わたしはズルいんだ。
珪くんの唯一になりたいくせに、唯一になるための行動をしてないんだもの。
精一杯の勇気を出してぶつかったとき、の、砕ける瞬間とか。
せっかくこの3年で積み上げてきた、友達のラインが消えることとか。
得るモノ以前に、失うモノの大きさに、眩暈がする。
「やっぱり……コワいよ……」
自然に出た言葉の温度が、自分のものじゃないみたいで、ちょっとびっくり。
コワくて。
―― 珪くんの前にいると、必要以上におどけちゃう自分がいる。
(って、そんなわたしに、奈津実ちゃんは『そういうとこ、アンタらしい〜』ってまたからかうんだよね……)
わたしらしい、か。
その言葉に誘われるようにして、わたしはそっと机の上に頬をあてた。
それはこっくりとした色の木製品で、いつもはとても安心するぬくもりを与えてくれるもの、のはずなのに、
今はこの季節同様冷たくて。
わたしはまた泣きたくなった。
珪くんを、ずっと……。
好きでいさせてほしいな。
ちっぽけなことなの。
わたしの視界のどこかに珪くんがいることとか。
わたしの視線の先に、珪くんの背中があるとか。
そんなことでいいから。それ以上は望まないから。
なんて考えて、わたしはまたため息をついた。
―― こういう考えを『独りよがり』っていうんだろうなあ。
珪くんの気持ちが知りたい。
でも、それを尋ねる勇気も自信もない。
堂々巡りのわたし。
それをおかあさんに当たるなんて、間違ってるよね。
小さなため息でいっぱいにして、今日も1日が終わりそうだよう、これじゃ……。
でも。
こうやって期待と不安の中でふわふわと立ち止まってるわたしは、
昨日より今。
―― よりわたしの求める場所に近いのかな?
「ん〜。帰ろっかな」
こんな日は場所を変えて、気分も変えて。
あ、尽がお奨め、って言ってた、オープンしたてのケーキ屋さんに行って、
おかあさんの大好きなケーキ、買ってってあげよう。
きっと、おかあさんの顔見たら、『ごめんね』なんてしおらしいこと、言えない。
けど、マスター仕込みのとびきりのコーヒーを淹れて、一緒にケーキを食べよう。
そしたら、少しはココロの中のシコリも溶けていくよね。
わたしはカバンの中からごそごそと真っ赤なサイフを取り出して中身を確認する。
ん。アルバイト先のペイディが先週だったから、まだ、お小遣いはいっぱいだ。50リッチもあるし。
わたしは自分の思いつきに満足しながら、よっと椅子から立ち上がると、ん〜〜っと勢いよく腕を上げた。
*...*...*
「では葉月、もう一度訊く。この第一志望が一流大学、第二希望が三流大学っていうのは、どんな理由があるのだろうか?」
「……家から近い、それだけの理由です」
「一般的に言えば、そういう理由で志望大学を決定する人間と言うのは極めて少ないと言えよう。
どの生徒もみな、自分の実力の最大限のところに行きたいと願うものだ」
「…………」
「もしかして、君は私をからかっているのか?」
「……いえ」
ここは、進路指導室。
他の教室のように冷暖房が完備されているわけではないから、日が暮れ出すと俺は急に寒さを覚えた。
ふと窓の外に目をやると、俺がいつも授業を受けている教室が氷室の肩越しに見える。
……ん?
あいつ、こんな時間までなにやってるんだ?
「……君の成績なら、一流大学も問題ないと言えよう。だが、その安易な決定の仕方が、私は納得がいかない」
氷室は赤い万年筆を持ち直すと、机の端をコツコツと叩いている。
俺は、その少しくたびれかけた万年筆の先をぼんやりと見ていた。
『進路調査票』をカバンから出すのが面倒で、つい、カバンごとこの部屋に持ってきてしまった俺。
は、……カバンがない俺の机を見て、俺のこと、もう先に家に帰ったと思っているかもな。
俺は、氷室の言うことをうなずきながら訊いてるそぶりをして……。
氷室の肩の向こうの景色に全神経を集中させる。
……あいつ、いきなりしかめっつらして、なに鏡なんか出してるんだ?
前髪を直すようなフリして、額を触って。
にやにや思い出し笑いをした後、なにか急に思い立ったように、コトンと顔を机に伏せてる。
本当に、飽きないヤツ。
俺は口の端が自然に上がってくるのを、氷室にちらっと見咎められて、さらりといつもの表情に戻す。
こうして3年、俺はあいつのそばにいるけど。
……いつも、予想外の行動や考え方に驚かされる。
でもそれは、嬉しい驚きで。
明るくて、屈託なくて。……ときどき、突拍子もないほど危なっかしくて。
毎日、俺が持ってないものを一つずつ分け与えてくれる。
それが、とても気持ち良くて。
―― だから、目が離せない。
「モデルの仕事をやっているようだが、浮ついたところがなくて大変結構。
だが私が凡人だからだろうか? 君の考え方にはついていけないところもあるのもまた事実だ」
モデル、か……。
そんな入れ物、なんだっていうんだろう。
俺は俺で。
俺以上でもないし、俺以下でもない。
そんな、当たり前のことを気づかせてくれたのはだから。
人形だった俺に、息を、感情を入れてくれた、あいつ。
の気持ちはわからないけど……。
俺は、このごろ夜更かしをしながら、作っているあるものへ思いを馳せる。
(クリスマスに間に合っていればな……)
今のような、もどかしい思いはなかったかもしれない。
クローバーモチーフのリング。
……俺の、『所有』、のカタチ。
……あ、あいつ、小さい背をいっぱい伸ばして、気持ち良さそうにノビをしている。
こういうところ、……体育館裏のアイツにそっくりだ。
「……葉月? 聞いているのか?」
「はい。……あの、もう、帰ってもいいですか?」
「葉月?」
「受験当日は寝ませんから。……失礼します」
俺たちの高校生活は、あと、2ヶ月を切っていて。
この、あいつの雰囲気そのままの、春の浮き立つような空気そのものの3年間を、
もう一度繰り返すことができるなら。
今の俺はこんなに焦ることもないんだろう。
過去には戻れない。
時の流れだけが、俺に囁きかけてくる。
(先にはなにが?)
俺につられて立ち上がった氷室に一礼して、俺は走り出した。
*...*...*
「!」「あれ? 珪くん、学校にいたの?」
結局。
走って走ってたどり着いた教室に、はもういなくて。
俺は、校門を出るところでようやくあいつに追いついた。
は俺の姿を確かめると。
一瞬ほわっと目を見開いて、そして、微笑んで。
すっと、自分の身体を斜めにして、俺のための場所を空けてくれる。
ややゆっくり目の、とやや早目の俺。
2人のそんな歩調がゆっくりと混ざって、その身体どうしの隙間からはいつもの空気が流れる。
俺がいつも求めている、場所。
それが、身体の先端が凍りつくかと思うほどの今日みたいな寒い季節だけじゃなく、
どんな季節でも、心地良いと思うのは……。
俺だけじゃない、と自惚れてもいいんだろうか?
「まっすぐ帰るのか?」
「あの、ん、えっと……。ケーキ買って帰ろうと思って」
「ケーキ?」
「ん、おかあさんに、お詫び、のケーキなんだ〜」
「……お詫び? おまえ、なにか心配かけたのか?」
「ん……。いっぱい、ね?」
は困ったように笑って、俺を見上げる。
そして、大きな瞳をくるりと回して。
「そうだ、珪くん……。 珪くんも、ケーキ一緒に食べよう? 美味しいモカ淹れてあげるから!」
「俺も?」
……どうして、そうなるんだ?
こいつときどき話題がかっとんでるんだよな……。
いぶかしげにの顔を見つめると。
「ん。……こうなったら、もうもうっ、珪くんも巻き添えにしちゃうよ〜っだ」
とびっきりのアイデアが閃いた、って顔をして笑ってる。
「巻き添え? なんの話だ?」
「……こっちの話! もう、決めたからね?」
やや明るみのある髪。
くるくると変わる表情。
そんなおまえを縁取る、声。……香り。
スネるとあっという間に俺たちが共有した時代に戻れるような、幼い、顔。
「転ぶぞ、また……」
たたっと走り出したおまえの後ろ姿に、俺はあわてて声をかけて。
さりげなくおまえの隣りに並ぶと、さっき感じた温かい空間をもう一度作る。
これからも、の隣りにいるのが。
―― たえず俺であるように。