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『はばたけ!』天之橋理事長の声が大講堂に響いたとき。
俺は、自分の座ってる席が一番端だったのを幸いに、軽く氷室先生に頭を下げると席を立った。
―― 卒業。
3年前。
俺は、このはば学の中等部を卒業した。
そのときには、過去に対しても、未来に対しても、なんの興味もなかった。
そして多分きっと。
3年後も俺はこんな風に周囲との違和感を感じながら、
なんの心残りもなく、はば学の高等部を卒業するのだと思っていた。
でも今は。
どうしてだろう。過ぎて行く過去を見送るとき、胸の中のある部分が声を上げる。
その声に耳を塞ぐようにして、俺は軽く髪を掻き上げると、
なおも大講堂から教室へとつながる渡り廊下を歩き続けた。
朝方、このままもう晴れることはないんじゃないか、と思える程の
冬のどんよりとした雲はいつしか柔らかい日差しを落とすまでになっていて。
ふと廊下の一角に目を遣るとそこは、なんでもない薄緑色の床が、まぶしい程の光に満ちていて、俺は思わず目を細めた。
―― 学校ってこんなにも光が溢れている場所だったのか?
正直言って、俺の高校3年間がこんな風に彩られるとは思っていなかった。
今の俺が、中学3年間のことを思い出しても、何一つ浮かんでこないように、
入学したときにはこんな無味乾燥な3年間がこれからも続くのだ、とぼんやりと感じていた。
他のクラスメイトと比べても、俺はどこかつまらない顔をしていたと思う。
だから……。
入学式の日、あまりに春の空気そのままに、浮き足立っている周囲とのギャップに疲れて、俺は教会へ足を運んだんだ。
―― 来るはずのない、おまえを探して。
そのときのおまえのこと、俺は今でも、ついさっきのことのように思い出すことができる。
きょとんと小動物みたいな目をして。
あたりも見回さずに、走って俺にぶつかって。
挙げ句に俺のこと、『先輩』って呼んで。甘い声で笑って。
そこまで思い出して、俺は頬が緩むのを抑えることができない。
俺、すぐにだって分かった。
セーラー服着て、背も高くなってて。
ずいぶん大人っぽくなったなとは思ったけど、なにかを言いかけるとき、くるっと回る瞳も、色素の薄い髪も、透きとおるような肌も。
おまえ、小さいときとちっとも変わらなかったから。
なあ、。
俺、何度、幼い頃の俺たちのこと話そうとしたか、おまえ知らないだろ?
俺が、ほんの少し共有した邪気のないこの暖かな空間を、
どんなにおまえに思い出してほしい、と願ったかを。
おまえのことが手放せなくなるにつれ、その願いが膨らみを増していくのを、
俺は止めることができなかった。
今年の初詣でのときにはうっかり口を滑べらせて。
そのときおまえ、笑いながら入学式のこと話すから、
俺はがっかりした気分とほっとした気分を交互に味わっていたんだ。
話したいと思う。気持ちが昂ぶる。口を開きかける。
でもそのたびに幼い頃の俺たちについて話すことは俺のエゴなんじゃないか、と思いとどまってきた、こと。
『おまえのこと守ってやる』
って言っておきながら結局そばにはいてやれなかった5歳の頃。
それ以来、周囲に失望して、自分の心を閉ざすことで、鎧をかけてきた俺。
俺はもう、あの頃の俺ではなかったから言い出す権利なんてない、と、自分に言い聞かせてきたんだ。
俺は小さくため息をついて中庭に出ると、その煉瓦色の壁に背中を預けて空を眺めた。
初めて。
幼い頃の幼い記憶の中よりも。
より深く、より強くおまえに惹かれていると気づいたときのとまどい。
おまえと過ごした何気ない週末のこと。
そばにいるはずもないときに感じるおまえの存在、香り。
幼さの残る、甘い、声。
時々、不器用な俺を叱る、強い眼差し。
すべて、すべて。
……明日からの未来には存在しないかもしれない。
俺はズボンのポケットに手を入れて、その無機質なモノの存在を確かめる。
その冷たい感触に、俺は突然、目に見えないもう一人の自分に責められているような感覚に陥った。
口下手で、無器用で。
それを自覚しながら言い訳にしていた、今までの自分をなじりたくなる。
頬を撫ぜる風が少し冬めいていて、俺は空を見上げる。
そこには細い細い雲が陽を翳らせて、ゆったりと移動していた。
この春の雲みたいに、どこまでも続いて、流れて、とどまることのない思いを、きっと永遠と呼ぶんだろう。
今日なら、言えるか? 俺……。
俺の手の平から微かな温もりがリングへと伝わる。
それが思いのほか、温かいものを俺に投げ返してくる。
あいつが、過去の俺に気付いて失望したとしても。
あいつが、未来の俺に友だち以上のなんの期待をしていなくても。
―― もう、いい。
俺が、おまえを諦めきれないから。
俺は雲が切れて、春の日差しを降り注ぐ空を仰いで誓った。
これからは。
欲しいものを欲しいと叫び続ける、強さと思いを持ってやる。
。
……俺はおまえに伝えたいことがある。
*...*...*
駆けるように中庭から教室に戻ってみても、その見馴れた光景の中にの姿はなかった。あいつ、小さいからな……。
藤井や有沢の胸借りて泣きじゃくってたら、すっぽり埋もれそうだし、な。
あちこちに視線を移していると、教室の端でクラスメイトにサインをねだられている三原が目に入った。
三原は俺と目が合うと、嬉しそうに俺のそばにやってきて言った。
「やあ、葉月くん、ボクはキミに伝えておきたいことがあるんだよ」
「……なんだ?」
「いつか、キミはボクのモデルになるってことさ、約束だよ?」
「……パス」
こいつ、俺と違って流暢に言葉が出て来るものの、ときどき意味不明なことがあるんだ。
俺がそっけない返事を返すと、三原は大袈裟に眉をひそめた。
「ダメだよ、もう決めたんだから。ボクはね、キミが、クンと話しているときの顔が、大好きだったよ。
キミにはそんな表情が似合うよ。だから、ボクはキミのそんな表情が描きたいって言ってるんだ」
、か……。
の名前をこうして別のヤツの口から聞くと、なんだか不思議な気持ちになってくる。
なあ、。
俺は、おまえといるとき……、いや、おまえのこと思い出してるとき、どんな顔してたんだろうな。
俺はおまえのコロコロ変わる表情を追いかけるのに夢中で、
そんな自分の顔がどうなってるかなんて考えたこともなかったんだ。
三原と話してる間に、またはどこかに行ってしまうかもしれない、そう感じた俺は、
「……遠慮しとく」
と言い捨ててその場を後にしようとした。
すると俺を押しとどめるように須藤が正面からやってきて、いかにも軽蔑したような声を上げた。
「まあ、あなた。色サマのせっかくの申し出を断ってしまうの? そんなのこのミズキが許さなくてよ!?」
「いいよ。ミズキクン。葉月くんはまだ自分に目覚めていないだけなんだ。
わかるかい? そっと待っててあげることに、今、ボクは使命を感じたよ」
「もう、色サマったら……」
2人はそう言うと俺を間にしてうっとりと見つめ合っている。
…………?
これか?これがこの前プラネタリウムであいつが言ってたラブラブってやつなのかもしれないな。
……ほっておく、か。
不思議だ。
今までは人と人との結び付きなんて、とても脆いものだと思ってた。
そんな他人との繋がりなんて、ましてや自分と関係ないところでのものなんて全く興味がなかったのに。
仲良さそうな2人を目の前で見てると、
『……良かった、よな』
と声をかけたくなってくる。
教室で探すのに見切りをつけた俺が廊下の方に目をやると、ガラリと勢い良くドアが開いて、騒々しい声が響き渡った。
「あ、奈津実、ここにおったで〜〜」
「あ〜〜、葉月発見っ」
「藤井、姫条……」
藤井たちはつかつかと俺のところに近づいて来ると、あいつ、どこ行ったか知ってるか?と尋ねる間もなくまくしたてるように言った。
「アンタさ、式の途中で席立っちゃったでしょ?
あのコ、式が終わるとすぐ駆け出して、アンタの後、追いかけて行ったわよ。ったく、どこにいたのよ?」
「それで……。あいつは?」
「あっちこっち走りまわってたわよ。泣きそうな顔して」
「……探してくる」
あいつ、すぐ泣くからな。
お人良しで涙もろくて。それでいて意地っ張りで。
それをからかうと、さらにムキになって言い返してくる。
どこにいるんだ? あいつ。
俺が廊下に出ようとすると、
「ここにはいないわよ。もうアタシ探したんだからっ」
と藤井がイライラと足を踏み鳴らした。
教室以外にあいつがいるところ、といったら……。
いや、あいつと俺が最後に行き着くところは、……あそこ。
俺はある決意を持って、走り出した。
「頼んだわよ、のこと」
「……わかってる」
―― 多分、あそこ。
走り出した背中に、藤井の声が突き刺さる。
「を通して、アンタ見てたら、……葉月って本当はいいヤツなんじゃないかな、って
思えるようになったんだから!アタシはっ!!」
その怒ったような声に振り返ると、藤井は仁王立ちして真っ赤な顔で俺を睨んでいる。
そしてその背をそっと抱えるように姫条もいて。
「葉月、卒業しても一緒に遊ぼな。またダブルデートしよ」
そう言うと指でピストルの形を作って、俺の胸を打つマネをした。
「……サンキュ」
*...*...*
俺は、走る。走ることで、なにもかもが解決するんじゃないか、というような思いにとらわれながらさらに走る。
そして走り続けながらも、頭の中ではずっと俺との関係について考えていた。
が笑うだけで、嬉しい。
が泣くだけで、俺は途方に暮れる。
こんな子どものような心の動きは、自分も今まで知らなかった。
愛しい。
おまえが愛しくて。
もう2度と手放したくない、という思いが込み上げる。
だからきっと昔から。
『愛してる』
という言葉はこのためにあるんだ、と気付いた。
おまえの作り出す音は、いつもとても微かなもので。
でも、伝わってくるころには、強く、俺の中で響き渡るものになっている。
それは、毎日、確実ななにかを俺の中で育ててくれた。
―― こんなにも大きく。
。おまえがいたから。
俺は未来に対しての希望も、周囲の温かみも知ることができた。
未来への約束を願うための切符を、今俺は手にしていて。
それが、片道切符になるのか、往復のそれになるのかはまだわからないけど。
俺は、その片道切符を手渡したいと思う。
―― 最愛のおまえに。
俺は走り続けながら、と出会った頃の幼い俺に出会う。
かあさんが子守歌代りにと、小さな音でバイオリンを弾いている。
俺は、それを幸せな気持ちで聴いている。
『そんな小さな音、聞こえないよ。オレ、もっとにぎやかなのがいいな』
とねだる俺に、かあさんは目を綻ばせて唄うように言う。
『珪……。この音の大きさを pp (ピアニッシモ)っていうのよ』
『pp?』
『小さいけれど、これからの音を作る大切な音なの。これからの音楽を彩る力をくれる音なのよ』
。
おまえは、これからの俺に力をくれるだろうか?
そして、きっと、俺も、おまえに。
俺は決意を持って、教会のドアを開ける。
そして、まばゆいばかりの光の中にいた小さな影に声をかけた。
「―― ここにいたのか」