珪くんにわがままを言おう。
 ごめん、ごめんね。
 理由は数え切れないほど、ある。
 寒かったから。
 怖かったから。
 この手を離したくなかったから。
 ずっと一緒にいたい、そう思ったから。
 でも口に出してしまえば、どれもみんな些細なことのように思えるね。
*...*...* Squall *...*...*
 友達の話と比べてみてもわたしは、キャッチセールスとか見知らぬ人に話しかけられる確率が世間一般よりもはるかに多いみたいだ。
 どうもこの下がり気味の眉毛が原因なんじゃないか、って鏡の中の自分に怒っても仕方ない。
 けれど、さすがにこんなに続くと、自分にもなんらかの落度があるんじゃないかな、って落ち込んでもくる。

「君、可愛いよね〜、なに大事そうに本、抱えてるの? 俺、その本になりたいっ、なんてね〜」

 わたしよりはるかに太くて黒い手に手首を握られてぎょっとする。

 ── どうしよう。本当に怖いよ。

 こここんなんじゃ、手芸部に入るより、奈津実ちゃんと一緒のチアリーディング部に入って、腕力だけでも鍛えておけば良かった。
 手芸部で、針や糸、ビーズアクセのテグスばっかり触ってて、腕力が付く、というのもヘンな話だもの。

 ……けど。

「君ってとっても俺好みなんだよね。これからふたりで楽しいところ行こうよ」
「あ、あのっ。わたし、待ち合わせしてるんです。困ります」
「確かに困るよね。こーんな可愛い子待たせるなんてさ。男失格だよね。ね、どこがいい? カラオケ? それとも俺、車持ってるからドライブにしようか?」

 わたしの言ってることなんてまるで耳に入らないかのように、のべつまくなしに話し続ける、色黒の知らない、人。
 流暢に話し続けながらも、握った手を離してくれない。

 ── 怖い。

 茜色の夕焼けが綺麗な、街の雑踏。
 大柄なこの男の人の影に隠れてわたしの姿が見えないのか、周囲の人はまるで気づく様子もなく通り過ぎていく。
 待ち合わせの時間より、少しだけ早く来ちゃった自分を悔やみたくなる。

 ……どうしたら、いいの?
*...*...*
 その日はALUCARDのシフトが珍しく変則的な日で、わたしは木曜日なのに学校からまっすぐ家に帰った。  自分の部屋に入ると、制服から動きやすいスパッツとセーターに着替えて、んん〜、と日だまりの猫みたいに伸びをして。
 受験まであと少しだもんね、と自分に独り言を言いながらカバンを開けて教科書とノートを取り出す。

 あれ?

 ……リーダーの教科書が2冊?
 今日4時限目にあったリーダーの授業の記憶を辿ってみる。

 ああ、そうだった。わたし、長文読解になるといつもV(述語)が見つけられなくなって。休み時間に隣りの席にいる珪くんに教えてもらってたんだ。

 『thatがたくさんあるから、ここで一度区切るんだ。そうすると、……V(述語)は?』
 『……あ! これだ、prepared !」
 『……そう。エライエライ』

 大きな手がわたしの頭をかすめて。それと同時にひんやりとした彼の香りも届けてくれて。
 この瞬間が嬉しい、と思う。……今のわたしにとっては、受験勉強の中での一番のビタミン剤だったりする。
 ……あの時、かな? きっとそうだ。ふたりで2冊の教科書、覗き込んでて、そして取り違えたんだよね、きっと……。
 取り違えただけならともかく、わたし、珪くんの分の教科書も持って来ちゃったんだ!

 授業の終わり際に、先生が眠そうに言ってたことも思い出す。
 ああっ、明日簡単なリーダーのテストをやるって言ってたっけ……?

 教科書ないと困るよね? 珪くん。

 行動は思考よりも早い。わたしは教科書を手にすると椅子から立ち上がり、クローゼットからパーカーを取り出した。

「ごめんね、お母さん! わたしちょっと出掛けてくる!」

 キッチンでとんとんと小気味良い音を立てているおかあさんに声をかけると、わたしは玄関を飛び出した。
*...*...*
 撮影先から寄るのなら、珪くんも少しは楽かな、と思いわたしはショッピングモールに向かった。
 その途中でケータイに伝言を入れる。

 『あの、わたし……。あのね、うっかりして珪くんのリーダーの教科書、間違えて持って来ちゃったの。お返しするから、今日6時、ショッピングモールの入り口で会えるかな?』

 今日は木曜日。かけても留守電だ、って分かってたケータイ。
 珪くんはその留守電を聞くかどうかはわからない。
 けど……。

 (ダメでもともと、だもん)

 わたしは、珪くんのリーダーの教科書を胸に抱きながら、ショッピングモールの柱時計に目をやった。 針は約束の時間をすこしだけ過ぎている。夕焼けを反射して長針と短針が長い影を作りながら角度をだんだん鋭くしていく。

 自分の行動が、自分でもちょっと突発的過ぎるかなあ、って思ったり、ううん、珪くんだって、教科書ないと困るモンね、って自分に言い訳をしてたり、する。

 本当は知ってるんだ。珪くんがテスト前に教科書なんか見ないこと。
 きっと、ううん、絶対、わたしが珪くんの教科書を持って帰っちゃったことなんて気づいてないことも。

 ……じゃあ。

「離してください!」

 わたしはわたしの手をつかんでいる太い腕をと睨みつけた。

 目の前にある太い腕にまた泣きたくなる。

 今こうしていることを、珪くんはなにも知らない。
 ってことはわたしのこの一連の行動は珪くんにとってまるで無意味なワケ、で。
 なのにどうしてわたしはここにいて、こんな状況になってるんだろう……?

 手を緩めることなく、わたしの困ってる様子をにやにやと見続ける男。
 わたしに高波のような恐怖心が襲う。

「……やっ」

 思い切り振りほどいた手が、男のサングラスをかすめる。薄茶色のガラスがプラスチックのオモチャのように空に浮く。オトコの顔色が急に変わったのを目の端に捉えて、わたしは彼を怒らせてしまったことに気づいた。

「ご、ごめんなさいっ」
「……ねぇねぇ、ねえちゃん。こっちはか・な・り、シタテに出てんの。調子に乗ってんじゃねーよ」


「……調子に乗ってるの、おまえだろ?」


 わたしの背後に立ってる人がいる。少し息が切れてる。

 珪くんだ、ってわかる。
 纏ってるイロが、この頃長くなった影法師にまで映っているから。

 わたしのショートブーツがゆっくりと影法師の中に入ってくる。
 その途端、緊張感がどっとほどけて、代わりに体中に大きな震えがやってきた。
*...*...*
「ごめんね、ごめんなさい!」
「……いや」

 緊張がほどけないままの空気の中、珪くんはわたしを見つめる。そして困ったように前髪をかきあげた。でもいつものような笑顔はないまま、じっとわたしのことを見続けている。外はもうあっという間に暗くなる。慌ててはおったパーカーも急な冷え込みの中、心許無い。

「……あれ?」

 遠くにみえる街灯がかすかに滲んでいることで、わたしはようやく自分が泣いていることに気づいた。

「そんなに怖かったか? 悪い、遅くなって」
「う、ううん! わたしが勝手に呼び出しちゃったから……っ!」

 珪くんを困らせるつもりなんてなかった。
 ただわたしの、会いたい、ってわがままな気持ちとささやかなきっかけが高じてこんな状態を引き起こしてしまって。

 幸いなことに、わたしの手を掴んでいた男は珪くんがくるやいなや、ツレがあるなら先に言えよ、と捨てセリフを吐いて走っていったから、珪くんがケガをするかも、という心配はしなくてすんだ、けど。

 もしあのまま珪くんになにかあったら、と思うと、こんなにも震えが止らない。

 珪くんは何も言わない。ずっとわたしのことを見続けて、そして時折り辛そうに顔を歪める。その表情が出会ったばかりのころの珪くんを思い出させて、わたしはひやりとする。
 わたしと珪くんとの微かな隙間。いつもは全然気にならないのに、この沈黙がとても重大なことに思えてくる。

 (また、入学したときのころに戻っちゃうのかな?)

 やっと、少しだけ特別な友達になれた、と。卒業してもクラスメイトとして顔くらいは覚えててもらえるかな、って思っていたのに。
 さっきの男の人から与えられた恐怖より、そっちの不安の方がイヤだ。ずっとこわい。

「なあ、……」
「ん……。なあに?」

 言おうか言うまいか迷った様子で、珪くんは呟いた。


「……心配、させるな」



 手と手が重なる。



「おまえになにかあったら……。きっと俺、一生後悔する」
「珪くん?」
「もう、後悔するのはイヤだ」

 翡翠色がわたしを覗き込む。深い深い、燃えるような色。
 いつもの珪くんはこんな色じゃない。もっと穏やかな色なのに。

 なにが珪くんのことをこんなに不安にさせているの?

 珪くんに大切な人がいるということは知っている。でもその人が珪くんにとって、どんな存在の人かは知らない。過去の話なのか、それとも今もまだ続いている話なのか。
 以前、誰かとの間で、泣いても泣いても足りないような後悔をして、今、珪くんはわたしの隣りにいてくれるのだろうか?

 痛みを知っている人は優しい。これはわたしの持論だ。
 誰だって人並みの思いやりと想像力を持っていたら、ある程度その人の気持ちになって考えることはできるだろう。
 けど、どれだけ想像をたくましくしても、実際その痛みを経験した人でないとわからないことってある。

 覗き込んだ彼の瞳はどこまでも透明で。
 その痛みを溶かし込んだ色は、わたしの中を少しだけ掻き乱して、痒がらせる。

 ── 珪くんの優しさの根本を見せつけられてる気がするから。

 微かに繋いでいる手が震えている。
 それはわたしの震えだと思っていたのに、いつからか、珪くんの震えにもなって。

 どうして彼の視線は、こんなにもわたしのことをイタくするんだろう? 目が離せないんだろう。

 珪くんに会って、2年と半年。
 ……ずっと、彼のこと、見てたんだ、わたし。

 何度も誘って。誘われて。
 同じデートコース、何度も行って。けど、そのたびに新しい会話があって。それがとても嬉しくて。

 突然、わたしは今日の4時限目のリーダーの教科書を思い出す。
 主語がこれで、述語がこれで。文脈を組み立てて、たくさんのthatに紛れている目的語を探す。

 『that I know him more』──『だって、もっと、知りたいんだもん』

 わたしの今の気持ちを、簡単に訳せばそういうことなんだろう。

「珪くん……」

 わたし、恋をしている。せつないくらい。
 もう隠していられないかもしれない。告げちゃうかもしれない。

 (大切だよ)

 誰よりも、何よりも、一番。
 珪くんの代わりはもうどこにもいなくて。
 今、こうして掴んでいる手を放さないで、ずっと、いたいよ。そばにいたい。
 ── いられたら、いいのに。

「……悪い。行くか?」

 ふと珪くんが視線を外す。そして労るようにわたしの手を握ると自宅の方向へと歩き出した。

「ん」

 なんとなく。
 珪くんの纏っている空気が、いつも学校で見る穏やかな珪くんに戻ったみたいで、わたしは安心して手を握り返した。
*...*...*
「じゃあ、また学校で、な。あまりムリするなよ」

 ぽん、と頭を撫でられて、わたしは自宅の前にいる。
 うう、これじゃ待ち合わせ場所に撮影先近くのショッピングモールを選んだのってあまり意味がないような……?

 『わたし、ひとりで帰るから……』

 そう告げた途端、珪くんは明らかに不愉快そうな表情を浮かべたから、わたしはそれ以上何も言えなくなった。

 会ってから、手は、ずっと握られたまま。

 普通よりちょっと温かめのわたしと、ひんやりと冷たい珪くんの手。
 それが混ざり合って、いつからか同じ温度を発している。

「えっと、ありがとう。また、明日ね?」
「ああ」

 握られていた手を珪くんはそっと放す。手が纏っていた温もりが風に奪われていく。

「手……」
「手?」

 わたしの言われるがままに珪くんは手を差し出す。すんなりした、白い、大きな手。
 さっきの強引な太い黒い手とは違う、優しい手。
 ── 安心する、手。

「……わたし、珪くんの手、好きだな」

 この人と一緒にいれば大丈夫だ、って心の奥底から小さな声が湧き出る手。大好きな手。
 この手をずっと離さないでいられたら、いい。

 ……けど。
 さすがに離さなきゃ、珪くんも家に帰れないワケで。
 わたしは、最後にそっと手のひらに触れたあと、その安心を手放す。

 すると。
 珪くんは自分の手を軽く握るとそこに鼻を埋めて、ふっといつもの独特な笑みを浮かべた。

「? なにしてるの?」
「……今日はラッキー」
「へ? どどうして?」
「手。……おまえの匂いがする」
「な……っ!」

 そんなこと言われたら、どきっとしない方がおかしい。
 しかも、こわかったのと寒かったのと、泣きたくなったのとイタくなったのと、ごちゃまぜの感情の中で、わたし、必要以上に汗もかいてた、よね……。
 匂い、って匂いって……!?

「あ、あのっ。恥ずかしいから、手、洗っていって?」

 あたふたしまくってるわたしとは対照的に、珪くんは余裕たっぷりの態度で笑った。



「……そんなもったいないこと、するわけないだろ?」
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