*...*...* Line *...*...*
「わぁ……」手にした団扇を揺らすことも忘れて、は夜空に開いた花に見入っている。
時折、彼女の頬の上にもヒカリの名残がやってきて、白い面輪を見え隠れさせる。
遠くから聞こえる音なのに、まるで自分の腹の中からわき上がるような重い音が押し寄せる。
開いては消える。
消えて。
また次のが現れれば、前の輝きなど、もう思い出すことも難しい。
「きれいだね!」
「……そうだな」
は振り仰ぐように俺を見て微笑む。
唇にある艶。白いうなじにはらりと落ちる後れ毛。
そのいつもとは違う髪型に。
子どもに近かった去年より、はるかに大人に近づいてきた今年の表情に。
俺は素っ気ない返事を返すのが精一杯だった。
「あれ? 一休み、かな?」
花火と花火の間に、束の間の休憩が訪れる。
は手が止まっていたことを照れるかのように、ゆったりと団扇で風を送ってきた。
けれど視線は、まだ夜空に残したまま。
墨を流したようななにもない空間を嬉しそうに眺めている。
……こいつ、なら。
俺と違って、無邪気なこいつ、なら。
目に見えないモノを見て、聞こえないモノも聞こえる、って言ってくれるかも知れないな。
ふと。
いつもなら目に付かない、の小さな素足に目が行った。
赤い鼻緒が吸い付くかのようにぴったりとの足の甲に収まっている。
まるで作り物のような小指と、赤く色づいた踵。そこから続く細い足首。
思わず目を細める。
こいつってこんなにもオンナだったのか……。
ふわり、ゆらり、と送ってくれる団扇の風を頬に受けながら、俺は考えた。
今、こうして二人でいることが、とても自然で。
自然でありながらも、必然で。
周りが暗闇に包まれているせいか、もうずいぶん前から、と二人きりでこうしているような、不思議な感覚に包まれていた。
特別な空間。
世界のどの場所でもない、この場所で。
俺は、どうして、ここにいて。
── おまえは、どうして、俺のそばにいてくれるんだ?
「あ、珪くん! また始まるよ?」
の問いかけに、一瞬、思考が中断される。
ヒュルヒュルと頼りない音と共に、体育館裏ののしっぽのような白い煙が立ち上る。
は固唾を呑んで空に見とれている。
(こういうところは、まだ子ども、だな)
のあどけない表情を盗み見つつ、そんなことを思う。
遠い夏、俺がクローバーで指輪を作ったとき、真剣にこいつ、手元を見つめてたっけ……。
何度教えても、どうしても作り方が分からないと言ってベソをかいて。
俺が作ったモノを渡したら、まだ目尻に涙を残したまま、にこっと笑って。
そしたら、今度は自分で上手く指に通せない、と言ってまたベソをかいて俺のそばへ来たっけ。
よく泣く。よく怒る。それ以上によく笑う、ごく普通の女の子。
そのときの面影が重なる。
── 全然、変わってない、ハズなのに……。
話しかけられるまま、誘われるままに気分次第でよく遊びに出かけた高1の頃。
それをいつからか、心待ちにして。
携帯を握りしめながら、俺からも頻繁に誘うようにもなった、高2の春。
大事にしたい。大切にしたい。いつもそう思っている。
けれどそれと同じくらいの思いで。
── 壊すなら俺が。
そう思っている自分がいる。
誰にも渡したくない。俺のそばにとどめておきたい、と。
……たとえ、怖がらせてしまうとしても。
こうして高2の夏がスタートを切った。
*...*...*
「ね。きれい、きれいだったね!!」さっき見た花火が忘れられないんだろう。
は高揚した頬をもてあますかのように顔に手を当てている。
全体をアップにした髪型のせいで、暗闇の中、いつもは見えない形の良い耳がぼんやりと浮かんでいる。
俺より少し後を歩く彼女。
かすかに引き摺るような下駄の音が存在を主張し、やがて周囲の闇に吸い込まれていく。
薄暗がりの、いつも通る歩道。
さっきまでの耳をつんざくような地鳴りと、鮮やかなヒカリの洪水がウソのようだ。
は、見知った人とよくすれ違うらしく、そのたびに楽しそうに挨拶を交わしている。
誰にでも分け隔てなく明るいは、上級生下級生、男女を問わず人気がある。
そんなこいつが、いつもなら微笑ましく映るのに。
……それが今夜だけは。
人の波から人の輪が出来始め、それが少しずつ大きくなる頃、俺の中のやりきれない気持ちも大きくなっていった。
「……先、行ってるから」
「あ、珪くん!?」
一人で歩く夜道。
なにもかも味気なく映る。
人は気持ちの色次第で、こんなにも見える景色が変わるものなのか?
こうしていると、一緒に見た花火の色も音も、なんだか古い絵はがきの中のことみたいだ。
(……消えてしまったみたいだ)
今あったことが全て無になる。花火も。一緒に過ごした時間も、のことも。
……こうやって『遠い日の話』だと、大人になった俺は笑いながら思い切れるのだろうか?
── 10数年前の幼い頃を、まだ忘れられない俺であっても。
「ま、待って。珪くん……」
小走りで駆け寄ってくるのだろう、下駄の足音が迫ってくる。それを覆うような甘い声も。
ごめんね、という彼女の言葉を遮るようにして俺は聞いた。
「……おまえ、俺といて楽しいか?」
いつも聞きたいと思っていたことだった。
だけど勇気がなかった。
Yesと言われたら、俺には逃げ場がなかったから。
どんなヤツであっても……。
俺は見知っている顔を思い浮かべる。
どんなヤツも多分、俺よりはクチが上手で。
自分の気持ちを自分の言葉で、的確に言い表すことができるだろう。
さっきの様子を思い浮かべてみる。
人の輪の中にいるは、俺といるよりも明らかに楽しそうで、嬉しそうで。
大きな目が愛嬌たっぷりにくるくると光っていて。
が言う何気ない一言が、またみんなの話題と笑いを生んで。
ますます輪が大きくなる。広がっていく。
……それなのに。
「どうしておまえ、俺といるんだ?」
振り返って再度尋ねる。
逃げるなら、逃がすなら、今のうちだ、と思う。
は、息をするのも忘れたかのように、俺の顔を見つめたままだ。
「言えよ」
これ以上言い募ってはダメだ、と。
わかっているのに、さっき見た人の輪が忘れられなくて、俺は更に言い連ねる。
……明らかに攻め過ぎだった、と俺が気付いたのは、彼女の表情が沈みきった後だった。
*...*...*
薄い暗闇の中、の涙だけが別の生き物のようにはらはらとこぼれている。思わず、自分がを泣かせた本人であることも忘れて、彼女の頬に手を伸ばす。
すると頬に届く直前で、彼女は俺の手をそっと両手で包んで降ろさせた。
明らかな、拒絶、だった。
「ごめんね。……泣かない、から。ちょっと、待ってて……」
手にしたハンカチで涙を拭き取ると、は、まるで傷ついた気持ちをその中に封じ込めるみたいに、その白い布きれをぎゅっと握りしめている。
「悪かった。……言い過ぎた」
「ううん。わたしが待たせちゃったから……」
の美しいカーブを描いた目の縁が、桃色に染まっている。
(大事なヤツを泣かせてどうするんだ……)
もしもう一人の自分が自分のそばにいたら、きっとそいつが俺のことを思い切り詰っていただろう。
俺たちは無言での自宅の方向へと歩き出した。
俺は、といえば、の肩なり手なりに手を伸ばして、再び拒絶されることを恐れていたし、は、といえば、さっきの楽しげな様子は影を潜めて何かを考え込んでいるように見えた。
「……ん?」
規則的に続いていた下駄の音が不自然に止んだ。
「……?」
「ごめんね。さっきは、泣いちゃったりして……」
ハンカチを握りしめたまま、は俺の顔を覗き込む。
「泣くなんてズルいよね。ただ珪くんは、わたしに質問しただけなのに」
「……」
続きを言わないで欲しい。いや、本当のことが聞きたい。
相反する気持ちが交互に湧いて出る。
でも聞いてどうする?
拒絶されたらといって、俺は俺の気持ちを抑えられるのだろうか?
は俺の顔を見据えて、一言一言ゆっくりと言い含めるように告げた。
「わたしね、珪くんと一緒にいると、楽しいよ? それが質問1の答え」
本当に楽しんだよ。たとえ何もお話しなくてもね。……こういうのってヘンかな?
恥ずかしいのか視線をそらせて、ブツブツと小声で言い訳っぽくつぶやいている。
「……だから、なの。……これが質問2の答え」
「……は?」
「わたしは、珪くんと一緒にいると、楽しい、から。……だから一緒にいるの」
一言一言。
ゆっくりと諭すように言うと、肩の荷が降りたのか、は花が開くように笑った。
白くみずみずしい肌。
涙で濡れた跡のある頬。
のその表情は、この前守村から教えてもらった『夕顔』そのものに見えた。
「……」
肩口に手を伸ばして。
でも情けないことに掌は空を切ったところで、滑り落ちる。
身体は心よりも鋭いところがあるのか、さっきのの拒絶のような態度が俺の中にまだ残っていたのか、俺の手は目的を無くしたかのように、もともと存在する場所へと戻る。
はそんな俺の手に気付くと、まるで傷ついたネコを抱き上げるかのように両手で持ち上げた。
「今日はありがとう、珪くん」
ドクンと胸が痛くなる。
それは拒絶されたときのさっきの痛みなのか、それとも今の嬉しさの痛みなのか、わからない。
「さっき、珪くん、わたしに手をさしのべてくれたでしょ? けど、わたし、珪くんの手を借りるのはイヤだったの。自分で勝手に泣き出したんだもん。だから、自分一人で、泣きやまなきゃと思って……」
珪くんの気持ちは嬉しかったの。……さっきはごめんね。
と。
握りしめられた両手にふわりと力が籠もるのを感じる。
下校帰り、とよく話し込む公園の前。
このT字路を、右へ曲がれば俺の自宅へ。
左に曲がれば、の自宅へと続く道。
『人生の選択肢は、YesかNoしかないんだよ。珪』
選ぶか、選ばないか。
『忘れられない過去なら、ずっと持って行くしかないだろう?』
何年も忘れられない幼い女の子のことを繰り返し話す俺に、祖父さんは遠くの森を見ているかのような透き通った目で俺に笑いかけた。
『うん……』
わかったようなわからないような返事を返す俺に、祖父さんはそのとき、なぐさめるかのような面持ちで言ったんだ。
『……YesとNoを繰り返して、人は大人になっていくんだよ』
が俺の手に触れていた時間はそれほど長くなかったと思う。
小さな手は、やがて力を失い、潮が引くように離れていった。
「じゃあまたね。送ってくれてありがとう」
いつもこうして、が自宅の玄関に吸い込まれていくのを見て、俺の自宅の方向へと足を向ける。
少しずつ、離れていく白い浴衣。
遠くによみがえる、花火の色。音。
俺は忘れることができるのか?
まるで無かったモノのように忘れてしまえるのか?
がいるこの景色を。
きっと、できない。
── 忘れることも、忘れたふりをすることも。
「……行くな!」
気が付くと、俺はに向かって走り出していた。
*...*...*
「……え?」きょとんとした顔では振り返る。
「あれ? えーっと、わたし、何か忘れ物したっけ?」
が立ち止まっている間に、俺は足早にの元へと向かった。
そしてすでに離れてしまった手を引き寄せる。
は足元の下駄が不安定なせいか、たわいなく俺の胸の中へ入ってきた。
「わ、ごごごめんな……」
続き、は、なかった。
俺が言わせなかったのだ。
俺は見えない力に押されるようにして、の唇を自分のそれで塞いでいた。
艶めいて柔らかそうな唇は、見た目以上に柔らかくて。美味しくて。
はじめは怯えたように固くなっていたも、何度も同じ愛撫を繰り返すにつれ、唇も身体も余計な力が抜け、俺に馴染んでいくように思えた。
……ぴったり。
そういう表現が一番似合う。
の身体も、心も。
── まるで俺だけのために作られたかのような。
……俺だけの、姫。
「……困ったな」
「え? えっと、……なにが? って聞いてもいい?」
すっかり俺の胸に身体を預けていたのに、は俺の言葉にぴくりと反応して、両腕に力を込めて俺を見上げる格好になっている。
その様子が愛らしくて、俺は笑いながら言った。
「……クセになる。おまえとすると」
「…………。な、なんてこと言うの〜〜!!」
「瞬間湯沸かし器。……顔、真っ赤」
「ううっ……。珪くんてばヒドイ! こういうときだけ饒舌なんだから〜〜」
「……黙れよ」
再び。
彼女の背中に手を這わせて、目的の場所に唇を落とす。
瞼の裏に、さっき見た花火が浮かんだ。