*...*...* Pray *...*...*
「あ、れ……? なんだろ、この香り」

 夕暮れの闇が迫る、公園。
 空気って正直だ。日が翳るのと同時に、晩秋の秋がすぐに寒さを伝えてくる。
 くん、と鼻をうごめかしたわたしを見て珪くんは笑った。

「……おまえって、ちっとも変わらない」
「そ、かな? もう高校を卒業してから2年も経つのに?」
「ああ」

 童顔なのは生まれつき。今更お父さんやお母さんを責めたって仕方がないことくらい分かってる。
 うう、少しは、大人っぽく見られるように、お化粧とか頑張ってるんだけどな。

 今じゃすっかりわたしを見下ろすくらい背が高くなった尽にだって、

『まあまあってところ? 女子大生っぽくなったぜ、ねえちゃんも』

 っていう、ぎりぎりの及第点をもらってるのに。

 こんなに正直に、無邪気な瞳で告げられると、怒りたくても怒れない、じゃない。

「まだ成長過程だから、大丈夫だもん。
 いつか珪くんが参った、っていうくらい、カッコいい大人のオンナになるんだから」
「まあ、がんばれ」

 珪くんは少しだけ目を細めて笑った。
 うう、その調子じゃ、全然本気にしてないんだな、ってことが伝わってくる。


 わたしが、大人っぽくなりたいと思う理由。
 それは今、隣りにいてくれる人のせい。

(珪くんと釣り合う女の人になりたい)

 って。

 高校の時から、抜きん出てきれいなオトコのコだった珪くんは、大学に入ってから、きれいなオトコのヒト、になった。
 優しい眼差しはそのまま。わたしのことを大事にしてくれることもそのまま。
 だけど、目標とする人がたえず自分の前を歩き続けて。
 そして頑張ってるのにも関わらず、どんどん差が開いていくのを見るのは切なかったりする。

「あ、ほら、珪くん。やっぱり咲いてた」
「ん?」
「……バラ」

 見ると人目に付かない公園の一角に くすんだ色の薔薇がひっそりと立っていた。
 足元の土がこんもりと盛り上がってる。
 そっか、きっとこの薔薇を大切に思ってる人が他にもいるってことだね。
 春よりは花自体は小ぶり。
 だけど、深く濃い色の薔薇は、春とは違った力に満ちてるような気がする。

「匂う、な」
「そう? 珪くんも??」
「……思い出す。はば学のバラ園のことも」
「ん……。わたしもそう言おう、って思ってた。理事長のお気に入りのバラ園、綺麗だったよね」

 たった2年前のことなのに。
 その時に親しんだ香りや音楽って、人の頭の奥の方に強い印象を残すのかもしれない。
 今、この場所がはば学だ、って言われても、今のわたしにはしっくりとこの空気が馴染むような気がする。

「……おまえ、よくバラ園に行ってたよな」
「え?」
「はば学の。……泣いてるのも見たことある」
「え? え? 本当に?」

 突然の珪くんの告白に、かっと耳の後ろが熱くなるのがわかった。

 確かに、高2の手芸部の部長になりたての頃と、高3の文化祭の直前。
 人の上に立つことに慣れてなかったわたしは、部活が終わってから、あれこれ悩んでいたことがあった。

 どうしてもっと上手く時間が使えないんだろう、とか。
 どうしてもっと後輩たちにわかりやすく説明できないんだろう、とか。

 全ての原因が自分に向かっているような気がして。ふと気付くと、自然に足はいつも行くバラ園に向かっていた。
 しゃがんじゃえば、簡単に自分の姿が隠せるところも気に入っていた。
 ── こんな姿、誰にも見せたくなかったから。

 それを一番見せたくないと思ってた珪くんに見られてたなんて、恥ずかしすぎる!

「そうだったんだ……。その頃はね、手芸部のことでいろいろ悩んでたことがあったの。過ぎちゃえばいい思い出だけど」

 照れ笑いを浮かべて珪くんを仰ぐと、真剣な眼差しで返されて どきりとする。
 触れると安心する指がわたしの頬に落ちてくる。

「……もどかしかった。こんな風におまえに触れられなくて。……おまえ、いつも一人で泣くから」
「珪くん……」
「何度、バラ園に踏み込もうと思ったかしれない」

 香りの、思い出。
 思えば、バラ園で思い切り泣いた後、よく珪くんにお茶に誘われたっけ。
 別にお互い、特に饒舌にお話をする、ってわけではなかったけど。
 わたしは珪くんの沈黙の中で温かい気遣いを感じてた。

 今だって。いつだって、そう。

「いつも思ってる。……おまえが一人で泣かないように」
「……珪くんは優しすぎるよ」

 背中に回された腕を感じながら、ちょっとだけ不安になる。
 卒業してから2年。珪くんを思う気持ちは誰にも負けないと誓える。

 けど、わたし、珪くんがしてくれてるだけのこと、ちゃんとお返し、できてるかな?
 伝えられてる?
 ── 大切だ、と思う気持ちと、これからも、と願う気持ちを。

「大丈夫だ」
「え?」
「……ちゃんとわかってる。おまえの気持ち」

 珪くんの腕が作る輪がどんどん小さくなって、私の身体にぴったりのサイズになる。
 珪くんのジャケットからは冬の香りがする。

 わたしは身体の力を抜くと安心する匂いの中に飛び込んだ。


 願わずにはいられない。
 香りの上に、新しい想い出が重なっていきますように。
 珪くんがバラの香りを感じて、泣いてるわたしじゃなくて、今日のわたしを思い出すように。
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