*...*...* 身分差ヲ埋メル闇 (正) *...*...*
「……まったく。あいつはしょうがない奴だな」
 
 私は机上に散乱していた決算報告書をひとまとめにすると、既決箱に入れて息をつく。
 独り言にしては、やや声が高かったのだろう。
 帰り支度を始めていた秘書は、かしこまって身をすくめた。
 
「は……? 申し訳ありません、頭取。もういちどおっしゃって頂けますか?」
「あ、いや。お前には関係ない。すまんな」
「は、はい……。ではわたくしはこれで帰らせて頂きます。また来週月曜日によろしくお願い致します」
「ああ。月曜日は年末決算期にあたる。もしかしたら通常よりも帰宅時間が遅れるかもしれん」
「はい。わきまえております」
 
 十二月。銀座の街は宮ノ杜が興した電灯会社のおかげで、深夜十二時を過ぎる頃まで電灯が点るようになった。
 この電灯のことを最近では、『ねおん』というらしい。
 『もぼ』だの『もが』だの、最近では聞き慣れない言葉をよく耳にする。
 案外この手の類は、はるの方が物覚えがいい。
 
 はるに一度一緒に観に行ってみるかと尋ねてみたが、あいつの答えは、案の定、というのか想定内というのか。
 ぶんぶんと顔の前で手を振ると、信じられないといった風情で、大きな目を見開いていた気がする。
 
『正様、なにをおっしゃっているのですか? この年末の忙しい時期に』
『は? 忙しいと言ってもだな』
『この季節は宮ノ杜の大掃除と決まっております。
 日頃手の行き届かない場所のお掃除もありますし、それにお節料理のお支度もあります』
『そ、そうは言ってもだな』
『それに、正様もお疲れがたまっている頃と思います。どうぞゆっくりお休みください。……ね?』
 
 宮ノ杜の主の妻となった今でも、この時期、女という者が忙しいのは事実なのだろう。
 
 ただ、わからない。
 その忙しさというのは、『宮ノ杜正』の『妻』としての忙しさなのか、それとも『使用人』としての慌ただしさなのか。
 もし前者というなら、それもいい。
 私のためにはるが働いているのを見るという構図は、こう、男心をくすぐるものがあるというのもまた事実だ。
 
 だが、『使用人』としての慌ただしさなら、論外だ。
 あれほど、使用人に勘違いされるのがイヤだと言っていたのに。
 そ、そうだ。先日の舞踏会だってそうだ。
 ちゃんとあいつも、私の隣りにふさわしくあるべき正装でいたにも関わらず、だな。
 紀夫にお酒の用意を頼まれて、あいつは、いそいそと、いや、甲斐甲斐しく世話をしていた。
 
 そのことを思い出して、再び私はいらいらする。
 
 と、ふと、自分が、右手の親指の爪を噛んでいることに気づく。
 まったく。爪を噛むなんて、子供じみた真似をこの年になってまでするとは!!
 噛んでいた爪を思い切り引きはがそうとした挙げ句、思わぬ深爪になった指先からは血が滲み出す。
 
 ──── まったく、いらいらする。
 あいつは……。はるは、この私にだけに仕えればよいのだ!
*...*...*
「うーーー。寒い。今年も冷えるな」
「正様、お帰りなさいませ。ちょうどよかったです」
「は? ちょ、ちょうどいいとは何事だ! 妻たる者、主が早く帰ってきても遅く帰ってきても、
 しかるべき刻限に夕食膳を整えるのは当然であろう!」
 
 『ちょうどいい』という言い方にむっとして反論すると、はるは私が手渡したかばんを手にして微笑んだ。
 
「あはは。いいえ、違うんです。ずいぶんと冷え込むものだから、今日は身体が温まりますようにって、
 自然薯の煮物と、京都の地酒をご用意したんです。正様が風邪を引きませんように。
 その、この寒さと献立がぴったりだったかな、と思ったら嬉しくて」
「な、なんだ。そうならそうと早く言え」
 
 自然薯の煮物。
 日頃、この家は元当主の影響もあって、なにかと洋物かぶれの料理が多く並んでいたが、
 はるが妻となってからは、こいつが幼い頃に食べたものがたまに食卓に並ぶようになった。
 時折並ぶこの煮物は、今は私の大好物にさえなっている。
 甘辛い、酒のつまみにぴったりな逸品だ。
 
「あと一週間で、宮ノ杜銀行も長期の正月休みになる。お前、なにかしたいことはないのか?」
 
 結婚して3ヶ月。
 父上の悪事を見つけ、宮ノ杜の当主の座につき。……このはるを自分のものにして。
 日を追うごとに自分の思いを持て余している日常で、意外にもはるは淡々と毎日を過ごしているように見える。
 あの私との再会を思うに、はるが秀男に想いを残しているわけではないと断言する。
 また、私への想いがない、というわけでもないだろうに。
 どうにもはるは、なかなか私への気持ちを告げない。
 
「……そうだ。はる。いつも私ばかり飲んでいるのもなんだ。お前も飲むか?」
「は、はい!? め、滅相もございません!」
「は? なぜだ」
「私、まだ、その、未成年ですよ? それに、その、ご兄弟のご様子を見ていると、とてもそんな……」
「ははっ。それもそうか」
 
 はるはころころと笑い声を立てると、私の猪口に酒を注ぐ。
 
 幼い頃、異母弟が、しかも、五人もいるこの宮ノ杜家をなかなか好きにはなれなかった。
 自分の居場所はここではない。だからと言って、母のいる澄田にあるわけでもない。
 宮ノ杜でもない、澄田でもない、どこかに私の居場所がある。
 そう呟きながら寝た夜も何度かあった。
 だが……。
 
「はい。できましたよ」
 
 ほわりと上がった湯気の中、はるは慎重な手振りで小鉢を置く。
 ──── こいつが居る場所が、今は私の居場所になったのかもしれない。
 
「今日も勇様と進様、茂様は、みなさんで飲みに行かれたそうです」
「は? またか。あいつらもよく飽きんな」
「明日の朝ご飯、少し少な目にしてもいいかもしれません。みなさん、食欲がない、っておっしゃるから」
「はる……」
「はい? なんですか? 正様」
 
 お前がなにも、私の兄弟の世話を焼くことなどない。
 そんなことは、ほかの使用人に任せておけばいい。
 お前は、私の世話だけすればいい。私だけを見ていればいいのだ。

 そう言おうとして、言葉を飲む。
 そこにははるの、私の兄弟の世話が楽しくてたまらないといった風のはるの笑顔があった。
*...*...*
「いかんな。ちょっと飲み過ぎたか」
「大丈夫ですか? 今日はかなり進まれたようで」
「お前の作る小鉢がよかった。あれはつい飲み過ぎる」
 
 小さな身体に支えられるようにして自室へ向かう。
 私とこいつの年の差をふと考える。
 博や雅と年が変わらないという話だったから、二十くらいか? 親子ほどの開きがある。
 中年の下り坂を降りようとしている私と、これから女の実りをつけていくであろう、こいつと。
 
 ふい、とはるの髪が香る。
 私はふとこの身体が欲しくなる。
 
「じゃあ、いそいで食堂の片付けをしてまいります。正様は先にお休みください」
「やれやれ。何度言ったらわかるんだ? お前は使用人ではない。
 そんなものは、タエなり、ほかの使用人にさせればいい」
 
 私はベッドに はるの身体を転がすと、むさぼるように朱い唇を吸う。
 千富に言われて、跡取りのことは多少は考えるようになったが。
 今は子どもを作るという義務ではない。純粋にこいつを抱きたい。
 
「た、正様……。あの、ちょっと、待ってくだ……っ!」
「お前は、私の妻だ。……私だけの使用人なんだ」
 
 愛玩という位置から、一歩進んだ場所。
 酔っているからか。疲れているからか。それとも、本能が、女であるこいつを求めているのか。
 幾度も抱くようになって、少しずつ私に慣れてきた身体が今は愛しい。
 花の香りがする口内を犯すうちに、はるの身体は頼りないほど弱くなる。
 
 私は着物の前を はだけると、指で慣らした はるの中へと突き進んだ。
 
「正様……」
「……っく。お前の中は、何度抱いてもきついな……。かなり、締まる」
「あ、あの! そ、それって、いけないことでしょうか……?」
「馬鹿者。……そんなわけないだろう」
 
 ぐい、と強引に腰を進めると、柔らかな弾力が私自身に絡んでくる。
 以前は何度か痛みを訴えていたが、今はそうでもないらしい。
 何度か注送を繰り返すうち、はるの中の温みは潤滑油となって褥を濡らした。
 
「はる。どうだ? 気持ちいいか?」
 
 女と遊んだことは数あれど、女の反応などろくに見ていなかった私に、
 ある日紀夫が心配顔で顔を近づけてきたことがあった。
 
『なあ、正。お前、ちゃんと はるさんを可愛がってやっているか?』
『ば、馬鹿なことを言うものじゃない! そそそんなの当たり前だろう?』
『ふうん。ならいいけどさ。紅が心配していたからさ』
 
 ったく。あいつらはどうして私やはるを酒のつまみにしてるのか。
 私はいつも、はるのことを想ってる。
 ──── 多分、自分で想っている以上に、こいつのことが愛しい。
 
 はるの最奥に、熱い一点がある。
 そこをやわやわと先端で突く。
 十数回繰り返したとき、はるの身体がぴくりと大きく波打った。
 
「正様……。私、おかしい、です……。奥がしびれて」
「はる……?」
「正様、その、……もっと」
「なんだ? なんでもいいから言ってみろ」
「もっと、もっと……っ」
 
 日頃、独りよがりな私の行為に、はるは取り立てて意見らしいことを言ったことはなかったが……。
 はるの声に有頂天になる。
 
「そうだ……。この褥の中では身分もなにもない。もっと私を求めるんだ」
「正様……。あ……」
 
 がくがくと私に揺すられているはるは、目の焦点を合わせようと俺の顔を見つめる。
 そして動きが止まったことに不安げに身体を震わせた。
 
 
 
 
 
 
「……求めるのが私ばかりというのは不公平だろう?」
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