*...*...* 『カアド』ニ託ス恋ノ唄 (博) *...*...*
「ごめん。ねえ、ごめんってば。ねえ、はる〜。そろそろ機嫌、直して? ね、ね?」
「……別に私、怒ってないもの」
「またまたっ。確かに返事は怒ってないけれど、顔が、顔が怒ってる!」
「だから、博。私は怒ってないの!」
 
 参百円、という、もしかしたら小さな家が一つ買えちゃうんじゃないかというお金で買った『オーブン』が、
 ふつふつと美味しそうな匂いを生み出している。
 エギリスにいたころ、何度も実験した『マフィン』
 慣れれば、粉と『バタア』をほろほろに混ぜ合わせるのも簡単で、あっちにいたときは週に一度は焼いていた。
 まさに、この不格好なパンは、留学時代のおれの相棒といってもいい。
 
 おれはそっと様子をうかがうように横目ではるの顔を盗み見る。
 
 本当におれもとことん馬鹿だったと思うよ。わかってる。
 いくら はるがヱギリスの話を聞きたがったからと言って、おれも『レディファースト』の話なんかしなきゃ良かったんだ。
 エギリスの話は、はるにとってすごく興味が沸く話なんだろう、ってのはわかるんだ。
 
 蒸気の力で動く鉄道。
 『エレキテル』っていう、いろいろなものを動かす『電気』
 この国の伍十年くらい先の未来をエギリスは歩んでいて、そのあたりの話が面白いのは、いいんだ。
 だいたいこの辺の話は、最近は本物を目にすることができるからだろう。
 最近のはるの興味は、エギリスの人たちの暮らしぶり。
 特に、男と女のやりとり、って言ったらいいのかな。
 そのあたりのことを話すと、質問が止まらないんだよね。
 
 大正の御代になって、男女同権、なんて女性の活動家は声高に叫んでいるけれど、
 エギリスを見てきたおれとしては、法律だけ整備したって、人の気持ちがついて行ってない。そんな感じ。
 
 大体、おれと肩を並べて歩いているだけで、はるは千富さんによく叱られてたっけ。
 そんなんじゃ、宮ノ杜家の若奥様として失格です、なんてさ。
 
 あっと、脱線した。ケンカの原因はなんだっけ。
 
 確か、おれがエギリスの話。
 ……男は女を大事にする。
 女は男の三歩後ろを歩く、なんてとんでもない。
 女は男と一緒に歩く。
 家や店には女が先に入るのが、なんだっけ、『マナー』、か。それが、当然。
 椅子を引くのも、荷物を持つのも。ドアーを開けて女を先に通すのも当然。
 あ、そもそも『女』なんて言ったらいけないんだ。
 『Lady』は、『女』じゃなくて『淑女』。
 そう呼ばないといけないんだった。
 
『……博、すごく詳しいのね』
『へへっ。そりゃそうだよ。なにしろ伍年もエギリスにいたんだからね』
『……たくさんの女の人の椅子を引いたり、ドアーを開けたり、したんだ』
『……っと』
 
 さっきの会話を思い出す。
 なにも、おれ、余計なことを言わなきゃよかったんだ。
 はるはどんなときもおれの話を楽しそうに聞いてくれる。
 だから、つい、甘えちゃったんだ。なにを話しても許してくれるって。
 
「そ、そうだ。ほら、さっきおれが作った特製マフィンも焼き上がったよ。
 一緒にお茶にしようよ。このマフィン、焼きたてが一番美味しいんだから」
「博……」
「うん? なに? はる。なんでも言って」
「その……。その、この特製マフィンも、……他の女の人と、食べた?」
「う……」
 
 突然の問いに、おれの眼は言い訳を探すべく、ぐるりと大きく反転する。
 食べた、かな? 食べたような気がする。
 っと、ちょっと待って。
 そもそも、この特製マフィンの作り方を教えてくれたのは、下宿先のテレジアだ。
 テレジア、って言っても、千富と同じくらいの年格好のおばあさんだけど。
 女といえば女、だよね……。
 
「も、もう、博の馬鹿! 意地悪! 私は、伍年間、ずっと博だけを待っていたのに」
「おれだって、そうだよ。そんなの、はるが一番知ってるよね?」
 
 おれは頬に浮かぶ熱を押しやりながら言い返す。
 そうだよ……。
 はると初めてそういうことをした夜だって。
 おれ、女の人とそうすることは初めてだったし。
 もちろん はるもおれが初めてだったから。
 正直、なかなか入らなくて二人とも、思ってもみない苦労をしたんだから!
 
 はるはかなり痛がっていたけれど……。
 はるの訴える痛みの分だけ、愛しさが増した、って言ったら、はるはなんて言うかな。
 
「そ、それは……、その……。知ってる、け、ど」
 
 おれの言ってることを察したのだろう。
 はるはようやく攻撃の手をゆるめると、恥ずかしそうに横目でおれを見上げる。
 
「あ、そうそう。もう一つね、これもエギリスの習慣」
「なあに?」
 
 おれは紅茶と特製マフィンの皿の下に小さな紙を忍ばせる。
 
「エギリスではね、男の人から女の人に『カアド』を書くんだ。
 そうだね、毎日って言ってもいいくらい、すごくたくさん」
「『カアド』……?」
「んー。日本語でいうと手紙みたいなものかな? ねえねえ、これ、読んでみて!」
 
 おれは、日本では最近ようやく鳩居堂で売り出した『カアド』というのを はるの目の前に差し出す。
 初めて書いた『カアド』に込めた書いた文章は、すぐ読めるように、ほんの少し。
 留学先で誘われるままに行った教会で覚えたもの。
 
『これからも、ともに、あるように』
 
 はるは嬉しそうにその文章を読み上げると、ようやく機嫌が直ったのだろう。
 両手で抱きしめるように『カアド』を持ち上げると、いつものように可愛い笑顔を向けた。
 
「ねえねえ、はる。早く一緒にマフィン、食べよう?
 紅茶はフォートナムメイソンのアールグレイを選んでみたんだ。どうかな?」
「ありがとう。すごくいい匂いがする!」
 
 『バタア』。それに、『マーマレード』
 おれは皿のてっぺんに乗っかったマフィンを二つに割る。
 もこもこと盛り上がったマフィンから生まれる湯気は、まさに『特製』
 今日の焼き上がりの成功を伝えてくる。
 
 『カアド』を何度も見つめていたはるは、ふと不思議そうにおれを見上げた。
 
「ね、博……。この下は、なんて書いてあるの?」
「ん?」
「この、下の部分。……最初は飾りかなって思ったんだけど、違うかも。
 以前雅様が読まれていた洋書に、こんなのがあった気がするの」
「ああ。これ? ……それは今夜教えてあげる」
 
 文末に書いた言葉は、日本語じゃない。英語でもない。
 留学のときに、少し聞きかじったフランス語。
 英語さえわけがわからなかったおれだけど、このフランス語のフレーズだけは、優しく耳に馴染んだから覚えてる。
 
『JE TE VEUX』
──── 『君が、欲しい』
 
 おれはいつでもこの言葉をささやけるけど、恥ずかしがってばかりの君にはちょっと無理かな、ってそう思った。
 だからこれからは、『かあど』に託す。君への思いを。
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