あと数ヶ月で帝国大学を卒業する、という春。
 
 卒業論文も大体の目鼻がついたし。
 数年来、大まかな布石を打っておいた宮ノ杜鉄道の収益もまずまずで。
 最後の一つ。まだ、青写真のままになっているゴミとの結婚が終われば、
 僕の人生前半の設計図はほぼ完成、といったところまで来ている。
 
 ……と、ここまでは順調そのもの。
 
 なのに、どうも正月を明けてから、あいつの様子がおかしい。
 あいつがここ、宮ノ杜に来てからずっと、あいつのこと見てきたからわかるけど。
 あいつ、ちょっと腹を立てる程度の問題なら、素直に気持ちを僕にぶつけてくるっていうのに。
 なのに、最近のあいつはおかしい。
 さりげない風を装って、僕と二人きりになるのを避けようとしている。
 
「なに? 千富。僕に縁談? そんな話聞いてないんだけど」
「あら? そうでしたの。おかしいですわね。私は正様からはっきりとお聞きしましたわ」
 
 宮ノ杜家の生き字引のような存在の千富。
 その力は、父さまと平助が亡くなってからさらに堅固なものになった。
 最近体調がよくない、とは聞いていたけれど。やっぱり僕たちの前にくると、気持ちの方が勝るのだろう。
 千富は僕を育てた頃と変わらない威厳を持ったまま、しゃんと背中を伸ばしている。
 
「なんでも、雅様が帝国大学を卒業の春を待って、京都の老舗菓子処のご息女とのご縁談が進んでいるとか。
 私、確かにお聞きしましたわ」
「どうして否定しないのさ。僕にはあいつがいるって、千富だってわかってるでしょ!?
 いいよ。まず僕が正に聞き出してみる。千富、あいつには……」
 
 と言いかけて、口をつぐむ。
 ふうん……。
 ここ数日間のあいつのよそよそしさは、これが原因、かな?  
*...*...* 縁談ノ噂 (雅) *...*...*
「ねえ、正。どういうことなの? 見合いってなに? 僕にはあいつがいるって、正も知っているでしょ?
 なに余計なことしてくれるわけ?」
「あー。その、なんだ」
「いいよ。正の部屋でしっかり聞く。僕が納得する説明をして。わかったね」
 
 二十三時。ほろ酔い気分で帰宅した正を、僕は玄関でつかまえると、一緒に部屋へと向かった。
 正っていくつだっけ? もうすぐ四十路も近いんじゃない。
 最近は仕事が面白いらしく、『俺は仕事と結婚したんだ』なんて馬鹿みたいなことを言ってるけど、
 そうならそうで、一生独身を貫き通せばいいんだ。
 
 正は僕の剣幕に驚くことなく、最近肩が凝るのか、怠そうに首筋に手を当てている。
 
「あー。なんだ。ついに雅の耳にも入ったか」
「ここ数日、卒論の推敲に忙しくて、これでもかなり後手後手に入手した情報だと思ってる。
 一体どういうこと? 僕に縁談? 何考えてるのさ」
「いいじゃないか。この宮ノ杜家は、七人も息子がいるっていうのに、まだ結婚が決まっているのは雅、お前だけだ。
 ここは宮ノ杜存亡の危機を回避するに当たっても、嫁と妾、両方を上手く乗りこなすってのも手だろうが」
「はぁ? お前、馬鹿? 七人息子がいて、一人結婚が決まってるっていうなら、
 普通、結婚が決まった一人を除いた、他の六人にその縁談、回すでしょ?」
「いやー。それが、な」
「はっきり言ってよ。なんなの、もう」
「あー。雅。お前、いくつになった?」
 
 突拍子もないことを言われ、状況を立て直すのに少し時間がかかる。
 僕の歳と縁談に、なにか関連性があるのか?
 
「は? 毎年変わっていく弟の歳なんて、覚えている必要は無いけどさ。
 正と僕の年齢差は変わらないんだから、それだけ覚えておけば?
 僕と正は十八違うよ。だから、今年四十の正の歳から十八引けば僕の歳。わかった!?」
「ふむ……。では雅の歳は二十二、と……。やはり雅しか駄目か」
「は?」
「相手の京菓子屋の娘はな、今年十二歳になる娘で、許容できる年の差は十歳までなんだと。
 だから、お前に白羽の矢が立ったのだ。
 いや、宮ノ杜銀行としてなかなかの優良株でな。この際縁戚になるのは悪くない、と思って、だ。
 なあ。どうだ、雅。考えてみないか? 
 いや、お前がはるを気に入ってるのは知っているからな。はると別れることはないぞ?
 あいつは妾としてお前のそばにおけばいいだろ、な?」
「もう、正の馬鹿! おたんこなす。考えなし!!! 一回死ねば!?」
 
 思いつく限りの罵詈雑言を正にぶつける。
 でも怒りが頂点に達すると、浮かんでくる言葉っていうのはわりと使い慣れた平易なものになるらしい。
 意外にも、自分の声は想像よりも弱く、頼りない。
 
 「……うん?」

 ふと冷静になってドア越しの空気を感じ取る。
 
「誰!? 聞いてるの。出てこいよ」
 
 逃げられるのも癪で、僕は思いきりドアを手前に引っ張る。
 すると二人の男が転がるように部屋になだれ込んできた。
 
「お、お前たち……」
「弟ク〜〜ン。面白そうだから、来ちゃった。なになに、僕も入・れ・て」
「あ、正兄さん、それに雅。遅くまでお疲れさま。
 あ、雅、ごめんね。聞き耳を立てるつもりはなかったんだよ。つい心配になって、だね……。
 あ! 茂兄さん! 正兄さんの部屋で、なに酒盛りの準備始めてるんですか!」
「ふふ、ま・さ・し。こういうときは飲むに限るよ〜。
 君ももう十分成年なんだから〜。飲めない、ってことはないんだから。
 たくさん飲んで〜。いい気分になって〜。雅も、勢いではるちゃんに謝れば大丈夫だよ☆
 ささ、正兄さん、そして、我が弟の進クン。一緒に飲もう! 僕たち、立派な三十路組、なんてねー」
「ま、待ってください。茂兄さん。自分はまだ二十九歳であります!」
「あーーー。もう、付き合いきれない! お前たち、勝手に酒盛りでも心中でもしてればいいんだ!!」
 
 あまりの馬鹿馬鹿しさに付き合いきれなくなって、僕は正の部屋のドアを思い切り閉める。
 ひんやりとした春の空気がガウンを伝って足元へ落ちた。
*...*...*
「……はる、まだ起きてる? 僕だけど」
「は、はい! 雅、さま!?」
「お前の部屋に来る男って、僕だけでしょ? いいから開けてよ」
 
 はると結婚の約束をした秋から、かれこれ伍年。
 実際の夫婦の関係になるのは結婚してから、っていうはるの考えはわかるとしても、
 僕はせめてはるの部屋だけは自分のすぐ隣にしたかったんだけど。
 はるは意外にも、今いる使用人の部屋がいいと主張した。
 
『そそそんな、滅相もございません! 私、今までどおり使用人の部屋で、十分満足です!』
『なに? お前、僕の言うことが聞けないっていうの?』
『その代わり……、代わりじゃないかも……。
 その代わり、私、今まで以上に一生懸命に雅様にお仕えします。それで許してくださいませんか?』
 
 聞けば、こうして使用人として働き出してもうすぐ二年になるということ。
 少しずついろいろなことを学ぶのが楽しくて仕方がないこと。
 千代子様にも仕えてもっと和裁について学びたい。
 それが、将来僕と一緒になるときにも役に立つと信じてる。
 
 なんていうはるの言葉を許しているんだから、僕はかなりあいつには甘いのかもしれない。
 
「お前さ、いろいろ思ってるなら、どうして最初に僕に聞かないわけ?」
「雅様……」
「ここ数日、勝手にため息ついて落ち込んでたでしょ、って言ってるの! そこのところどうなの?」
「それはっ!」
「どうせ正からでも聞いたんでしょう? 僕の縁談話」
 
 さらりと核心に触れると、もう逃げられないと思ったのか、はるの目の端がうっすらと湿り出した。
 
「……その、ね。すごく真実味があったんです。雅様とそのお相手の方はとても年回りがよい、とか」
「拾歳も年下って話だけどね」
「その、雅様と千代子様が展開しようとしている事業に、とても理解のある方だ、とか」
「理解? ああ、京都に支店を持つには好都合かもね」
「それに、大層美しい方だとも」
「拾弐歳の子どもが、綺麗も綺麗じゃないもないでしょ?」
 
 僕は目の前で身体を小さくしているはるを胸の中に閉じ込める。
 伍年前、はると同じくらいの大きさだった僕。
 伍年という時間は確実に僕の身体を男のそれにした。
 抗っているはるの抵抗なんて、なんの役にも立たない。
 むしろ、もがくことで僕の中の劣情に火がついた。
 
「やれやれ。お前の言うこと素直に聞いて、今まで手を出さなかった自分が情けないね」
「雅、さま……?」
「僕とお前、とっくに男女の仲になっていたら、お前はこの話、信じなかったでしょ?」
 
 湿り気をまとった洗い髪から 柔らかなはるの匂いがする。
 白く細い首。それに続くなだらかな肩。
 こいつの匂いを全部思い切り吸い込んだなら、僕の下半身ももう少し大人しくなるかな。
 
「……お前も、もう少しわかってよ」
 
 寝間着の合わせ目にそろりと手を滑らせる。
 はるとの結婚まであと数ヶ月。
 ここまで待ったのだから、あと少し。ここまできたらあとは待つ時間の方が短い。
 なのに、僕が他の女と結婚?
 他の女とこういうことをする、って考えるだけで胸がムカムカしてくる。
 
「ひゃ……っ」
「しー。隣の部屋、たえがいるんでしょ? ──── 静かに」
 
 はだけた胸の谷間には青ざめたように白い肌が広がっている。
 普段の格好なら、多少痕をつけたって、隠れるよね。
 
「雅様、あの、約束……」
「ああ。安心して。最後まではしない。……だけど、僕に物思いをさせた責任だけは取ってもらうよ」
 
 これだけ進んだ世の中になっても、まだ、結婚の前に子どもができるっていうのも、外聞が悪い。
 僕は薄闇の中、つんと上を向いて存在を主張している はるの頂きを口に含む。
 週に二度、三度と可愛がってきたそこは、刺激を待ち受けていたかのように立ち上がる。
 それを見て、僕はようやく少しだけ満足する。
 
 
 
 
 
「これだけ近づいても気持ち悪くならない奴って、お前だけなんだから。
 僕はお前以外は考えられない、ってこと、ちゃんとわかってよね!」
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