「茂さん、見て見て。早速買ってきたのよ。『ジャムの作り方読本』って!」
「ああ、お帰り、はる。思ったより早かったね」
 
 笑いかける俺に、はるは嬉しそうに身体を寄せてくる。
 手には三省堂書店の包み。
 
 ──── 俺たちの住む村で、ジャムを作る。
 
 俺の判断がどこまで正しいかはわからないけれど。
 はるが抱えた本の中に俺たちの未来が託されてるんだと思うと、はるごと抱きかかえたくなるから困るよね。  
*...*...* 障子一枚ノ隔タリ(茂) *...*...*
「俺さ、あまり深く考えないで言っちゃったんだけど。
 そもそも『ジャムの作り方』って本は売っているものなの?」
 
 村長との交渉に時間がかかっている間、少しでも早く『ジャム』の作り方を勉強したいという はるの意見を聞いて、
 俺は、はると、ちょうど用事があると言っていた静子さんを東京に送った。
 そして2日後の夜、俺たちはこうして台所の鍋の前、恭しく はるの買ってきた本を開いている。
 ぱりぱりと広げる包装紙からは東京の匂いがする。
 
「はい……。本のことは私もよく分からなくて。
 まず先に、用事を済ませよう、と思って、宮ノ杜のお屋敷に行ったんです。
 そうしたら、そこで博様と雅様にお会いして」
「そうだったの。弟クンたちは元気だった?」
「はい! 久しぶりにお会いしたからでしょうか? たくさんお話してくださいましたよ!」
 
 はるはくるりと黒目を動かすと、千富の様子やら、弟たちの話を聞かせてくれる。
 弟たち。お屋敷、宮ノ杜。東京。紅ちゃんや、お酒の匂い。
 断片的に浮かんでくる感情は、それらが俺の中ですでに過去のものになっていることを知らせてくる。
 
 近くて遠い、っていうのはこういうことを言うのかな。
 俺が育ってきた宮ノ杜に、今、俺の身体は無く。
 今、俺が必要にされているのは、宮ノ杜の息子としての俺じゃなく。
 もちろん揚羽としての俺でもない。はるの実家、浅木家での茂なんだ、ってね。
 
「……でね、ジャムのお話を博様、雅様に聞いてもらったら、お二人で大騒ぎになってしまって……」
「どうして? なにも弟クンたちが大騒ぎすることないじゃない?」
「いえ……。あの、博様は、確かヱギリスでは、機械、というのですか? ジャムを作る工場があるんですって。
 そして、雅様は、確かロシアから取り寄せた小説の中に『ジャム』のことに触れているとか、で。
 ヱギリスとロシアのジャムの違い、というのか、どちらのジャムが優れているかで口論になってしまって」
「あはは! まったくあの子たちも変わってないなあ」
 
 はると結婚してから思うこと。
 それは、俺が暮らしてきた宮ノ杜家というのは、世間から見てかなり特殊な環境下にあったってことだ。
 もっとも、揚羽で見聞きして得た知識からも、そのことは理解できたけれど。
 理解できたからと言って、だから普通の暮らしはどういうものかということまで考えたことはなかった。
 
 朝は太陽とともに目覚めること。夜は早々に眠ること。
 毎朝、毎晩、家族で同じご飯を食べること。
 風呂の時間を相談しながら決めること。
 判で付いたような当たり前の日常が、こんなにも愛しいなんて、知らなかったんだよね。
 
「……さん。茂さん? 大丈夫? 疲れてるなら、ジャム作りはまた明日にしても……」
「ううん? 大丈夫だよ。……ただ、君の声を聞いていたら、幸せだなあって思ってただけ」
「は、はい??」
「俺とはるの未来がかかってるんだ。ちゃんと聞くよ。ただし……」
「ただし……? 正様?」
「だーー。違う! 違うの。……はる、こっちおいで」
 
 俺は本を抱えるはるをそっくり抱きかかえると、彼女の肩越しに本を見つめた。
 結婚すると、女は変わるというけれど、確かに はるは変わった。
 みるみるうちに光り出した、というべきか。
 薄闇の中でもぼんやりと光る面輪。匂やかな頬や、それこそ苺のような赤い唇。
 今、服で隠されている胸の先も、こんな色をしているのだろうか、と、ふと夜のことを考える。
 
「あ、それでね、あの、続きです……。
 三省堂書店に雅様が付き合ってくださって、この本を選んでくださったんですよ?」
「ふうん。これが、その本なんだ……。って はる。これ、洋書だよね?」
「はい。今、三省堂書店が扱っている本で、ジャムの作り方が書いてある本は、これだけなんですって。
 それでね。凄いんです。この本を見て、雅様がさらさらと作り方を書いてくれたんです!」
 
 よほど嬉しかったのだろう。
 はるは雅から渡された紙を丁寧に広げると、本の隣りに置いた。
 
「えっと、手順は、一番から五番までありますね。材料は、苺、と、砂糖、と……。檸檬?
 檸檬って、用意できるかな? 檸檬がなくても作れるのでしょうか?」
「んー。檸檬ねえ。確か静子さんのお店で、刺身のつまに出ていた気はするけどね。
 あとで、静子さんに聞いてみようか」
「はい! それで……。全部の材料を混ぜて、一時間そのままにしてから、火にかけるのね。
 で、弱火にして灰汁を取り除いて。三十分煮詰めるべし、と。」
「なるほどねえ。ねえ、はる。配合なんかは、いろいろ試してみてさ。浅木家独特の配合が見つかるといいよね」
「配合、ですか?」
 
 はるは不思議そうに振り返る。
 俺の短い髪にまだ慣れないのか、ときどき視線が肩に行ったり耳に行ったりするのが少し可笑しい。
 
「そうだよ。ジャム作りだって、料理の一つ。料理にはいろいろな作り方があるだろう?
 今聞いた作り方はこの本を作った人の作り方に過ぎないわけよ。
 苺と砂糖の割合。檸檬を入れるか入れないか。煮詰める時間。
 いろいろな条件で作り比べをするのもいいかもしれないね」
「わあ、なんだか面白そうです!」
「それに、今朝お義父さんから聞いた話だけど、苺も収穫時期が決まっているから……。
 苺以外のジャムの作り方も挑戦しなくちゃね。蜜柑のジャムとか梅のジャムとかね」
 
 一気に多くのことを言ったからだろう。
 はるは忘れまいとするかのように何度も何度も頷いている。
*...*...*
「じゃあ、茂さん、お休みなさい。早速明日母さんと一緒に、ジャム、作ってみますね!」
 
 十三夜の月が冴え冴えと床の間を照らす。
 東京から、ここ はるの実家までは夜行で一晩。
 帰ってきてすぐ、実家に挨拶に行って。タエちゃん、フミちゃんと遊んで。
 新居に戻ってきてからは、俺と一緒にジャムの本を読んで。
 
 ……はるが疲れてるのは、俺、よく判っているのに。
 
 今日もこの子は、するすると俺との間を薄い障子で隔てる。
 
『母さんから、言われてるの。いくら結婚したとはいえ、茂さんは宮ノ杜の方。どう考えても主従の関係の方。
 夜は、夜、は……』
『はる?』
『その、……別々にお床を引きなさいね、って』
『あはは。馬鹿だなあ。そんなの、俺たちが言わなかったらわからないじゃない。だから……、おいで?』
 
 一緒に暮らし始めてもうすぐ半年。
 俺ははるの全部を知っているつもりだし、俺自身もはるに全部を見せているつもりだけど。
 求めすぎて、疲れ果てた夜も、はるは朝方うとうとと自分の布団へ戻っていく。
 その律儀さは可愛らしいと思うと同時に。
 この子を俺の思いのままに乱して、いつかは、僕の褥で一緒に朝を迎えさせたいとも思う。
 
「はる……。起きてる?」
「あ、はい。まだ……」
「疲れてない?」
「ううん。……あ、疲れてるかも、だけど……。なんだか、私、興奮してしまって」
 
 身じろぎしたのだろう。
 障子を隔てた はるの身体からは、ふわりと優しい香りが立ち上る。
 
「このジャム作りが上手く行ったら、父さんや母さんも安心して暮らせるかな……」
「……そうだねえ」
「静子さまも喜んでくださるかな……」
「うん。そりゃあもう」
「雅様がおっしゃっていました。『ジャムパン、上手くできたら食べてやらなくもないからね』って」
「ははっ。あの子はもう、いつになっても素直じゃないねえ」
 
 隔てることで。顔を見ないことで出てくる本音もあるのだろう。
 こういうときの はるはよりいっそう緩やかな声になる。
 
「……その、ね。私、ジャム作り、成功すればしたで嬉しいんですけど、もしもね、もしも、成功しなくても……」
「成功しなくても……?」
「──── 茂さんと一緒にいられるなら、もう、十分幸せかも」
 
 こんな風に、障子を隔てた はるからは思ってもみない言葉が飛び出す。
 
「はる。……こっちにおいで?」
 
 声を掛けたとたん、はるの影はきゅっと固まる。
 これから満月に向かう三日間。
 月の光で影ができることを、俺はこの村に来て初めて知った。
 
「そんな可愛いこと言われて、君をそのままにしておけると思う? ……ねえ、来て?」
 
 つい、甘えるような声が出る。
 はるを誘うため? それとも俺自身が甘えてるのかな。  
 
 
 
 俺の褥に来ることがどういう意味なのか、はるは身体で知っているのだろう。
 障子に はるの影が大きく揺れた。