「もう! まったくあんたって本当にじれったいわね。なに、喜助さんに良いように言い含められちゃってるわけ!?」
「た、たえちゃん! しーーっ。こ、声が……っ」
 
 低く、迫力のある声が耳元に響く。
 あわててたえちゃんの口を塞ごうとしたら、あっさりとその手を握り返された。
 たえちゃんてば、細いのに、力がある。
 
「考えてもみなさいよ! 結婚もしないで逢い引きだけしてる、って男の良いところ取りじゃない。
 男の気持ちが変わったら、男は自由、あんたは傷物ってことよ!? 
 ふんっ。あんたも私と一緒で一生行かず後家ね」
「あ、たえちゃん、結婚しないんだ……」
「うるさいわね。喜助さんとは別れちゃったわ、それで子どもまでできちゃった、なんてことになったら、
 あんた一体どうする気よ?」
「どうする、って、……どうしよう?」
「馬鹿! 私に聞いてどうするのよ!? ,
 すぐ仕事を辞めて結婚するか。それとも、この結婚を断って仕事に生きるか。
 ようはその二択でしょうが」
 
 たえちゃんの口からはポンポンと威勢のいい言葉が飛び出す。
 まったく腹が立たないのは、今、自分が心に納めていることを理路整然と説明してくれたから、だと思う。
 
 だけど、これだけ私のことを知り尽くしているたえちゃんも、気づいていないことがある。
 ──── それは私が、今の仕事も、そして喜助さんのことも諦めたくない、って思っていることだ。
 
 なにも言わない私に不安になったのだろう。
 たえちゃんは少しだけ口調を和らげると、私にとにかく喜助さんとしっかり話し合うように、とだけ言った。  
*...*...* 対等デアルコト (喜助) *...*...*
「そうか。おはるちゃんもおたえちゃんに言われちゃったか」
「はい……。あれ? おはるちゃんも、ってことは、喜助さんも? たえちゃんに……」
 
 なにか言われたんですか? と言いかけると、喜助さんは否定の意味を込めてブンブンと顔の前で手を振った。
 
「いんや。おたえちゃんには言われてないけれど、あの宮ノ杜のご兄弟になあ。
 いろいろ聞かれて、今日も逃げ出してきたところさ。
 まったくあのご兄弟と来たら、へんなところで協力体制が万全なんだよなあ」
 
 喜助さんは、ぽりぽりと頭の後ろを引っ掻く。
 夕方の宮ノ杜家の中庭。
 私はそれこそ山のようにある洗濯物の仕分けに必死だ。
 以前、博様の下着を雅様の洗濯物に分類したら、すごい勢いで叱られたもの。
 今日は、失敗がないように気をつけなきゃ!
 
「まあ、いろいろ言われちまったわけよ。
 『貴様は恋愛結婚を実行しようとしているのだな』とか、
 『人の気持ちは移ろいやすきもの。新しき世とはいえ、貴様も難儀な道を選ぶものだ』とかなー」
「あはは。その話し方は、多分、守様かな?」
「おう、大当たりだ」
 
 親が決めた縁じゃなく、お互いがお互いを求めて、結婚する。
 それだけでもこの時代では珍しい、っていうのに。
 喜助さんと私は、もっと大それたことをしようとしている。
 それは、『すぐには結婚しないこと』
 
 喜助さんは玄一郎様付きの情報屋の仕事を、もう一頑張りする。
 私は、契約期間いっぱいの弐年間はしっかり宮ノ杜家の使用人をする。
 その間は、キネマを見たり、芝居を見たり。
 お互いをもっと知るための時間に使えたらいいね。
 
 喜助さんの意見に初めはすごく驚いたけれど。
 喜助さんのことが大切で。宮ノ杜のでの生活もそれと同じくらい大切に思っている私に、特に異論はなかった。
 でも、こんな風に二人の間では納得していることが、周囲の人にはとても異様に映るみたい。
 
『はる。わたくしは自分のことをあなたの東京の母だと自負しています。
 でもね、今回のあなたと喜助さんとの取り決めには、納得が行きません。
 お互いの気持ちが変わらないのであれば、すぐにでも結婚すればいいではありませんか』
 
 玄一郎様が病むにつれ、心持ち顔の線が鋭くなった千富さんは、私の報告に厳しい口調でそう言った。
 
 今の使用人の仕事が続けたい。
 それで、喜助さんとも一緒にいたい。
 この両方を叶えるのは、大正の時代になった今でも難しいというのはよくわかる。
 だけど、どっちも、って願っちゃいけないのかな。
 女の人は、家庭を持ったら、その他のいろいろなことを諦めなきゃいけないくなるの……?
 
「そうか。おはるちゃんにも苦労かけてるなあ」
「あの! いいんです。結婚がすべてではないし、私、喜助さんを信じています」
 
 困ったように眉を八の字にしている喜助さんに、私は早口で言い募る。
 喜助さんを困らせたいんじゃない。
 どちらかといえば、これは私の問題。私が仕事を辞めたくない、って言ってることが原因なんだもの。
 
「俺さあ、新聞社に勤めてるときから思ってたことがあるんだけど」
「はい。……どんなこと?」
 
 真剣な口調に私は手を止めて喜助さんに見入る。
 取っつきやすい優しい顔。声。
 1年と少し前、喜助さんに出会わなかったら、私、今頃どうしてたんだろう。
 
「──── 俺は、男と女って対等であるべきだって思ってるんだな、これが」
「対等……?」
「そ。対等。今度の衆議院議員選挙法改正だって、俺は本当は気に入らねえ。
 すべての男に選挙権が与えられたのはいいこったけどよ、
 本音を言やあ、すべての女にも与えられるべきだろうよ。
 男は女から産まれるんだ。男っていうだけでそんなエラそうなこと言えた義理じゃないだろ?」
 
 突然話が難しい方向に行ってしまったみたいで、私はぽかんと喜助さんを見つめる。
 対等……。男と、女が、対等。
 母さんに言わせれば、母さんの時代は男女で肩を並べてあることさえ、女が責められていたらしい。
 それを思えば、今は、……少なくともここ東京では、そのことを非難する人はいない。
 少しずつ、時が、進んでいる、ってことなのかな。
 
「おはるちゃんも俺も互いにすべきことがある。だったらそれを優先すべきだろ?
 ……急がず少しずつ判ってやりたいんだ。お前さんのことをな」
 
 喜助さんは屈託のない顔で私の頭に、ぽん、と手を置いた。
*...*...*
 それから数日。
 なにか言いたげな千富さんと、眼光鋭いたえちゃんに囲まれて、私はわざと仕事を作ってはあちこち飛び回っていた。
 
 ──── やっぱり、私、使用人の仕事、好きだなあ。
 
 実家にいたときはそれほど思わなかったけど。
 最近は、手応え、っていうのかな。
 宮ノ杜のご兄弟が声をかけてくださることが、飛び上がるほど嬉しい。
 もっと工夫したら、もっと早くできるかな。綺麗になるかな。
 宮ノ杜のご兄弟に喜んでもらえるかな、って考えることが楽しい。
 
『はる。秋の薔薇は香りが強いんだよ。その分、棘も強い。気をつけたまえ』
 
 中庭にいると、加賀野さんの独り言が聞こえるような気がする。
 あまり庭のことには興味がなさそうなのに、加賀野さんは薔薇にはとても詳しい。
 この季節は、薔薇の刺で服を破いちゃうことを気にしてか、使用人のみんなは中庭の掃除を嫌がる。
 人少ななこの場所は、考えごとにぴったりだ。
 
(喜助さん……)
 
 今、喜助さんと私が選んだ道に、不安がない、って言ったら嘘になる。
 だけど、信じたい。自分のことも、喜助さんのことも。これから先の二人のことも。
 いつか、たえちゃんにも判ってもらって。千富さんにも安心してもらって。
 みんなに祝福されながら、喜助さんと一緒に生きていけたら、どんなにいいだろう……。
 
「おはるちゃん!」
「わっ!! や、なに……?」
「てやんでぃ、お前さんがそんなに驚くから俺まで一緒に驚いたじゃねえかよ」
「あ、喜助さん! ……知らなかった、そこにいたなんて」
「白い髪飾り、ってか、あーなんだったかな。この前、雅様から聞いたんだった。
 えーっと、『ヘッドドレス』だったか。薔薇の中、お前さんの頭に付けてる白いのがチラチラ見えたから、こっち来たんだ」
 
 走ってきたのかな。喜助さんは息を乱しながら、おもむろに私の手を取る。
 
「な、なんでしょう……?」
「お前さんの不安な顔を見るのは本意じゃないからさ。約束ってやつをしておこうか」
「約束……。なんの?」
「これさ。婚約指輪」
 
 ぐぐ、っと薬指に銀色の輪っかが はめられていく。
 確かこれ、私が喜助さんに贈った、縁結びの神様の輪っか……?
 
 あの頃は、まだ喜助さんの気持ちに気づいてなくて。
 喜助さんに良縁が訪れますように。仕事も上手く行きますように。
 そんな思いを込めて渡したもの。
 
 ──── これが、婚約。
 結婚の、約束。
 
 なんでもない飴色の輪は、まるで誂(あつら)えたかのように、ぴったりと私の指に納まっている。
 
「って、おい、おはるちゃん。なに、目、赤くしてるんだよ。俺、なんか失敗しちまったか!?」
「う、ううん! ごめんなさい。やっぱり何か形があるものがそばにあると安心します」
「おう! そりゃ良かったぜ。それと、もう一つ。これ」
 
 顔を赤らめながら喜助さんは、今度は私の右手に何かを握らせる。
 小さな、銀色の鍵。チロチロと鳴るのは、鍵に付いている金色の鈴。
 
「鍵……?」
「俺んとこの鍵。いつでもお前さんの好きなときにくるといい。
 ……まあ、俺もこういうこと初めてだしさ。上手く言えねえけどよ」
「はい……」
「お前さんと、これから結婚までの間にさ、いい思い出いっぱい作ってさ。
 結婚して大変になったときとか、そ、そうだ。病気はする予定ないけどよ。
 病気になったときとか、辛いときなんかにさ、思い出して元気になるってのはどうかなってさ」
 
 
 今も好き。
 だけど、この好きをずっと繋げていって、その先。
 一緒の家に帰らないことが、淋しいって思ったとき。
 きっと、もっと一緒にいたいって本当に思えたとき、私と喜助さんは結婚するのかな。
 
「喜助さん……。あの、これからもよろしくお願いします」
「おうよ! 任せとけって」
 
 
 
 
 喜助さんは初めて会ったときと変わらない、からりとした表情で笑っている。
 それが嬉しくて、私は薔薇で身体が隠れていることをいいことに、喜助さんの肩口に顔を埋めた。
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