うー。
 一歩歩くたびに、小さな振動が頭の中でこだまするのか、後頭部ががんがんする。
 なんだ? 風邪を引いた はるを看病した、といえば聞こえはいいが。
 なんのことはない。肝心なところは千富やほかの使用人が手際よくやってしまって。
 私がしたことといえば、はるの顔を眺めながら、財務論の本を数冊読んだ、というだけだというのに。
 どうして、こんなにも視界が回るのか……。
 
「正さま、お顔が真っ赤ですよ!? 大丈夫ですか?」
「こら! 大きな声で話しかけるな! ……っ。駄目だ。目が回る……」
「あ、あの! 今日は、銀行はお休みにして、このままお部屋に戻りましょう? ね?」
 
 細い腕がいきなり私の身体を反転させる。
 普段の私なら、こんな簡単に はるの言いなりにはならないというのに……。
 この私がなんたること! 足元もおぼつかないとは。
 
「ちょっと、はる! ……じゃない、奥さま! アンタ、どうしてアタシを呼ばないのよ!?」
「たえちゃん! ……よかったー。一人じゃ運べないからどうしようかと思ってたの」
「お前たち……」
 
 まったく。
 たえ。朋輩とはいえ、今はこの宮ノ杜家当主の奥方に向かって、その物言いはないだろう。
 はる。お前もお前だ。
 もう少し、宮ノ杜としての品格を持ってだな。
 それに、なんだ?
 『運べない』などと、人を荷物のように扱うとは、一体どういう了見なんだ!
 
「しーーっ。なにも話さなくていいですよ? 今から、お部屋に行きますね」
 
 頭痛の間を縫うように浮かんできた言葉は、口から飛び出すことなく、私の中に吸い込まれていく。  
*...*...* 命令範囲外 (正) *...*...*
 ……なんとなく、医者の往診があったような気がする。
 それに、なんとなく、着替えもしたような気もする。それも2回もだ。
 さらに言えば、ふわりと卵の浮いた『かゆ』のような味が唇に残っている。
 
 痛みを恐れて微かに頭を振る。
 というか、今は何時なのだろう。
 窓の外の明るさからして、陽がある時間だということはわかる。
 だが、それが果たして夕方なのか、明け方なのか。
 
「……正さま。目が覚めましたか?」
「……ああ。……そういえば、銀行は……」
「銀行には、朝一番にご連絡しました」
 
 はるは私に顔を近づけると、頭痛を気遣うように小さな声で囁いた。
 
「今日は御用納めだとかで、みなさん半日でお帰りになったようです。
 秘書の方が『よいお年をお過ごしくださいませ』と」
「……ああ」
「あと、紀夫さまからもお見舞いのお電話をいただきました。『鬼の霍乱だな』と」
「は!? なんだと! あいつはすぐそういう憎まれ口を……。……っ!!」
 
 怒りに任せて半身を起こす。
 すると横になっているときには感じなかった激痛が、頭の中で鐘を鳴らす。
 
「だ、駄目ですよ。まだ、ゆっくり……。二、三日、安静にしていればすぐ良くなりますよ、ってお医者さまが」
 
 はるは私の背中に手を添えると、壊れ物を扱うかのようにゆっくりと私をベッドに戻した。
 冷えないように、と、掛け布団。
 さらに、肩口から風が入らないようにと、はたはたと隙間を埋めるように掛け布団を整えている。
 
(母上……)
 
 いつだったか。
 幼い頃、健康優良児であった私は、風邪で寝付いた、という記憶はなかったが。
 それでも尋常小学校に上がった1年生の頃、スペイン風邪に罹って、ひどい目にあったことは覚えている。
 常日頃は千富が私の世話をしていたが。
 小さい身体で熱に耐えている私を不憫に思ったのだろう。
 父上の不在の間を縫って、夜更けに母上がこの宮ノ杜に尋ねてきたことがあった。
 
『まったく……。澄田を背負って立つ人間がこのような弱いことでどうしますか?』
『ごめんなさい、母上』
『謝っていただかなくて結構です。それよりももっと丈夫な男子になるように』
『……丈夫になります。丈夫になるから……、なるから』
『なるから……。なんですか? 正さん』
『……ぼくを嫌いにならないで』
 
 言葉とは裏腹の、気遣わしい視線の揺らぎ。布団を押さえる手つき。
 その頃はすでに病も収束に向かっていたが。
 幼心に、こんな風に母の来訪があるのなら、もう一度風邪を引きたいとさえ思った。
 
「夜にもこのお薬を飲むようにと、お医者さまから指示がありました。もう少ししたら飲みましょうね」
 
 頭を動かすことで痛みが走ることを知っているのか、はるは私の目の前で薬を見せると、そっとサイドテーブルに戻す。
 
「はる」
「はい。なんですか?」
「……はる」
「はい……」
「──── いいものだな」
 
 『返事が返ってくる、というのは』

 言いかけた言葉がやけに女々しく感じられて、私は目を閉じる。
 
 夜中にただ一度だけ宮ノ杜の屋敷にやってきた母上は、あれから二度とここに来ることはなかった。
 いや、あの熱のあった夜中に見た母上の像は、もしかしたら、私の願望に過ぎなくて。
 現実は、母上の来訪はなかったのかもしれない。
 朝、目覚めたとき、すでに母上の姿はなく。
 千富はいつもと寸分違わぬ動作で、医者を連れて私の部屋に入ってきた。
 
「正さま……」
「うん? ……なんだ」
 
 薄目を開けて、声がする方に顔を向けると、そこには、至極真面目な顔をしたはるが私を覗き込んでいた。
 おもむろに布団の中から私の手を引っ張り出す。
 そして、小さな両手で私の手を握りしめると、ゆっくりと持ち上げ、頬ずりをする。
 
「大丈夫です。私、ちゃんと、ここにいます」
「はる……?」
「離れろ、って言われても、離れませんから」
 
 
 
 結婚して、もうすぐ1年。
 気づけば はるは、私が求める以上のものを与えてくれる。
 それは、私が心の奥底で欲している言葉だったり、態度だったり。
 少年の頃に願っても叶えられなかった、ちょっとした憧憬だったりする。
 
「はる……。正月になにかしたいことはあるか?」
「正月、ですか……?」
「なんでもいい。なにか考えておけ」
 
 宝石も。高価な服もなにも要らない、という こいつにしてやれること。
 重い頭では妙案も浮かばない。
 こんな調子ではまた雅に呆れ口調で文句を言われるだろうが、今回は甘んじて受けてやる。
 あいつも、なんだかんだ言って はるのことを大切に思ってくれているのだから。
 
 
 
 私は はるの手に導かれるようにして穏やかな眠りに入っていった。
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