*...*...* 少しだけの高望み (雅) *...*...*
男性にしては小柄なかたなのだろう。この春、帝国大学を卒業された雅さまは、飄々と市井の人混みを縫うように歩いていく。
『卒業記念に買いたいものがあるんだよ』
『そうでございますか。ご卒業、本当におめでとうございます!』
すぐ上の博さまが卒業されたときに知ったこと。
なんでも帝国大学を主席で卒業する方は、天皇陛下から金の懐中時計を拝受するらしい。
それはもちろん、その年でただお一人。
だから、残念だけどただお一人に叶わなかった人たちは、自身で懐中時計を求める。
私からすると帝国大学卒業の方なんて、雲の上の方。
これだけいる東京の人間の内、ほんの少しだと思うのに。
この時期は、銀座の金時計はどこも売り切れになるらしい。
(雅様も懐中時計を買いにいらっしゃったのかしら?)
雅様の足取りが銀座に向かうのを知って、私は頭の中で財布の中身を数える。
『雅さまとともに』
そう信じてもうすぐ7年目の春。
少しずつ貯めていたお給金も、半分以上は仕送りをしていたとはいえ、びっくりする額になっている。
だ、だけど……。
反物一枚、しゅうくりいむ一個の値段なら空で言えるようになったけれど、時計、って、時計って……。
お値段ってどれくらいなのかしら?
もしかしたら、私の田舎の土地が買えちゃったりするのかしら?
*...*...*
(どうしよう…)必死で計算してみたけれど、どうしたって金時計を買うほど、私のお給金はないよう、な、気がする。
ってそもそも、金時計のお値段がわからない以上、これ以上考えたって仕方ないのはわかってるけど。
そうだ……。
弐十年近く前、帝国大学を首席で卒業された正様の胸ぽけっとを思い出す。
きちんと手入れされた金時計と。それに繋がる、これも手入れが行き届いた鎖が、チラチラしている。
正さまの専属になった同僚が言ってたっけ。
どんなに遅くお帰りでも、正さまは金時計のお世話だけは怠らないのよ、って。
……私も、金時計は無理でも、金の鎖なら、なんとかなるのかな。
「って、お前、どうしたのさ? なにそんな風にトボトボ歩いてるわけ?」
「あ、いえ。すみません、雅さま」
「お前のそういうときって、なにかとんでもない悪巧みを考えているときだと思うけど」
「はい!? いえ、そんな、滅相もございませんです! あはは……っ」
図星を指されて、慌てて申し訳程度に笑い声を添えてみたけれど。
やっぱり、というか、案の定、というか、雅さまは不機嫌そうに私を見返してくる。
「あ、あの! その、卒業記念のことですが……。金の鎖はいかがでしょう?」
「……は?」
「金の鎖だったら、私でもなんとか手が届くかも、です。行きましょう!」
「うわっ。お前、なにいきなり僕の手を引っぱるわけ? わけわからないんだけど!!」
「確かね、懐中時計の専門店、日新堂はこっちだったかと」
私は雅さまの手を引っ張りながら、銀座の街を走り抜ける。
大正の時代も十年を過ぎて、明治の時代よりも男女の関係を厳しく言う人は少なくなったけれど。
やっぱりこうして二人で手を繋いで駆け抜けるのは、少し勇気が要る。
──── だけど、やっぱり嬉しい。
雅さまとこうして一緒にいられること。
雅さまが無事、帝国大学を卒業されたこと。
なにもかも、嬉しい。
一緒にいたい、と願うようになってかれこれ七年。
ずっと『高望みかも』と自分を戒めてた雅さまと、この春私は結婚する。
「もーー! お前ってどうしてそんなに向こう見ずなの? なに考えてるの!!」
二つの大きな通りを通り過ぎ、ようやく握っていた手を離すと、雅さまはうっすらと上気した顔で私を睨みつけた。
「ごめんなさい。……でも、私、すごく楽しかったです! 雅さまは? 楽しくなかったですか?」
ちょっと……。ううん、かなり図々しいかも、だけど。
卒業記念の金時計は雅さまご自身で頑張っていただくと、して。
私は、その金時計とぽけっとを繋ぐ金の鎖、というのかな?
もっと別の言い方があるかも、だけど。
その『金の鎖』を私からの贈り物にしたらどうだろう。
優しい雅さまのことだもの。きっとずっと使ってくれる。
正さまみたいに、毎日丁寧に使ってくれる。そんな気がする。
「ま、まあ、さ。……お前が楽しかったなら、いいけど」
「はい? 雅さま?」
「馬鹿! 同じことを二度言うほど、僕はお人好しじゃないんだよ。聞き漏らすお前が悪いんだ! 馬鹿馬鹿馬鹿!」
「あ、……久しぶりにお聞きした気がします……。馬鹿三連打……」
「お、お前、馬鹿!? 『馬鹿』って何回言ったかなんて数えなくていいの!」
「……はい」
畏まって返事をすると、ようやく呼吸が整ってきたのか、雅さまはふと真面目そうな顔になって、私の顔を覗き込んだ。
「……なるほどね。ま、品物に関しては偶然の一致を見た、といったところかな」
「雅さま……?」
「お前、『賢者の贈り物』って話、知ってる?」
いいえ、という思いをこめて首を振ると、雅さまは丁寧に説明をしてくれる。
貧しい夫婦が、それぞれの相手に『くりすますぷれぜんと』を買おうと考える。
妻は夫が大事にしている金時計を吊す鎖を、夫は妻が欲しがっていた鼈甲の櫛を贈りたいと思うが二人にはお金がない。
相手の喜ぶ顔が見たい。
そう思った夫は金時計を質に入れ、妻は長い髪を切る。
「そ、それでどうなったんですか?
あの……。せっかく考えた贈り物なのに、鎖をつける金時計もなければ、櫛を飾る髪もないなんて……」
可哀想、と言いかけた唇を封じるように雅さまの細い指が落ちてくる。
「──── 作者はね、この愚かとも言える行き違いを、もっとも賢明な二人だったと言っているんだ」
「賢明……」
「お前も、そうだろ? 僕のことを考えて金の鎖を買おう、って考えてくれたんだろう?」
怒られるのが怖くて、つい口ごもりがちになる心の内。
それを雅さまは、『げえむ』の謎解きをするかのように楽しそうに解いていく。
「多分、お前は僕が卒業記念の金時計を買いに来た、と考えた」
「え、えっと……」
「いいよ。別に答えなくても。お前の顔見てたら、正解かどうかわかるから。
だけど、お前は金時計の値段がわからない。きっと高価なものだろうから自分では買えないと判断した」
「う……」
「ま、金時計本体はこの僕が買うとして、お前はその金時計につける鎖を買おうとした。……こんなところかな」
「その、……当たりです。それも、大当たり、です!」
「ははっ」
まるで観劇の後のようにぱちぱちと手を叩くと、雅さまはくすぐったそうに笑う。
こういうときの雅さまはすごく子どもっぽい。
たえやふみも、褒めたとき、こんな顔をする。
誇らしげな、それでいて恥ずかしそうな。
そしてそんな雅さまの顔がとても好きな自分もいる。
数秒か。数分か。
束の間、お互いの顔を見つめ合ったあと、雅さまは意地悪そうに眼を細めた。
「……だけどね、お前の考えにも一つ誤りがあるよ。わかる?」
「はい? ……どこだろう……。全部、雅さまにはお見通しだったはずですが」
どうにも思い浮かばなくて額に手を当て考えていると、頭上から呆れたような声がした。
「僕が『卒業記念に買いたいもの』っていうのは、『お前の欲しいもの』なの」
「はい? あれ? だって、金時計を買いにいらしたのでは?」
「金時計なんて買う必要ないんだよ」
「え? だって……。あれ?」
「……この僕が、帝国大学を首席で卒業しないなんて、考えられないでしょ?」