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*...*...* 名前の付けられない感情 *...*...*
 「ったく、イヤになっちゃうね。文明開化から50年と少し、だっけ? なのに大日本帝国は、諸外国と比べてこんなに遅れてるんだ」
 
 僕は紀伊国屋に取り寄せさせたヱギリスの法律書を脇に置くと、小さく息をついた。
 まったく。僕のこんな言葉を聞けば、正は端正な顔を口元だけ醜く歪めて同意するだろうし、 勇に至っては、軍隊なんてまるで興味の無い僕に軍国主義を語るだろうし。 ああ、こういうときは肩肘張らずに話せる博がいいな。博だったら、もっとおおらかで子どもじみた反応を示すだろう。
 
『ねえ、雅。知ってた!? ヱギリスでは、東京で走っている市電みたいなのが、地下……。 地面の中をモグラみたいに走ってるんだって! 地下にね、駅みたいなのがあるんだって』
『ふぅん……』
『あれ? どうして? どうして雅、驚かないの? 地下だよ? 地下に市電が走るんだよ? 進兄さんはまるで信じてくれないし、茂兄さんにいたっては、『博、お前なにか頭に良くないモノを食べたの?』って言うし!』
『別に、驚くほどのことじゃない。地下に市電。最近増えてきた自家用車との共存を考えれば、むしろ適切だとも僕は思う』
『へぇ……』
『社会学、っていうの? 東京も江戸の時代から、もっとわかりやすい街造りを目指すべきだったね。京都みたいにさ』
 
 京都。……母親とかいうオンナの住んでいる街。そんな理由もあって元々好きにはなれない街でもあったけれど、 南北東西に碁盤の目のように広がる街の整然とした成り立ちが好きだ。初めて来た人間だって、大まかな説明を受ければ、 初めていく場所にだって簡単に辿り着く。……そうだ、アイツだって説明されたら、オロオロしながらでも辿り着けるんじゃないか?  で、きっと、辿り着いたら辿り着いたで、零れそうな笑顔で笑うんだ。『雅さま。雅さまのおかげです! ありがとうございました!』ってさ。
 
(アイツ……)
 
 初めは視界に入るのも腹が立つ存在だった。ちょっと意地悪をしてやれば簡単に辞めると思っていた。 なのに、アイツは僕のどんな意地悪にも屈しない。……あーーー。もう、ますます腹が立つのが止められないんだけど!
 
「……雅さま……? あの、失礼します」
 
 コン、と1回。それに、間を置いて、続けて2回。控えめなノックの音がする。 ちょうどカフェラテが飲みたいと思っていたときなのがますます腹立たしい。 たとえアイツがどんな飲み物を持ってきたって、僕はアイツなんかの手中に納まる気はないんだからね!!
 
「もう、なんなの!?」
「あの、カフェラッツェをお持ちするようにと千富さんが」
「なに? お前、勝手に僕の部屋に入るわけ!? 誰の許可を受けたっていうの!」
「えと……。今こうしてお伺いしているわけですから、勝手ではないか、と。 それと許可については、今、雅さまにお聞きしているわけで」
 
 この鈍感オンナ。僕が怒ってるってこと、ドア越しじゃわかんないとでも言いたげなノンビリした口調にまた腹が立つ。 もう、もう! なんなの、アイツ。
 居れば腹が立つ。居ないと腹が立つ。怒っても腹が立つし、怒らなくてもイライラする。 もう、本当になんなの!?
 
「あの……。雅さま? カフェラッツェ……、というお飲み物が冷めてしまいます」
「カフェラテ! ヘンなところで発音変えない! もういいよ。入っても」
「はい♪ ありがとうございます!」
「お前、そこで調子に乗らない!」
 
 まったく。アイツと話すとすごく疲れるっていうのはいったいなんなの?
 博にいたっては、
 
『雅ってば、ハルと話しているときが一番生き生きしてるよね〜。すっごく楽しそう!』
 
 って見当違いのこと言ってヘラヘラしてるし。……今度そんなこと言ったら、博もこのゴミ使用人も、どっちも殺すから!!
 
「雅さま、失礼します」
 
 これだけ僕が声を荒げているというのに、ゴミ使用人は動じることなく、僕の机に配膳をしていく。カフェラッツェ……、じゃない!  僕までこんなバカ使用人の影響を受けるっていったいなんなの!
 カフェラッテはまだ淹れ立てのように真っ白な湯気を立たせ、それに、お茶請けかな? 最近横浜で評判だという『ビスカウト』が小皿を添えてある。
 
「素敵な香りのするお飲み物ですね。珈琲と牛乳……。千富さんがおっしゃるには今日は生クリィムというのを入れたのですって。 生クリィムというのは、志栄堂で売っているシュウクリィムの中のモノと同じなのでしょうか?」
「色が違うでしょ?」
「はい?」
「僕の想像だけれど、カフェラテに入っているのは純正の牛乳成分だけでできたもの。志栄堂のシュウクリィムのクリィムは黄色いでしょ? 多分卵と、それに砂糖が入っているんだ。だから名前は似ていても違う類のモノだね」
 
 僕の説明にコイツは目を輝かせて頷いている。
 
「そうなのですね! 初めて志栄堂のシュウクリィムを食べたときは、あんまり美味しくて、私、どうなるかと思いました。 ……今度は志栄堂で、『カフェラッツェ』を注文してみたいと思います!」
「カフェラテ! 何度言ったらわかるの?」
「は、はい。すみません。『カフェラテ』ですね!」
 
 ゴミ使用人は何度も、カフェラテ、カフェラテ、と口の中で僕の言ったことを繰り返している。
 好奇心いっぱいにクルクルと動く瞳。 些細な、……少なくとも僕にとってはとても些細な事象にさえ、声を上げて笑う口端。 その二つがともに起きるときは、コイツの頬はかなりの確率で朱くなる。
 
「ねえ、お前。飲んでみる?」
「はい?」
「カフェラテ。飲んでみる? って聞いてるの!」
「……はい?」
 
 ワケがわからないといった風情でコイツは僕の目を覗き込む。 考えてみればそうか。使用人が主である宮ノ杜と同じモノを食べると言うことは今までにもなかったことだし、 ましてや同じ食器を使うなんてことはありえない。コイツのためらいはむしろ当然。
 わかっているのに、僕はコイツにカップごとカフェオレを勧める。 ……こいつの困る顔が見たいから? それとも、カフェラテの味を知って、笑う顔が見たい?  どっちなのか自分でもわからない。
 
「あの……。もし私がタエちゃんだったら、絶対遠慮すると思うんです。それに、千富さんでも……。固辞っていうのでしょうか。絶対飲まないと思うんです」
「ふぅん。……で、お前は?」
「でも、ごめんなさい。私は好奇心には勝てません! いただいてもよろしいでしょうか?」
 
 下がり気味の眉は、僕の申し出を受け入れた瞬間、ますます下がって笑い出す。
 
「あ、熱いから……。ヤケドなんかしないでよね!」
「はい、あの、……いただきます」
 
 そっと持ち上げたコップはコイツの手には大きすぎるのか、ゴミ使用人は大切なモノを扱うかのように両手で持ち上げる。 そして遠慮しがちにコップの縁に唇をつけると、やがて乳白色の液体はコイツののど元を通り過ぎていったらしい。 真っ白な首がこくりと小さく波打った。
 人が使った食器を使う? そんなこと、今までの僕だったらあり得ない。たとえ、博の使った食器でも答えは否だ。 だけど、今の状況でいえば、僕は、このゴミ使用人が使ったコップを使って、残りのカフェラテを飲むことになる。 なのに可笑しい。 僕は、コイツが使ったコップを使うことが全然イヤじゃない。大歓迎、とはまったく言えないけれど、……そう。イヤじゃない。 これは僕に初めて生まれた、『名前の付けられない感情』。
 
「ま、雅さま……っ!」
「な、なに! 急に大きな声を出さない! ビックリするでしょ!?」
「すごく、すごく美味しいです!! 珈琲よりもずっとまろやかで。最初はちょっと苦いんですけど、 そのあとでクリィムが優しく慰めてくれるというのか……」
「……そう」
「そうだ、まるで雅さまみたいです!」
「は? どうして僕が飲み物と一緒にされなきゃいけないわけ!?」
 
 コイツの表現はいつも独特だ、と思う。生きている、というのか。歯に衣着せぬというのか。 日頃見慣れている高貴な出、だとかいう兄たちの見合い相手とは全然違う。 ふ、ふん。きっと田舎者で、遠慮ってことを知らないまま大きくなるとこんなオンナになるのかもね!
 ゴミ使用人は、口元に微笑みを浮かべたまま僕に反論してくる。
 
「はい……。えっと、最初は厳しいんですけど、あとから優しくしてくださるというのか……」
「は……?」
「えっと、そうだ。あの、お先にいただいてすみません。雅さまも飲んでみてください。 飲んでいただければきっと私の言っていることもわかっていただけると思います!」
「ぼ、僕が、お前と同じコップで飲めると思ってるの!?」
 
 最後のあがきだと自分で理解しながらも、僕は駄目出しをする。 僕には見当が付く。 多分コイツは僕の想定通りの返事をするに違いない。 そして僕は、ブツブツ文句を言いながら、こいつの言うことを聞き入れるに違いない。 そして、それを心地よく思っている自分もいたりするんだ。
 
「あ、あの! 雅さま。私、コップのこちらから飲ませていただきましたので、 ぐるりと回転させて、ですね……。こちらからお飲みになられてはいかがでしょう!」
「もう、お前、馬鹿馬鹿。本当に馬鹿!」
 
 口では悪態をつきながら、きっと僕の顔は怒り切れないまま、小さな笑みを浮かべているかもしれない。
 申し訳なさそうに笑うコイツを目の端に捉えながら、僕は敗北のため息をつく。
 
 
 
 ──── もう少しお前と早く知り合っていたら、もう少し、僕も楽しい毎日が過ごせたかもね。
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