*...*...* 月光 *...*...*
「望美さん、ご精が出ますね」
「あ、弁慶さん!」

 京邸の中庭。
 剣を置き、空を仰いでいた望美さんの背中に僕は声をかけた。

 本当にこの子は、白龍の言うように、『白龍の神子』なのだろうか。
 小さな顔に、細い肩。猛々しさとはまるで無縁の表情。
 うっすらと汗をかいた頬は上気して、清々しい空気に満ちている。

 ──── なるほど。
 仮に彼女が『白龍の神子』ではないとしても、この容姿なら別の使い道があるというもの。

 彼女が平家側について、あとでこんなはずではなかったと後悔するのもつまらないかと思い、
 僕は京で出会った彼女を源氏軍に引き入れた。
 問題は、といえば、今源氏を率いている九郎がなんと言うか、ということだったけど。
 武術に関心のある九郎には、彼女が剣の技である『花断ち』を習得すればいい、というところまでなんとか話を付けたところで、
 いったん僕は思案に暮れる。

(あとは本人のやる気、の問題でしょうか)

 宥めるか。脅すか、懐柔するか。
 僕は幾通りかの策を考えながら、ここ数日間彼女のことを観察していた。

 彼女が『白龍の神子』だという可能性が万に一つであったとしても。
 僕は僕の戦いを収束させるためにも、この子は手元に置いておいた方がいい。
 もし彼女が九郎の判断で源氏軍に不要となった場合、僕はこの少女をどう言い含めたものか。
 いや、彼女だけではない。
 異世界から一緒に来たという、彼女の幼馴染みまで共に来るのは必定、で。

 ふと見ると、目の前の少女は、手のひらを見つめて顔をしかめている。

「おや、どうしましたか?」
「はい……。ちょっと気合いを入れすぎたみたいです」
「見せてください。……これはいけませんね。すぐ手当をしましょう」

 彼女の手のひらには、広範囲にわたり皮膚が赤らんでいる。
 あと数回素振りを繰り返すことで、簡単に表皮が剥がれ落ちてしまうほどだ。
 僕は懐から細く裂いた布を取り出すと、彼女の白い両手に手際よく巻いていく。

「あまり無理をしてはいけませんね」
「……はい」
「そういえば、朔殿が君のことを探していましたよ?」
「ありがとうございます。じゃあ、ちょっと顔を出してこようかな」

 ──── わからないな。
 なにがこの子を、ここまでの剣の鍛錬に駆り立てているのだろうか。

 僕の言に微塵も疑いを持たないのだろう。
 どうにもこの子は、今まで人を疑うという環境下に置かれたことがないようだ。
 なのに、たまに見せる陰のある目は、幼馴染みさえ近寄るのを許さない鋭さがある。
 そうだ。僕が理解しがたいと感じるのは、彼女の持つこの二面性なのかもしれない。

「朔。どうしたの? なにか用だった?」

 僕は朔殿と無邪気に戯れている彼女の背中を、眼を細めて凝視する。
 16歳。彼女の元いた世界では、大人になるのがこちらの世界よりも少しだけ遅いのだろうか。
 僕とは異なる環境下で、愛情豊かな人たちに囲まれた少女時代を過ごしてきたのだろう。
 身に付けている衣装について、たわいない返事をしては笑い合っている。
 朔殿も、昨日今日知り合ったとは思えない親しさであれこれ彼女の世話を焼いていた。

「望美、今日は剣の鍛錬はやめてのんびりしたら?」
「うん……。だけど」
「あら、手はどうしたの?」

 とっさのことで隠しようがなかったのだろう。
 彼女は慌てて両手を後ろ手に組んで、僕の顔を見上げてくる。
 朔殿は肩をすくめ、大きなため息を一つついた。

「弁慶殿からも望美に言ってあげてください。今日の鍛錬はここまでにするようにと」
「そうですね……。薬師としては、今日と言わず、明日以降しばらくは鍛錬はお休みにして欲しいくらいですね」

 彼女が邸に入ってきたのを察したのか、台所の方から彼女の幼馴染みも加勢する。

「そうですよ。先輩。少しはゆっくりしたらどうですか? 今日の夕飯は昨日あなたが食べたいと言っていたものを作りましたから」
「え? 本当に? 本当に、この世界でオムレツが食べられるの?」
「先輩も少しは手伝ってください。……まったくしょうがない神子だな」

 自分より年下の譲くんにたしなめられて羞じらっている彼女は、どこから見てもごく普通の少女だった。
*...*...*
 夕餉をすませたあと、彼女は辺りを見渡すとそっと京邸の門を出ていく。
 僕は何気ない風を装い、袈裟を目深にかぶって後を追う。
 西空の底は薄白く、明日も京の街に朝がやってくることを伝えてくる。
 ふと目を当てた東の空には、まがまがしいほどの朱い月が静かに登り始めていた。

「おや……?」

 本通りを少し離れた賀茂川の下流で、饐えた匂いがする。
 振り返ってみるとそこには、三体の死体が、流れに逆らうようにたゆたっていた。
 野犬が鼻をひくつかせ、白い牙で片腕を引きちぎっている。

 ──── 腐敗した、世界。

 粗末ながらも活気のあるあの京は、一体どこへ消え果てたのか。
 知らず浮かんでくる憐憫の情を振り払うように、僕は彼女の後を追う。
 今日見た白骨は、明日の自分かもしれない身の僕は、同情を寄せる立場などにはない。

 僕の身体も魂もすべて、無に返る方がいっそ楽になれる。
 だけど、僕にはこの戦を始めた罪がある。すべてに決着をつける責任があるのだから。

 賀茂川の川縁を辿っていくと、やがて、剣で風を切る音が聞こえてくる。
 時折漏れる声は、明らかに僕が監視下におきたい彼女だった。

「望美さん」

 彼女の視界に僕の姿が入るよう、彼女の斜め前から話しかけたのにもかかわらず、
 黒い布は僕の存在をも消していたのか、すんなりとした影ははぴくりと肩をふるわせた。
 上気した頬。荒い呼吸の両脇には細い肩が見える。

「君は薬師の言うことは意に介さないようですね」
「ごめんなさい。どうしても、私……」

 怯えさせるのは本意ではない、と、僕は微笑みながら彼女と彼女の背景を見渡す。
 今なら、朔殿も、二六時中彼女の周りを離れない白龍もいない。
 僕は懐から懐紙を取り出すと彼女に差し出した。
 今なら、僕の都合の良いように、話を持って行けるかもしれない。

「感心しませんね。君が一人、こんな場所で剣の鍛錬をしてるのは」
「う……。その、昨日の夜は庭で練習してたんですけど、朔があまり眠れなかったみたいで」
「朔殿が?」
「はい。……あ、朔はなにも言わないんですよ? だけど、ちょっと今朝は眠そうだったから」

 僕に叱責を受けたと思っているのだろう。彼女はすっかり項垂れている。
 見るからに華奢な身体を、長い紫苑色の髪が覆う。
 うっすらと汗の膜を張った白い面輪は、高く上った月光の下、さめざめと輝きを増した。

「一度聞きたいと思っていたんです。それほどまでに君を鍛錬に駆り立てているものは、一体なんなのでしょう?」

 尋ねた途端、彼女の周りの空気が堅くなるのを感じる。

 ──── どうやら簡単に答える気はないらしい、ということか。

 僕は、やや優しさを交えた声で話を続ける。

「鍛錬に熱心なところは、君の美徳、とも言えなくもないですが、無理をしてはいけませんよ」
「ありがとう、ございます。私、大丈夫です」

 意外にもきっぱりとした口調で言い返され、僕は改めて望美さんの顔を見つめた。


「……さあ、帰りましょう?」

 月明かりの中を、泳ぐように歩き出す。その2、3歩後を、彼女は疲れた足取りでついてくる。
 ふと彼女の手を見ると、さっき僕が巻いた布はそこにはなく、手からは血が滲んでいるのが見えた。

「そんなに強くなりたい、ということは……。すべての怨霊を退治して、早く自分の世界に帰りたい、ということですか?」
「……違います!!」

 僕の問いがどんな風に彼女を刺激したのかはわからなかったけれど、彼女はそのとき初めて、僕に激しい動揺を見せた。
 本心を見せまいと顔を覆い、そして数秒後、今度は真正面から僕を見据えた。

「私のできること、精一杯やってから……。帰るのは、それからでいいんです」
「望美さん?」
「もう、後悔したくないんです」

 月光の下、僕は彼女の唇が動くのをただ見つめていた。
 彼女のその部位は、彼女自身の人格から一人歩きを始めたかのように小刻みに震え続けている。

(彼女に、一体何があったのだろう)

 知っておく理由もなかったし、知りたいと思う根拠もない。
 だけど……。

 彼女は何度か深く息を吐いたあと、やがて普段の明るい表情で笑った。

「あ、えーっと、暗いお話になっちゃいましたね。ごめんなさい。あの、弁慶さん、来てくれてありがとうございます」




 ──── 本当に、興味深い人だ。
 抗いがたい想いを、僕はこのとき初めて彼女に感じた。
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