*...*...* 翡翠 *...*...*
「『重ね合わせていく、『好き』の強さ』、か……」

 気持ちよく晴れた日、私は弁慶さんと自分の着物の洗い張りを済ませると、思い切り伸びをした。
 ちょうど真正面にあった太陽も、今は木々の影を長く落とす高さまで上り詰めている。

 慣れてしまえばラクなのかもしれないけれど、この世界は何もかもすべて手作業だ。
 また身につけている衣類が、Tシャツ、とかホットパンツ、というワケにもいかないし、
 なによりも洗濯機がないから、どうしても洗うのに手間がかかる。
 だから、着物そのものを汚さないように、たとえば、換え襟、だとか、簡単な前掛け、だとか。
 小さな端切れを使った工夫が至るところにあるんだ、って、この世界にとどまって3ヶ月を経た今、ようやく知った。

「精が出ますね」
「あ、弁慶さん! はい。久しぶりにいい天気だったから」
「ふふ。景時よりもだんだん手つきがよくなってきましたよ?」

 日頃は町の薬師として忙しい日々を過ごしている弁慶さんも、10日に1度はこうして、ゆっくりとした時間を過ごしてくれる。
 もっとも、それは私との時間を作るため、というよりもむしろ、弁慶さんの勉強の虫が騒ぎ出して、ということらしい。
 弁慶さんは、あまり自分自身のことを話したりしないけれど、京には昔からの知り合いがたくさんいるんだろう。
 2日に1回は、弁慶さんと私の住む庵に、大きな包みが送られてくる。
 中身は、薬草であったり、くるくると巻かれている巻物……。この世界で言えば、本のたぐい。
 それが少しずつうず高くなる頃、弁慶さんはそわそわし始める。
 その様子は、小さな子どものようで見ていて飽きない。

 そうだ。一度でいいから弁慶さんと一緒に私の世界に戻って、近くの図書館を見せてあげたい。
 日本のだけじゃない、英語で書かれた本や、キレイな色で書かれている絵本も。
 この人だったらどんなに喜んでくれるだろう。

「あ、今ね、弁慶さんにお茶を持って行こうと思っていたところなんです」
「いいですね。……僕も君の話が聞きたいと思っていたところだったんですよ」
「私の話?」
「ええ。君の世界の話は面白くて、僕の興味が尽きることがない」
「はい。じゃあ、すぐ準備しますね」

 私にとって見れば当たり前、と思える話でも、弁慶さんにはいろいろ発見があるらしい。
 どんな話でも興味深そうに聞いてくれるのが嬉しくて、私はいそいそとお茶を入れる準備を始めた。
 ちょうど昨日、患者さんからもらった、唐菓子がある。
 甘草、という甘みをつけたお菓子は、この時代では滅多に手に入らない貴重品だもの。
 弁慶さんが喜んでくれるといいんだけど。
*...*...*
 日当たりのよい縁側にお茶とお菓子を並べて、私は弁慶さんの前に座った。
 ずいぶん、葉の量と湯の温度に気を使ってみたけれど、湯飲みの中のお茶はかなり頼りない色をしている。

『自然界の葉の色に合わせると案外上手くいくかもしれません』
『葉の色……』
『夏は濃く、秋は優しく……。初夏のこの季節なら、『翡翠』でしょうか?』

 何回か茶の淹れ方を弁慶さんに教えてもらったけれど、えっと……。これでいいのかな?
 そのことを思わず口にすると、彼はうっすらと微笑んだ。

「お茶を淹れることと、薬を煎じることはどこか似通ってますからね。君もだんだん上達するでしょう。大丈夫ですよ」
「えっと、……頑張ります! それで、その……、今日はなんのお話をしましょうか?」
「そうですね。……さっき、君が歌っていた歌はなんですか?」
「え? 聞いていたんですか?」
「可愛いものはなんでも好きなんですよ。可愛い声で歌っているものは特にね」
「あ、あの! お願いだから、あまりからかわないでください……」
「心外だな。僕にはそんなつもりはないのだけれど」

 久しぶりの天気が嬉しくて、私、結構大きな声で歌っていたかも……。
 それに、聞かれるなんて想像もしてなかったから、かなり恥ずかしい歌詞を歌い続けていたかも!

「これも、僕という環境に君が馴染んでくれたのかと思うと、素直に僕は嬉しいんです」
「は、はい……」

 この人はどうしてこう臆面もなく、恥ずかしいことを言えちゃうんだろう。
 そして私はどうしてそのたびに、こそばゆい思いとともに、疼くような痛みに捕らわれるのだろう。

 こうして穏やかな日々が続いて。
 この前一緒に弁慶さんのご両親の墓前も訪ねて。
 弁慶さんの心を素直に信じられる今になっても。それでも、私は。
 ふいに、弁慶さんは自分の前から消えてしまうんじゃないかと思ってしまう。

『大丈夫ですよ。さあ、僕にその鏡を』

 信じて渡した鏡は、少しずつ大好きな人の影を薄くしていく。
 掴もうとして伸ばした手がそっくり彼の身体をすり抜けたときの感覚は、今も忘れられない。

(もう、絶対消えていかないで)

「望美さん?」
「あ、えーっと。そう、さっきの歌なんですけど……。自分への応援歌なんです」
「応援歌……」
「そうですね。……その、歌うと元気になる歌、って言えばいいのかな」

 口に出して、言葉に詰まる。
 弁慶さんが、清盛さんと戦って浄化されてしまったとき。もう一度時空を超えたいと願ったとき。
 私、ずっとこの歌を歌ってきたんだ、って。

『泣くことさえ、愛に変えて』

 そうだ、泣いてる暇があったら、もう一度頑張ってみよう。
 あの人が、源氏を裏切るのは何か理由があるはずだもの。
 自分が死ぬことで、何もかも帳消しにするなんて、ひどい、って。

「──── 愛らしい瞳が潤んでいますよ。どうやら僕はここでも咎人のようですね」
「あ、いえ! あの……。これは、私が勝手に!」

 すっかりぬるくなったお茶を飲み干す。
 春が来て、少し時間が過ぎたからかな。空からうぐいすの声が降ってくる。



「私、今は、弁慶さんが近くにいてくれるから、いいんです」
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