朝餉が終わると同時に、望美さんは自分の器を手に立ち上がる。
幼馴染みだという青年は、中腰になると彼女の動きを制した。
「いいですよ。先輩。気にしないでください。あとは俺がやります」
「で、でも!」
「また、この前みたいに茶碗を割ることがあったら、却って景時さんたちに申し訳ないでしょう?」
「それは……っ」
讓くんの返事に、望美さんはきまりが悪そうな顔をして、朔殿を見、そして白龍を見る。
そして、最後に僕の様子に気づくと、さらにすまなそうな表情を浮かべた。
「じ、じゃあ、ごめんね? ごちそうさま。私、剣の稽古をしてくる!」
「俺も朝食の片付けをしてきます。一緒に行きましょう」
彼女と讓くんが小気味よく席を立ったあと、九郎はしかめ面をして、茶碗の中の白湯を飲み干した。
「……まったく。女の手遊びか。いつまでも結構なことだ」
「九郎」
「そろそろ諦める頃だと思ったんだがな」
「……そうでしょうか?」
「そうに決まってる! 一体何が楽しくてあんな鍛錬を女が続ける必要があるというんだ」
僕はため息で返事を返すと、そっと彼女が向かった中庭の方に目を向けた。
*...*...* 五条 *...*...*
このとき、景時の館にいる僕たちは、時折平氏の動向を探るため、午後の時間を見繕って京の町を見て回った。午前中は、朔殿も譲くんも日常の雑事に追われているようだったこと。
僕は僕で朝の清々しい時間に目を通したい書物があったということ。
それになにより、朝餉を囲んだあとの時間は、普段にも増して望美さんが、剣の鍛錬に打ち込んでいたこと。
もろもろの理由が重なって、出かけるのはいつも昼を少し過ぎたあたりだった。
「望美。今日は天気に恵まれて良かったわね」
「うん。こうしてると怨霊の存在がウソみたいだよね」
「本当にそうですね。怨霊さえいなければ、この町は、前いた僕たちの国の昔の時代に似ているんです」
「あら、そうなの? 譲殿」
「ええ、まあ」
とかく家に居ると剣を握ってばかりの望美さんが心配なのか、朔殿は彼女の気を引き立てるように話しかけている。
それが彼女も嬉しいのだろう。
僕と対峙するときとは違う伸びやかな表情で笑っている。
そんな彼女の隣りを白龍は軽い足取りで追いかけ、讓くんは愛しくてたまらないといった様子で見つめている。
春が訪れたばかりの京は、顔を上げればのどかな景色を見せてくれるものの、以前の満ち足りた空気はどこにもない。
ふと目を凝らせば、平家がこの地を逃れるために火を放った痕があちこちに残っている。
「おや? どこかで声がしますね」
神泉苑のすぐ近く、五条大橋にさしかかったとき、僕たちはかすかなうめき声を耳にした。
欄干に手を当て覗き込むと、そこには自分で動くこともままならないような人が数人、苦痛に顔をゆがめている。
僕は懐に入れておいたあるものの存在を確かめると、誰に告げるでもなく話しかけた。
「すみません。……みなさんは先に行ってもらえますか? 僕は少し用事ができました」
神泉苑のような美しさも、六波羅のような活気もない、荒れ果てた場所で足を止めた僕に、讓くんは不審そうな目を向ける。
朔殿はこの饐えた雰囲気が苦手なのだろう。ぼんやりと僕たちを見つめている人たちの視線に眉をひそめていた。
「弁慶さん、突然、どうしたっていうんですか?」
「讓くん、安心してください。すぐに戻ります」
自己満足か。自己欺瞞か。
自分の内側で、もう1人の自分が、僕の愚行を笑っている。
『こんなことをして一体何になるというのだ。原因を作った男の戯れか? ……愚かしいことよ』
どこかでせせら笑う声さえも聞こえてくる。
でも、かまわない。
──── 僕は僕のできることをする。
「突然すみません。……では、また夕刻に」
一歩足を踏み出したとき、僕は背中に思ってもみない声を聞いた。
「私も一緒に行ってもいいですか?」
*...*...*
「あなたは、弁慶先生!」「お久しぶりですね。脚の具合は良くなりましたか?」
「ええ、ええ! 弁慶先生のおかげですっかり良くなりました」
襤褸のような粗末な衣をまとった患者が尋ねてくる。
声には聞き覚えがあるけれど、それが2年前僕が診ていた患者の1人だと気づくのに、少しばかりの時が必要だった。
望美さんは一瞬びくりと身体を震わせて、僕の後ろで小さくなる。
それもそのはず。患者の顔半分は、赤紫色の潰瘍で大きく崩れていたからだ。
「弁慶先生、いつ、戻ってきてくださったんで?」
「残念ですが、長居はできないんですよ」
僕は質問には答えずに簡単に結論だけを告げる。
僕のこういうところを兄は、本当にしたたかなヤツと言って笑うが、僕から言わせれば、正直時間が惜しい。
僕にはやらなくてはいけないことがある。
僕は目の前の患者に問いかけた。
「京に来たものですから薬を置いていこうと思ったんですよ。昔の小屋はまだありますか?」
「はい。みんな弁慶先生が帰ってきてくれると思って修繕していたんですよ」
「ありがとう。直してくれた小屋を見るのが楽しみだな」
それから僕は五条河原にある小屋で、怪我人や病人を診察して薬を分け与えた。
噂を聞きつけたのだろう。次々と人が集まってくる。
昨日一昨日と眠る時間を割いて作った丸薬は、あっという間になくなってしまった。
これから陽気の良い季節を迎えるからだろうか? もっと、皮膚の病に対する薬を用意するべきだった。
皮膚の病も侮れない。身体が弱っている彼らは、どんな些細な病も命取りになる。
薬を配り終わり、だいたいの診察が済んだ後でも、彼らは思いを口にすることで気が紛れるのか、声高に話し続けた。
「ええ、弁慶先生。今年の冬ほど不安な冬はありませんでした。
平家のみなさんは置き土産のようにあちこちに火をつけるし、
ちょっと前まではこんな話をすれば、『平家の悪口を言った』と、しょっ引かれていった人も数知れず」
「そんな恐ろしいことがあったのですか」
「はい……。もう、京は終わりでしょうなあ」
望美さんは静かに話を聞いている。
真剣に耳を傾ける姿がみなの空気を和ませるのだろう。
最初は人見知りをしていた町の人間たちも、今では彼女に向かって切々と現状を訴えている。
──── 彼女は、気の利いたことが言える人柄ではない。
剣の鍛錬から見るに、ただ一途で、不器用で。
だが、この場に置いたことで、初めて僕は知る。
神子と呼ばれるこの女の子は、どうやら人の感情をそっくりそのまま受け取るという素直な気質であるようだ。
嬉しい話を聞いたときは、話している本人以上に嬉しそうな顔をする。
悲しい話を聞いたときは、目尻に涙を浮かべる。
神子の歳まで意識したことはなかったけれど。
確か譲くんが言っていた。彼女はまだ16歳だと。
名残惜しそうに何度も手を振る人たちから離れて、僕と望美さんは肩を並べて歩き出す。
暮れなずむ山々は、急に京の町を閑散とさせる。
そんな薄暗闇の中、望美さんの声は弾んでいた。
「弁慶さん今日はお疲れさまでした。あの、ボランティア、っていうのかな。あ、それは私の世界の言葉かな。
あの、……弁慶さんと一緒に、今日は私、すごくいいことができた、って思います」
無邪気に喜んでいる望美さんの横、僕は、淡々と事実を告げる。
「僕の薬なんてたいしたことないんです。この鴨川の中の一滴のようなもの。助けを必要としている人に対してあまりに無力です」
「……そうですね……。別の方法を考えてはどうでしょう?」
「別の方法?」
「そうです。さっきみんなの話を聞きながら、私、ずっと考えてたんです。
それで、私の世界とこの世界の違いは戦いがあるかないかだ、って思ったんです。
……もし、この世界に争いがなくなれば、もっとみんな豊かに暮らせますよね?」
「そうですね。……この界隈もずいぶん変わりました。昔は粗末ながらも活気のある場所だったんですよ?」
「ここに活気が?」
望美さんは不審そうに周囲を見渡すと驚いた表情を浮かべている。
夕餉の支度が始まったのだろう。
あちこちに建てられている小屋からは細い煙が立ち並んでいる。
中には、食べるものもないのか、作る気力もないのか。……多分両方だろう。
いや、もっと言えば、その小屋の持ち主はとうに死に絶えているのかも知れない。
煙一つ なびかない小屋もあった。
「これも京から龍神の加護が失われてしまったからでしょうね」
「白龍が力を失ったから京が荒れているんですか? 私が龍神の力を集めたら元どおりになるんでしょうか?」
「少し違いますね」
望美さんは真剣な眼差しで僕の口元を見つめる。
彼女の、こういうところが僕の解せないところだったりする。
だが、彼女の好奇心旺盛なところは、悪くない。
いやむしろ好ましいとも言える特性だ。
僕は平氏の屋敷でのぞき見た書物を、頭の中で紐解いた。
この京を見守っていたのは、応龍という神だったこと。
先代の龍神の神子は応龍の調和を取り戻したこと。
動と静、光と病み、世界を形作る陰陽が絡み合い調和した存在が応龍であること。
「今、白龍と黒龍は分かれて存在している。それこそが調和を崩し、応龍が失われた証です。
京は応龍。まったき龍神の守りの元で、数百年の栄華を極めた。しかし、加護を失った今、次第に廃れていくのかもしれません」
「この都が廃れてしまう?」
「そうならないためにも手を尽くさなくてはなりません。失われた応龍を再び取り戻すために」
どこからか花咲く匂いがする。
春はすべてが芽吹く季節だ。
木も、草花も。──── そして、僕の罪悪感も。
自分の力を試したい。
そんな未熟な願望の元、応龍を滅してしまったのも、生暖かい春の風が吹く頃だった。
「すみません。ずいぶん時間を取らせてしまいましたね。そろそろ行きましょう」
「はい……。あの、今日は邪魔をしてごめんなさい」
「そんなことはありませんよ。……ただ、僕にとっても意外な助言を聞くことができたかな」
「はい?」
「さあ、行きましょう。君の幼馴染みが心配している頃でしょうから」
僕にとって未だに彼女は謎めいている。
『なにか別の方法を考えてはどうでしょう?』
端的にそれだけのことを告げるのは、只人には難しいはず。
日没が近い春の闇の中、僕の横を歩く望美さんを見つめる。
彼女は僕に気づくことなく、伏し目がちに何か考え込んでいる。
──── この神子と言われる少女は、今まで一体何を見、何を感じてきたのだろう。